「埋め立て地として多くの人びとの日常的な生活圏と生活史の外側に存在してきたお台場=臨海副都心の場合、周囲の地域との生活空間上の連関も、紫華街や盛り場として引き継ぐべき歴史的文脈も最初から存在しない、「手つかず」の「フロンティア」なのだから、そこに作られる施設や建物がその内外に散りばめる記号やイメージ、それらを全体として枠付けるコンセプトは、恣意的であることが必然的なのだ。それはまた、そうしたコンセプトや記号、イメージをその土地の空間や歴史に依存することなく調達しなくてはならないということでもある。[続]」
「[承前]パルティーレ東京ベイやヴィーナスフォート、台場一丁目商店街といった施設が徹底的に内向きで外部に対して閉じた構造をもつことは、この「恣意性の必然化」や「自己準拠化」と無関係ではない。この時、個々の施設にとって周囲の都市空間は、何ら積極的な意味をもたない「余白」のような位置しか占めていないのである。」(:16、若林幹夫)のっけからショッピングモール!
「野宿直前の住居は、地域差はあるが、やはり飯場や簡易宿泊所、寮や住込みといった失業が同時に住居の喪失を意味する不安定な居住形態が目立つのである。つまり、野宿者の多くは、潜在する「見えないホームレス」が「見えるホームレス」となった部分であるといえる。」(:76、西澤晃彦)
「戦後における郊外の膨張は、戦前からのホームの空間の拡張過程と整合的に展開したものといえる。郊外は、家族的、定住的、組織的人口を集めた、実体化されたホームの空間である。郊外開発における計画と価格設定は居住者を階層的にふるい分け、極めて均質な近隣の形成を促した。また、郊外への移住が結婚、出産を契機として行われたため、新しい居住地は若夫婦と子供からなる核家族を選別した。[中略]戦後の郊外に浮び上がった大衆化されたサバーバニズムは、「よき国民」像に内実を与えるものだったといえる。」(:80-81、同)
「「生活保護ビジネス」は、「高齢者」「病人」「子ども(とその母親)」など温情主義的な保護の対象ーそこでの保護はスティグマ化を伴うーとはみなし難くかつ住所がない貧窮者を排除する福祉事務所の慣行(この慣行には法的根拠がない)を前提にした、隙間産業である。圧倒的に男性が多く六〇代ではなく五〇代に山がくる野宿者の人口構成の偏りは、こうした慣行によっても作られてきたといえる。社会福祉行政は、貧窮の原因ではないが、貧窮者のうち誰が野宿をするに値するかを決する弁別装置となっているのである。」(:83、同)
鈴木大介『ギャングース・ファイル』では、「不良」がカタギの道に戻る契機として恋愛・結婚が挙げられていたが、西澤晃彦「ホームレスの空間」で述べられている通り、それは、相手との関係が破綻すれば元の状態に逆戻りしかねないということでもある。
田中研之輔「新宿ストリート・スケートボーディング」で挙げられる「ストリート文化の記述をめぐる「危うさ」」は、あらゆる文化批評において重要な指摘だ。対象の営みに「支配的な権力作用を転覆させる <抵抗>の契機」を見いだすことは魅力的だが、そこには「観察者によるレッテル貼りの行為の一端を担い、現実からの遊離を引き起こす危険性」がある。さらに、「下位文化の「非日常性」という視点に拘泥」すれば、それは彼ら/彼女らの行為の「日常性」を切り捨てることに繋がってしまうのだ(:115-116)。
「ある地域に暮らす人びとの多くが当該の地域内部にではなく、そこから通勤可能な都心に就労しているということは、農村や伝統的な都市とは異なり、生活の糧を得るための生産・流通活動を通じて人びとがその地域に結びつく契機が存在しないということだ。郊外住民にとってある地域に居住するということは、都心に通勤可能な同程度の条件の地域の中から選択可能な住居を一つ選択するという、言ってみれば偶有的な事態である。」(:142-143、若林幹夫)
割と何でも読む。お気に入りの本を「365冊」本棚に入れています(自分にとって大切な本、すごく面白かった本などを、蠱毒みたいに365冊集めようという計画)。「参考文献」は研究関係(ジェンダー、セクシュアリティ、BL、ファンダム、精神分析、現代思想などなど)。感想・レビューはコメント欄に続きを書くことがあります。
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます
「埋め立て地として多くの人びとの日常的な生活圏と生活史の外側に存在してきたお台場=臨海副都心の場合、周囲の地域との生活空間上の連関も、紫華街や盛り場として引き継ぐべき歴史的文脈も最初から存在しない、「手つかず」の「フロンティア」なのだから、そこに作られる施設や建物がその内外に散りばめる記号やイメージ、それらを全体として枠付けるコンセプトは、恣意的であることが必然的なのだ。それはまた、そうしたコンセプトや記号、イメージをその土地の空間や歴史に依存することなく調達しなくてはならないということでもある。[続]」
「[承前]パルティーレ東京ベイやヴィーナスフォート、台場一丁目商店街といった施設が徹底的に内向きで外部に対して閉じた構造をもつことは、この「恣意性の必然化」や「自己準拠化」と無関係ではない。この時、個々の施設にとって周囲の都市空間は、何ら積極的な意味をもたない「余白」のような位置しか占めていないのである。」(:16、若林幹夫)のっけからショッピングモール!
