【ヨルバエの疑問と雑感19】☆≪とある感想を読み抜いての音楽的返報≫。♪皆みんな いい奴ばかりだと お世辞を言うのも億劫になるのなら 近くのディスカウントショップで買ってきた そんなに値段の張らない ケンタッキーの地酒でも 飲んでいるのが マシとは言わないが よろしんじゃないでしょうかと。確かに中には居ますもんね イヤな奴。 長文駄文原宿方面併せて失礼。
②(承前)☆ かつてのソ連時代でも米国にとってその本質的部分はロシアであった。キリスト教の側面から両国及びその関係を読み解こういうアプローチは興味深いが,どうしても本邦を含む世界史(主に欧州史)の視点を意識してしまうから著者の目論見が完全にうまくいったとは思えない部分もあった(例えば90年代後半の通貨危機)。もうひとつ留意すべき点は「ユダヤ人」に関する佐藤の視点だ。ナチス・ドイツ,スターリン時代のソ連,イスラエルと中東問題。これらを有機的に統合し米ロ近現代史の中に位置付けている。この部分は特に重要。
②(承前)☆ 報道媒体が「報道する物事」には,「事実」と「報道機関(記者または社)の意見」が混ざっている。いわゆる「ニュースキャスター」が「花形職業」になったのは,ニュース原稿を読み上げる「アナウンサー」が自分の意見を表明したことで本人もしくは祖の放送局の「立ち位置」を明確にしたところにある。SNSや動画配信サイトにおける「報道」の多くは「(まず)意見の表明(ありき)」であり,「"事実"」とは,その"意見の表明"のために必要な"こと(真偽不明)"なのである。そうしたことを踏まえつつ読むと非常に興味深い。
②(承前)☆ 60年代から「安保(体制)粉砕!」と叫んできた(かなりの方が泉下の人となっただろう)世代には知るどころか気付くきっかけすらなかったことが,巡り巡って半世紀のちの民主党政権を苦しめることになる(だからといって一国の首相に対して"クルクルパー"などと他国のマスゴミに言わせてはならないのである)が,この構造こそ根本的に再構築(粉砕は全く不可能でしょ)しないといけないということを同著は気付かせてくれる。特に終章で展開される議論は党派を問わずキッチリ頭に入れておくべきだろう。
②(承前)☆ 考えるまでもなく民間軍事会社とは戦争(の一部領域)をアウトソースするものである。傭兵との差は主体が国家(国王)にあるか否か。とはいえその起源は戦争における後方支援だったのであり,そのレベルではやや乱暴ながら行政サービスのアウトソーシングの極端な事例であろう。そしてこれは同時に冷戦構造の終結に伴う余剰人的軍事力の吸収先でもあった。そこまでは何となく新自由主義下における風景にも思えるのだが実際はそんな甘いものではなく,ワグネルを例に出すまでもなく暴力装置としての側面が少しずつ突出してくるのだ。
②(承前)☆ 民間軍事会社とは戦争(の一部領域)をアウトソースするものである。傭兵との差は主体が国家(国王)にあるか否か。とはいえその起源は戦争における後方支援だったのであり,そのレベルではやや乱暴ながら行政サービスのアウトソーシングの極端な事例であろう。そしてこれは同時に冷戦構造の終結に伴い余剰となった"人的"軍事力の吸収先でもあった。そこまでは何となく新自由主義下の風景とも思えるのだが実際はそんな甘いものではなく,ワグネルとプリゴジンの興隆と没落が示すように「暴力装置」としての側面が突出してくるのだ。
②(承前)☆ そして第5章があるのだが,この章でのアプローチにはやや楽観の度合が高いように思われる。ロシア=ウクライナ戦争以降の世界は著者の言う「西側諸国」とグローバルサウスと言い換えられそうな「その他の国々」との間にひび割れが生まれているからだ。東西冷戦体制は確かに「歴史の終わり」を迎えたのだが,それ以前の「帝国主義の残滓(佐藤優の言う"新帝国主義")」が昏い影を落としているからだ。著者が途中の章で言及した「東アジアのバランス・オブ・パワー」の考察は,それこそグローバルに敷衍して考えるべきなのだろう。
【補遺】☆ ぼくは亀山訳『カラマーゾフの兄弟』の該当箇所を読んだ後で同著の佐藤の解釈を読み解いていった。これは正直言ってかなり体力を要した。同著では第7篇以降は重要点に触れるだけなので亀山訳の読書ガイドで不足を補う形になった(詳しいことはそちらの感想に書きたい)。最後に誤記を指摘したい。同著312頁のコーリャについての説明でイリューシャの行動が記載されている。改版時に修正を要す。
②(承前)☆ これについては訳者が指摘するように,物語の構成を交響曲的に創作したからではないかと思う。西洋音楽史的にはロマン派から国民楽派あたりの時代であるから,そうした芸術間の共鳴現象のようなものがあってもおかしくないと思う。同時に推理小説の歴史を見ても直接の関係は無いものの,同時代の文芸の傾向として何かしら響くものがあったのかもしれない。
