読書メーター KADOKAWA Group

読んだ本
207

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ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2020/05/12(1663日経過)
記録初日
2020/05/12(1663日経過)
読んだ本
207冊(1日平均0.12冊)
読んだページ
57913ページ(1日平均34ページ)
感想・レビュー
129件(投稿率62.3%)
本棚
1棚
性別
年齢
38歳
URL/ブログ
https://twitter.com/rN1oO71GTPiEMks
自己紹介

コンサルタント兼AIエンジニアです。製造業の開発職から転職しました。軽めの専門書が好きで、広く浅く読んでいます。
知識が自分を作る。そう考えると自分の本棚は自分を俯瞰するのに最適のツールだと気づき開始。ただ本以外からも知識は得るし、それこそ体験から学ぶことも多いので、思っていたほどまとまらないことにも気づく。
毎年読書の総括を書いていますが、学んだこと自体ではなく、学んだことから発想したことや気づいたことを書いているので、読書総括という感じでもなくなってしまった。

2023年読書総括
今年のベストヒットは「ストーリーは世界を滅ぼす」だろう。この本では物語の影響力の強さと、ある種の万能さを語る。物語に関する本にハマったきっかけは、以外にも「世界最強記憶術 場所法」という本で、人間の脳は数字などを記憶するのには適しておらず、一方で場所に関わる記憶には強いため、記憶競技の参加者は主に場所法を利用しているらしい。そして、場所法以外の有力な方法として物語で記憶するという方法を、本書では説明している。要するに場所と物語は記憶し易いのだ。この2つは社会科目の地理と歴史に対応しているように見えるのが面白い。記憶として覚えやすい=人間にとっては非常に重要 なのではないかと考えたのが、物語を重要視するようになったきっかけだ。
意識に関する本もここ数年で読み始めている。そして意識がどうやって発生するかというHowの部分に関しては「意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論」でおおよそ理解することができた。一方でWhyの部分、なぜ意識が存在するかに関しては結構謎であった。しかし、リベットの実験、盲視、分離脳の実験などを学ぶことで、意識は傍観者・後付けとしての仕様・性質を持つということは分かってきた。分離脳の実験では分離脳の患者の、左脳には歩く様に指示して、右脳にはなぜ歩いたかと質問すると、分からないと答える代わりに「飲み物を取りに行くため」というでっちあげの回答をしており、意識とは物語を作りそして信じ込むという、システムを持つということを理解した。これらの知見からすると、人間はイベント(出来事)を覚えやすくする目的で、複数のイベントを物語の形式に整理するために、意識を利用しているらしい。これは先述の記憶術での脳の活用のしかたと全く同じに見える。記憶術とは単に意識を(より強く)使う方法ではないかと、そしてより重要かつ衝撃的なのはその逆の事実である。意識とは単なる記憶術であると。「○○が起きたから××が必要になり、それを手に入れるために△△した」という様に意識が発生するのは、それが事実でなくとも、物語として整理して記憶するためだといえる。かくして「人はなぜ物語を求めるのか」という昨年読んだ本に関する私の回答をまとめると、物語とは意識の大部分を占めるものあるいは意識そのものであり、意識は記憶を定着させるという機能を持つからだ、となる。「いい国作ろう鎌倉幕府」や子いぬ座など星の配置を無理やりの星座に当てはめること、より原始的には○○を食べたから腹を壊した、など情報を分かりやすく整理するために意識があると思うと、意識とはそれほどたいしたものではないのだなと感じた。本来 自分⊃脳⊃意識 という関係だが 自分=脳=意識 と考えてしまいがちであり、言い換えると「ファスト&スローあなたの意思はどのように決まるか?」でいうスローの部分のみを自分だと認識しがちであるが、実際は意識とは単なる記憶補助装置であることは理解すべきだろう。「物語」と「意識」という最近特に興味あるトピックがひとつにまとめて整理できたのは、なんともあっけない結末だった。
