2018年、昨年秋から時間の余裕が生まれ、まとまった読書と、その記録として読書メーターをはじめて3ヶ月余り。・・・
幼年期の読書は世界に驚き、少年期の読書は世界に目覚め、青年期の読書は世界との関わりを模索し、中年期の読書は、あるいは疲れる世界との関わりを癒やすとして・・・老年期の僕の読書は、それぞれの時期に世界とどう関わってきたか・・・読んだ本、読まなかった本・・・を・・・あらためて読書しながらアーカイブして行こうと読書とその記録として読書メーターを始めました。
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ペーシを開くと、20歳の時に読んだ詩の言葉が一字一句浮かび上がり僕のなかでリフレインされました・・・ それでは行ってみようか、君も僕も、 手術台のうえに乗せられて麻酔をかけられた患者のように 夕暮が空いっぱいに這いのびているころ。行ってみようじゃないか、うち捨てられたひとげのない街々をとおり 落ちつかぬ夜毎々々、つぶやき声の洩れてくるひとばん泊まりの安宿の奥まった隠れ場所や、 牡蠣殻とおが屑のちらばった飲み屋のある街々・・・はてしのない街々を通りぬけ・・・「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」
1950年代半ば、僕が10歳の頃、僕は当時、戦後バラックが限りなく広がる池袋駅西口近くに住んでいました。迷路のような路地・・・溝が這い廻り、捨てられたゴミは濡れて、やっと通れる狭さ・・・犇めき合う飲み屋、木賃宿、どぐろを巻いた蝮の入った沢山の広口瓶を置いた蛇屋、花札やトランプのカード屋など・・・少年の好奇心だったのか・・・僕はよくその昼間の静かな路地をうろつき廻りました・・・エリオットの詩は僕の都市のその猥雑な原風景と強く結びつきました。そしてエリオットの詩の世界「荒地」「うつろなる人々」へと・・・