2024年10月の読書メーター 読んだ本の数:35冊 読んだページ数:7812ページ ナイス数:60ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/684547/summary/monthly/2024/10
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』における女性観はラカン的だ。「文楽芝居の人形が人間以上に「女らしさ」を感じさせるのは、人形が女の指標を徹底的に排除したからだ」「文楽の舞台で活躍する小春や三勝が女であることを示すものは、わずかに顔と両手の先だけに過ぎない。肝腎の身体は衣裳で隠されている。」「「女らしさ」は、人形本体のものではなく、本体を包み隠す闇から生まれてくる。」(:184-185、高階秀爾)容貌・姿態ではなく声や香り、手触りといった断片の集積としての「女性」。
「ゲバラは医学の革命を望むには先に革命家になる必要があったと述べる。革命という言葉はいかめしいが、社会を変えなければ医学を正しく生かせないという意味だと考えれば、専門家の声に政府が耳を傾けないので感染を抑えきれないコロナ禍の日本の現状にも見事に該当する言葉ではないか。」(:215、武田徹)
「アートは美術館や金持ちだけに許される特権とされてきた、あまりにも長く。アートは金儲けじゃない! 銀行のものでも、おしゃれな投資家のものでもない、アートは食べものなのだ。アートを食べはできないけれど、アートは君を生き延びさせ、育ててくれる。アートはチープで、だれにでも手に入れられるものでなくちゃならない。アートはどこにでもあるべきだ。だってアートは僕らの生きる世界のうちにあるものだから。」(:222-223)
「①資本の論理とは、交換の動機づけを得るために、空間的・時間的・記号的差異を自己調達する資本の行動原理のことである。つまり、資本はつねに共同体(内部)の外部を〈発見〉もしくは〈創出〉しなければならない。②広告は、差異を創出する資本の技術であり、私たちの日常生活と資本の論理とを媒介するメディエイターである。」(:23)
「受け手の視覚・聴覚・触覚へと働きかけ」る広告が規制された結果、「かえって視覚という局所的な身体感覚を極限まで発達させていく。その成果が、雑誌や新聞、そしてポスタ 1におけるグラフィカルな広告様式の開拓であり、また、ショーウィンドウや店内装飾などの三次元的な視覚装置の発明、ネオンや大規模な装飾看板広告の開発であった。」(:55-56)
「一九七〇年代以降のショッピングモールとは、金銭消費型から滞在・滞留型へと進化します。つまりは、消費をするために集まった人びとにお金を使わせることが、本来のモールの消費の在り方でしたが、七〇~八〇年代のモールは、足を運んだ人に消費の機会を突きつけるというものに変化したのです。」(:153)
「ショッピングモールは、業態で言えば不動産業、不動産賃貸業に属します。デベロッパーと呼ばれる開発主体が、箱となる建物の計画、設計、建築を行い、賃貸としてその売り場を提供するビジネスを行っています。モールの場合、デベロッパーが運営するのは、箱となる建物全体で、店舗の運営は個々のテナントとして入居した店子が行います。一方、デパートは、小売流通業の一形態で、基本的には仕入れた商品をデパートの店員が販売しています。」(:172)
『モナ・リザ』は複数存在する(ダ・ヴィンチと弟子サライの関係性が最高)、まるで萌えキャラ(または戦闘美少女)のようなアンヘル・アルカベセロ、リチャード・ダッド『お伽の樵の入神の一撃』、ゴヤの『黒い絵』。『ヘリオガバルスの薔薇』のグロテスクさ、アブラモヴィッチのパフォーマンス・アート。
「私の友人にあまりの暴力性の強さに周りが怯え、学生時代ひとりも友人がいなかったという男がいる。その男は、「人に避けられたときに一番孤独を感じる」と言っていた。/自分が怖いのが悪いわけではあるが、「怖がっていないフリ」をしながら距離をとられるとさらに殺してやりたくなるという。」(:170)ここもなかなかすごい、そして含蓄あるくだりだ。
「ラブホテル健設を訪ぐために定められた条例が、逆に連れ込み宿のような部屋を増やす原因になっている[中略]ラブホテルにとって厳しい条例が定められても、その条件を呑んで十五平方メートルほどの部屋をいくつも作って新築のホテルが建てられることはある。狭い部屋は料金を安くせざるをえない。そうすると、未成年やホテルヘルスなどの利用率が高くなり、逆にいかがわしいホテルになってしまう可能性が高い。[続]」
「ホテル側も氾罪などには当然関わりたくない。できれば広くていい部屋をたくさん作って、ホテルの質も客単価も上げたいと考えている。しかし、条例があるのでできない。そのような皮肉な循環が起きているのが現状なのである。」(:112-113)
「祭りの賑わいにノスタルジーを感じながら、それを規制する法が作られてしまえば、上から与えられた暴力集団を見るまなざしをまるごと受け入れて職人集団を眺める。彼らが街を追いやられても、もう、それ以上関心を向けることはない。[続]」
「かつて職人集団が街中でどう暮らし、どう商売していたか、自分たちとどう付き合っていたか、自分たちの親や爺ちゃん婆ちゃん世代が、肌で知っていた機徴を忘れる。もたらしてくれていたものも、まとめてあっさりと捨て去る。街を退屈にし、息苦しくしていく似たような組み立ての仕打ちが、あちこちで起きてはいないかー。」(:332-333)
田中研之輔「新宿ストリート・スケートボーディング」で挙げられる「ストリート文化の記述をめぐる「危うさ」」は、あらゆる文化批評において重要な指摘だ。対象の営みに「支配的な権力作用を転覆させる <抵抗>の契機」を見いだすことは魅力的だが、そこには「観察者によるレッテル貼りの行為の一端を担い、現実からの遊離を引き起こす危険性」がある。さらに、「下位文化の「非日常性」という視点に拘泥」すれば、それは彼ら/彼女らの行為の「日常性」を切り捨てることに繋がってしまうのだ(:115-116)。
「ある地域に暮らす人びとの多くが当該の地域内部にではなく、そこから通勤可能な都心に就労しているということは、農村や伝統的な都市とは異なり、生活の糧を得るための生産・流通活動を通じて人びとがその地域に結びつく契機が存在しないということだ。郊外住民にとってある地域に居住するということは、都心に通勤可能な同程度の条件の地域の中から選択可能な住居を一つ選択するという、言ってみれば偶有的な事態である。」(:142-143、若林幹夫)
『新宿、インド、新宿』にも収録されていた、浄水場跡地の足跡だらけの雪道の写真。これがすごく好きだ。多くの人が来て、そして去っていった道を、自分もまた歩いている。一人で。それは決して悲しいことではない。
桐野夏生の解説より。「車での移動は、観念的な経験である。今でこそ、ナビがあって緑上の移動というイメージを持つようになったが、元々は、時間の過ぎ方がそれぞれの意識に刻まれるものだった。鉄路の移動は、逆に肉体的経験に近いかもしれない。」(:337)
割と何でも読む。お気に入りの本を「365冊」本棚に入れています(自分にとって大切な本、すごく面白かった本などを、蠱毒みたいに365冊集めようという計画)。「参考文献」は研究関係(ジェンダー、セクシュアリティ、BL、ファンダム、精神分析、現代思想などなど)。感想・レビューはコメント欄に続きを書くことがあります。
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