昨年に人類の方向性は「成功」→「幸福」→「良い」→「」と変化しているのではないかと考えた。「成功」から「幸福」への変化は「自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究」で良く整理されているし、社会的な成功者の家庭環境や私生活が悲惨である例が多数知られるようになったことも影響していると思う。TVやSNSでひろゆき、オードリーの春日、カズレーザーの様な、金持ちなのに財をあまり使わないタイプの成功者もいることが知られたことも価値観の相対化を押し進めている。仏教の再評価、ミニマリスト、FIREなどが注目され、やっきにならない生き方が期待を寄せていることからも、「成功」から「幸福」への流れは徐々に進んでいるんだと思う。他にも、経済学者の成田氏は「ニコニコしながら没落」など成功とは反対方向に進むことを提唱しているが、人気を得て時の人となっている。
「幸福」から「良い」へ進む流れは結構混迷としていた。というのも「自分の幸福以上に求めることが世の中にあるのか?」という指摘が正論過ぎるからだ。「良い」は「ハッピーエンドは欲しくない」の著者のブログから発想を得た部分であるが、そもそも何をもって良いとするのかという出発点すら結構難しい。そもそも私が「幸福」より上位の「良い」という概念を作りたい(そういう構造だと信じたい)理由として、みんなで幸福を目指そうという言説に漠然とした反発感があったからだ。そしてこれは「こちら、幸福安心委員会です。」という曲で揶揄され、この曲が人気を博したように、どうやら自分独自の感覚でもないらしい。もっと単純に、ドーパミンが出るレバーを押し続けるラットの実験を知って、このラット成りたいと思う人は少ないのではないか、という考えもある。そして意外にも、「良い」が何かという問いに対して、自分の求めていたヒントは「利己的な遺伝子」という本にあった。(実は概略を知っただけで、本自体はまだ読めていないのだが・・・)何が「良い」かは遺伝子を残せるのか、という視点で判断・整理できるのではないかと考えたのだ。極端な例でいうと自分が優れた人間であれば遺伝子を積極的に残していくことが「良い」行動であり、一方で自分は無能な人間であれば遺伝子を残さない様に消去的に行動することが「良い」行動になるという、優生学に近い危なげな考え方である。危ない思想ではあるが、自分が劣った人間であるのに「幸福を目指そう」、「強く生きよう」と言われてもピンとこず、反発したくなる原因が、そこにあると突き止めたこと(少なくとも仮定したこと)は一種の慰みにはなった。周りの優しい助言を、素直に受け取れない原因が分からないことは結構みじめなので、この慰みは案外重要なんじゃないかと思っている。ついでに言うと、このあたりの不和というか、違和感は発達した脳を持つ人間が生み出した社会に原因があるのではないかと考える。脳のニューロンの結合様式はDNAに組み込まれた情報ではなく、遺伝子から独立して後天的に発達させることができる、数少ない例外である。(脳の生理的な反応、例えば特定のシチュエーションでアドレナリンを出すなどは遺伝子に含まれているが)この脳が発達して論理的・合理的に考えることが出来るようになり、そこから社会的にも「人間ってこう生きた方が良いんじゃない?」という視点が生まれた。それらの主張をぎゅっと短くまとめると「成功」や「幸福」になる。しかしこれらはあくまで脳側の意見だ。脳と遺伝子は独立しているので、方向性を違えることがあるもの当然なことだろう。