「野宿直前の住居は、地域差はあるが、やはり飯場や簡易宿泊所、寮や住込みといった失業が同時に住居の喪失を意味する不安定な居住形態が目立つのである。つまり、野宿者の多くは、潜在する「見えないホームレス」が「見えるホームレス」となった部分であるといえる。」(:76、西澤晃彦)
「戦後における郊外の膨張は、戦前からのホームの空間の拡張過程と整合的に展開したものといえる。郊外は、家族的、定住的、組織的人口を集めた、実体化されたホームの空間である。郊外開発における計画と価格設定は居住者を階層的にふるい分け、極めて均質な近隣の形成を促した。また、郊外への移住が結婚、出産を契機として行われたため、新しい居住地は若夫婦と子供からなる核家族を選別した。[中略]戦後の郊外に浮び上がった大衆化されたサバーバニズムは、「よき国民」像に内実を与えるものだったといえる。」(:80-81、同)
「「生活保護ビジネス」は、「高齢者」「病人」「子ども(とその母親)」など温情主義的な保護の対象ーそこでの保護はスティグマ化を伴うーとはみなし難くかつ住所がない貧窮者を排除する福祉事務所の慣行(この慣行には法的根拠がない)を前提にした、隙間産業である。圧倒的に男性が多く六〇代ではなく五〇代に山がくる野宿者の人口構成の偏りは、こうした慣行によっても作られてきたといえる。社会福祉行政は、貧窮の原因ではないが、貧窮者のうち誰が野宿をするに値するかを決する弁別装置となっているのである。」(:83、同)
鈴木大介『ギャングース・ファイル』では、「不良」がカタギの道に戻る契機として恋愛・結婚が挙げられていたが、西澤晃彦「ホームレスの空間」で述べられている通り、それは、相手との関係が破綻すれば元の状態に逆戻りしかねないということでもある。
田中研之輔「新宿ストリート・スケートボーディング」で挙げられる「ストリート文化の記述をめぐる「危うさ」」は、あらゆる文化批評において重要な指摘だ。対象の営みに「支配的な権力作用を転覆させる <抵抗>の契機」を見いだすことは魅力的だが、そこには「観察者によるレッテル貼りの行為の一端を担い、現実からの遊離を引き起こす危険性」がある。さらに、「下位文化の「非日常性」という視点に拘泥」すれば、それは彼ら/彼女らの行為の「日常性」を切り捨てることに繋がってしまうのだ(:115-116)。
「ある地域に暮らす人びとの多くが当該の地域内部にではなく、そこから通勤可能な都心に就労しているということは、農村や伝統的な都市とは異なり、生活の糧を得るための生産・流通活動を通じて人びとがその地域に結びつく契機が存在しないということだ。郊外住民にとってある地域に居住するということは、都心に通勤可能な同程度の条件の地域の中から選択可能な住居を一つ選択するという、言ってみれば偶有的な事態である。」(:142-143、若林幹夫)