ただし、脳と遺伝子で判断が異なる状態は、論理的・合理的に反論はしにくいけど、なんとなく納得いかないという不協和が残り続け、それなりに不快である。私の中で「良い」とは遺伝子と脳が同じ方向を向いており、判断・行動できる状態であり、その状態では自分が無能な人間であれば遺伝子を残す・生きる行動は控えめにして、他人でも劣る人間に対しては避けたり攻撃したりする。実際に行動に移さずに、そう考えるだけであれば問題はない。そのため、自分が幸せを目指したいと思えなくても、何かの能力に劣る同僚や上司に攻撃したい・避けたいと思っても、なんら恥ずることはない。遺伝子から見ると正しい行動なのだから。それに自分が劣った人間だからといって、そのこと自体を苦しむ必要はない。代わりに他の人をサポートする(ほかの人の遺伝子を残すこと)という働き蜂的な遺伝子戦略も、種全体で遺伝子を残す視点で有効なのだ。他の生き物を見ても「成功」や「幸福」のために生きているかは分からないが、少なくとも遺伝子を残すように生きており、その意味で動物は「良い」生き方をしている。
最終的に「」つまり無の段階に続くというのはより簡単に、人間はいずれ死んで無になるのだから、その終着点と目的が違ったらおかしくないか、という発想で考えた。これも同じく「利己的な遺伝子」で得られた知見から考えることが出来る。遺伝子の繁栄・進化のためには世代交代が必要であるため、遺伝子に従って生きることは、いずれ死ぬことすらも包括する。遺伝子に従って「良く」生きて、遺伝子に従って最終的に死ぬという思想を持てたことで考えをだいぶ整理できた。
「物語」、「意識」、「遺伝子」をキーワードに新しい境地に至れたのはシンプルに嬉しい。新しい視点から物事を観られるようになると過去に得た知識も再解釈したくなる。
昨年読んだ「暇と退屈の倫理学」を再レビューしたい。暇、退屈であるということは新しい情報が無い状態や、価値のない情報しかない状態だと捉らえることができる。「遺伝子」の要請として、可能な限り何かに「意識」を向けていたい、つまり新しい情報を「物語」に整理して、記憶したいというインセンティブがあるのだと思う。(具体的にどんなホルモン、化合物なのだろう?)情報を得る際に複雑な情報だとそのまま覚えることが出来ないが、一方で情報を変換するために「意識」という記憶術を使うのもエネルギーを消耗してしまうので、そのままの形でも覚えやすい「物語」のフォーマットが好まれるのだろう。「遺伝子」からすると、生きる上で必要ない「物語」がここまで乱立したことは予想外だったのかと。
2年間に読んで感動した「ブルシットジョブ」との繋がりも簡単に考えてみたい。ブルシットジョブはまさに脳が生み出した現象であり、個人単位でみても種全体でみても遺伝子を残すという方向性にまったく合っていない。それどこから時間や体力を奪う、反遺伝子的な活動なのである。ブルシットジョブに従事していても「成功」までは至れるかもしれないが、「幸福」からは遠いし、「良い」人生からは大きく離れてしまう。「ブルシットジョブ」での著者の指摘はこれらの懸念感と共鳴したので、納得感が強かったのだろう。



2022年総括(途中で挫折。考えがまとまらなかった。)
 読書はまるでBINGOの様だ。
 一つの本を読んだだけではまとまった思想を築くことは出来ないから、様々な本を読む必要がある。しかし、読んだ本同士の知識が繋がってないと、孤立し、活用しにくい知識が増えていくだけである。さながら、BINGOの開始直後に、ちまちまと散発的にマスを開けている時のように。去年読んだ「ブルシットジョブ」、「Humankind 」に併せて今年「暇と退屈の倫理学」、「人はなぜ物語を求めるのか」を読んだことによって、初めて自分の中の知識のBINGOが揃ったような気がした。勿論それ以前に読んでいた本も思想形成に貢献している。例えば「ホモサピエンス全史」、「嫌われる勇気」、「ファストアンドスロー」などが大事な役割を果たしているが、これらの様なベストセラー本はBINGOの中央のマスの様な立ち位置で、みんなと共有の空きマスに成っているようなイメージだ。
 「ブルシットジョブ」と「Humankind 」は共に人間社会で何が起こっているかを説明したが、「暇と退屈の倫理学」、「なぜ人は物語を求めるのか」はその原因の部分、人間のありとあらゆる行為・解釈の原理・動機を取り上げている。「暇と退屈の倫理学」にある「〈欲望の対象〉を〈欲望の原因〉と取り違える」は私含め多くの人にどハマりする重要な指摘だと思う。簡潔にまとまっている点でも良い文句だ。ウサギ狩りをしている人はウサギが欲しいのではなく、退屈な人生の代償として暇つぶしが欲しいのだ。人間の文化的な行為の原点を遡っていくと全てここに行き着くのではないかとすら思ってしまうほど根本的な考えだ。同じように「なぜ人は物語を求めるのか」にある(人間は)「理由ではなく、意味が知りたい」という指摘も、人間が物事をどの様に解釈するのか、従来の常識を完全に覆す指摘だ。突然不治の病を宣告された人が「なぜ私が」と問う時はその理由ではなく意味を求めている。理由などを考え出られるのは、余裕があるときだけなのだ。ここ最近読んで感銘を受けた本の内容が、きれいに一筋の内容につながったことに素朴に感動している。
 去年から幸福に関する本を何冊か読んでいる。「99.9%は幸せの素人」や「精神科医が見つけた3つの幸福」などだ。それぞれ、どうすれば幸せになれるのかを熱く語る内容だが、内容以前に「そもそも私含め皆は幸せになりたいのだろうか?」と根本的な部分に疑問を持ってしまった。これらの本は社会的な「成功」は必ずしも「幸福」には繋がらないことを解説する。それは良い。ただそもそも、皆幸せになることを求めているなら、幸せに対して素人のままであり続ける(あまり考えないままでいる)ことなどあるのだろうか?お金が欲しいと言ったら、周りからなんで欲しいのか聞かれるように、幸せになりたいという宣言や意思表示も、無批批判で受け止められるものではなく、疑問を投げかけられうるのではないか?甘いもの、明るい映画、前向きな曲だけが「良い」ものではない様に、苦い料理、暗い映画、後ろ向きな歌を「良い」と感じるのは特別なことではない。それなら幸せすらも盲信的に肯定し、追求するものではないのではないか?そんなことを考えている時に「暇と退屈の倫理学」、「人はなぜ物語を求めるのか」と出会ってしまったものだからハマるのも仕方なかった。もはや無いものだと諦めていた答えがあったのだ。
 では幸せに変わる人生の指針とは何だろうか?漠然と質問を投げるなら「良い」とは何か。私が人生で1番ハマった本「ハッピーエンドは欲しくない」の著者も同じ疑問を投げかけている。(いま思えばこのタイトルは非常に良い)真っ向から考え出すと途方に暮れるので一度視点を変えてみよう。「科学で読み解く笑いの方程式」によると笑いは記憶形成により起こる、つまり単純接触効果の強化版のような効果らしい。予想外なボケやおバカな回答などで記憶の結合距離が遠い、つまり情報として全く別のものが繋がるほどよく笑え、より面白いと感じる。例えツッコミなどで全く別の2つの概念が結びつくと笑いが起きるのもこの仕組みだ。この仕組みは「人はなぜ物語を求めるのか」で解説される、周りで起きたことを手持ちの物語に当てはめて快感を感じる人間の性質に近いと感じた。自分を物語に当てはめて生きるのが人間の原理・本質であるとすれば、その物語を拡張し更新する笑いとは、それに切り込む非常に重要かつ根源的かつ快感なコト、つまり「良い」ことではないか。笑いという強い感情表現までいかなくとも少なくとも、人生で起きたことを過去の経験や本で学んだことに当てはめて、物語を自己強化していくコトを私は「良い」ものだと感じるし、少し離れた知識が繋がると尚「良い」と感じる。「幸福」よりも「笑い」や「物語の強化」つまり物語に沿う様に自分の人生をハンドリングし、結果その通りに成れば物語の範囲が広がり内容も強化される、というサイクルを回していくことが私にとっては「良い」に近いらしい。「物語」を宗教、道徳、信念、美学、経済、アイドル、親からの期待、会社の経営方針、などに置き換えれば割と無理の無い主張、というか当たり前のことを言っているのが分かる。そして皆そうやって生きているじゃんと。まさしく「人はなぜ物語を求めるのか」の答えが「良い」であり、逆に「良い」を答えとする様な質問を探していくと「人はなぜ物語を求めるのか」に行き着く。
 「良い」は「幸福」から遠く、「笑い」に近いと言ったが、ではその近さあるいは遠さとはどのように理解すれば良いだろうか?「ゼロから作るDeep Learning ❷」や「自然言語処理の基本と技術」で知ったが機械学習では単語をベクトルとして処理する。単語をベクトルとして表わしているので、単語間の距離もベクトルで表現できる。その距離が単語の意味的な近さ・遠さとみなすことができる。私の中の単語ベクトルでは(社会的な)「成功」と「幸福」の距離を昔は近くに置いていたが、幸福のメカニズムを知ることでその距離が遠くなった。(年収が800万円を超えると、年収が増えても幸福度は上がらないなど)この2つの単語間を引き離すベクトルにはブルシットジョブジョブもあるのだろう。そして今「幸福」と「良い」の距離も離れてしまった。「幸福」よりも「笑い」や「物語の強化」の方が「良い」に近い。なぜならそれらは物語を求める人の性質を満たしてくれるし、暇と退屈をかき消してくれるからだ。「意識はいつ生まれるのか」で知った情報統合理論では、意識の発生には差異があり統合が出来るという性質が必要らしい。考察し切れていないが意識の発生のメカニズムと「良い」を作るメカニズムには、どこか似た性質があると感じた。
 概念として孤立していった「良い」に対して足がけを見つけることができた気もするが、抽象的すぎるので具体例も考えていきたい。例えば自分は野たれ死ぬのが運命(物語)だと感じているなら野垂れ死ぬのが「良い」人生だということだ。身も蓋もないように聞こえるが、成功や幸福を「良い」とするよりかは私には納得できる結論である。宗教家は教典通り生きることが、拝金主義は金を稼ぐことが、道徳を重視する人は道徳的に生きることが、オタクはアイドルの為に貢ぐことが、「良い」。これがマゾい方向にいくとDV被害や自傷行為の「良い」に至るのだろう。幸せではないだろうが、彼らにとっては「良い」ことなのである。また物語に即した「良い」人生を実現しにくい社会になったのは宗教の衰退や大きな物語の喪失によって、一つの物語を生涯に渡って信じ続けることが難しくなっていることが背景にある。手垢の付いた言葉で言うなら「良い」は自己肯定感に近いのかもしれない。ただ既にある言葉をもとに考察を進めようとして新鮮な結論には至れない。だから抽象的な「良い」という概念を追っていきたい。
 一方でより身近な問題、例えば仕事が辛い、人間関係がうまくいかないという現状を「良い」ものに変えるにはどうすれば良いか。「現代思想入門」では脱構築が現代思想の中核になっていることを示している。哲学者は概念、存在、社会の脱構築というやたら難しいことを行っているが、上述の「成功」と「幸福」と「良い」を分けていく作業もスケールは小さいが脱構築の一種だろう。ポスト〇〇主義が乱立しているのも、確固とした物語が失われていることを示しているのかもしてない。アートの世界でも脱構築が現代の流れであることを「「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考」ではピカソやデュシャンの例から詳しく学ぶことができる。ビジネス会でアート思考が推されているのもその流れの一種かもしれない。さて、脱構築を進めるため「良い」の依拠するところにある物語を分解していく、具体的には「他人の物語」と「自分の物語」にわけていく。
 本来集団とは同じ「物語」を共有して行動するメンバーである。「ホモサピエンス全史」でハラリはそれを虚構と呼んだ。しかし、現代の組織例えば会社ではどうだろうかダイバーシティの推進で多様化を進める前から、個々の考えはすでにバラバラで共感性に欠いている。その上でさらにサイコパス上司が自分の物語を押し付けていはしないだろうか?シットジョブには物語がある、しかしブルシットジョブには物語が無い。劣悪な条件の仕事(シットジョブ)でも「俺は中卒だからこんな仕事しか出来ないんだよ!!ガッハッハッハ!!」と物語に出来れば幸福かはさておき「良い」人生にはなり得ると思う。他方ブルシットジョブ下で、人に物語を押し付けられていては、自分の物語を生きることは出来ない。物語を押し付けてくるのは上司かもしれないし、親かもしれないし、学校かもしれない。その枠組みから離れてアウトロー的に自分の物語を生きていく事はできるだろう。しかしそれは社会のルールから外れることを意味し、結局は社会が押し付ける物語と言う重圧から逃れる事はできない。「他人の物語」から「自分の物語」を守りきる事は難しい。
 物語を守れないのであればどうすれば良いだろうか。1つ目の方法はもはや物語で生きることを諦め、物語を認識するメカニズムを破壊してしまう方法だ。仏教やニヒリズムと同じ方向性の思想だ。マインドフルネスによる発散した思考のリセットにも通ずる。ポスト物語主義とでも呼ぼうか。物語、信念、信仰を持たず生きること。これは「良い」ことなのか?そもそも実現する方法がよくわからず、今の自分では判断できない。
 2つ目の方法は「自分の物語」を守り切れるだけの能力を身につけることだ。会社員を辞め、フリーランスになる。最終的にはFIREを目指すなど、生活機盤を確立できれば、相対的には自分の物語を守りやすくなる。フラットな組織、会社に転職するというもっと敷居の低く現実的な方法もあるだろう。
 3つ目の方法は客観的な自分の状態は無視して、自分の物語だけを注目する方法である。良い意味で視野を狭く持つこと、自分が「良い」と思うナニカに向かって愚直に突き進んでいく。要はオタク化だ。今までの人生観を捨てて純粋な「良い」を求めていくことで、自分が何を「良い」と感じるかに気づき、例えば意外に1人でいることが好きだと気付けば1人で居る機会を意識的に増やしていくきとで「良い」人生を歩めるかもしれない。
 4つ目の方法は自分の物語と他人の物語を統合して一つの物語にする方法だ。客観的な自分と主観的な自分を同じものにする、この生き方しか自分には無いと愚直に信じ込む方法。今の自分の生き方、働き方以外の選択肢は取れないし、それに成功や失敗、幸福や不幸の判断を持ち込まない方法だ。与えられた役割と使命を愚直に果たしていくこと。私の知っており限り、人生に達観し、落ち着いて生きている人は、この様な価値観、人生観で生きてる人が多いと思う。しかし、その唯一の生き方が耐えられないほど辛い場合はどうだろうか?物語通りの生活、つまり「良い」生活なのに辛い状態になるのは何故だろうか?言い換えれば何故マゾになれない時があるのだろうか?
 色々と発想の飛躍(単に説明が飛躍してるだけかもしれないが)もあったかもしれないが、それが必要だった。「学校では絶対に教えてもらえない超ディープな算数の教科書」では証明問題で急に変な位置に補助線を引いたり両辺に不自然にナニカをかけたりするのは最終的に上手くいくようにさせる為であると説明する。発想を飛躍させているので、予めある程度の知識がないと、その手の問題は(普通は)解けない。
「成功」、「幸福」、「良い」と発展させてきたがこの方向性を突き詰めていくとどこにたどり着くのだろうか?この三段階は、方向性としては抽象化、主体化が進む方向へと進んできたと言える。この方向性を突き進めていくとたどり着く先は空虚、つまり「」になるのか。抽象化が進みすぎてもはや捉えるべき言葉を持たず、主体化が極まっているため伝える手段もない。だからこその「」。
る。一番面白かった本や漫画が年々更新されて行って欲しいし、そう受け止められる感性を持っていたい。

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