③(承前)☆ 同著を読んでいて興味深かったのは橘の「戸籍」に対する関心と理解だ。気になったのでWikipediaを見たが,確かに「かつては東アジアの広い地域で普及していたが、21世紀の現在では日本と中華人民共和国と中華民国(台湾)のみに現存する制度である」と書いてある。後は著者のスタンスは従来から変わらないので,なるほどという話が多かった。若干「(この国の世間の)空気に対する抵抗」を感じるコラムや主張があり,そこは興味深かった。それにしても集英社は他社なら新書で済ますものを単行本で出して...(以下略)。
【メモ】☆ (同著5頁)>「DD」はアイドルオタクのあいだで使われるネットスラングで、複数の「推し」がいる「だれでも大好き」をいい、特定のアイドルを推すことと比較されます。「誰推し?」と訊かれて「わたしはDD」と答えるのでしょう。 >ところがその後、「DD」はネット上の議論に転用されます。こちらは「どっちもどっち」の略で、双方に言い分があるという立場です。それに対して、「わたしは正義」だと主張し、悪を“糾弾”する立場を「善悪二元論」と呼びましょう。
②(承前)☆ そういう視点から見ればミーチャ(ドミトリー)は実に近代的(というよりもほとんど現代的)なキャラクターではないか。ぼくは同巻の展開から思わず凪良ゆう『汝、星のごとく』にあった「愛と祈りと呪いは似ている」を強く思い起こさせられた。人間には"愚行権"があり,アリョーシャですらゾシマ長老の(なぜかあまりにも早過ぎる)腐臭から一旦は愚行に及ぼうとするのである。この巻で言えば第2部の後段のミーチャを引用すれば十分だろう。こうした近代性(≒現代性)はこの作品の「古典としての力≒普遍性」を示していると思う。
②(承前)☆ それにしても各登場人物の「語り」の長さは一種「演劇的」であり,その「ことばの力」に圧倒されるのは確かなことである。大審問官と「彼」との物語詩は宗教的背景が無いと理解することは難しいと感じるし,ぼくの場合は佐藤優に補助線を引いてもらっている関係上,「彼の視点」からの理解という複合的な前提を持つことになる(更に訳者の「読書ガイド」と「解題」で更なる視点を学ぶことになる。こうした読み解きは物語を一度読んでから再度読むまでの間に「読者としての意識」を高め,より先鋭なものにするように感じる。
②(承前)☆ 本作品が書かれた19世紀後半は「(資本主義と国民国家を確立させた)西欧の帝国主義」が欧州を超え世界中に影響を及ぼしていった時代だ。その西欧の「周縁部」で旧い制度を維持したまま(資本蓄積に至らぬ"農奴解放"や"新思想"への弾圧など)帝政を維持強化しようとするロシアという国家の"歪み"が極めて矮小化された形でカラマーゾフ一家の形をとるのである。【補遺】同著46頁の記述よりアリョーシャは作者がこの物語を綴っている時点で故人となっていることが推察される。
②(承前)☆ 言葉やコミュニケーションについてのスキルは文字にすると分かりやすい。つまり言語をいったん視覚に置き換えること(本を読む行為)で,読者に客観性のクッションを与えているのだ。ここまでが同著の一般的な評価である。ぼくは人が悪いので逆に捉えてみる。「言い換える前の表現」を意識的に使う場面がある(ハラスメント系は除く)。相手のその言葉の「真意」を考えさせるためだ。気付いた人もいるかもしれないが,これを「恫喝の手段」という。もう一点。言い換えが手段ではなく目的になる場合(これは九段理江氏に尋ねたいな)。
②(承前)☆ (解説まで)読み終わった後に「初出」を見ると,今回読んだ順番に発表されたようだった。小説誌の読者には各編が独立した小説として読まれたのであろうと思った(作家の熱心な読者はそう思わなかったかもしれない)。そういう意味では「実験的」なのだが(おそらく複数の読者さんから)各編のディテールの小さな齟齬(解説者とは別の視点からの)が示されるかもしれない。作家の構想は凄いしそれをほぼ成り立たせる力量は肯定できるが,同時に「力技に過ぎる」ようにも感じられた。
【補遺①】☆ 著者の前作『クロコダイル・ティアーズ』もそうだったが,この作家は「曖昧な人物」を描くのが非常に上手い。読者はその曖昧さに巻き込まれてミスリードされていくのだが,本作での「曖昧さ」は「(そのことが)描かれている部分」と「(下巻の最後になるまで)そうでない部分」とがあり,冤罪に向けて動いていく主人公の弁護士と初めは不信に塗れていた被告人の長女とのすれ違いがやがてひとつに重なる流れに,更に曖昧な人物や読者のミスリードを誘う別のエピソード(複数)が織り込まれて作品の流れを作っている(②へ続く)。
【補遺②】☆ 上巻を読んでいて感じていたのはフランシス・ベーコンの「イドラ論(4つのイドラ)」で,作品をよくよく最後まで読んでみると全てのイドラが登場していたと感じた(勿論最後の最後に「劇場のイドラ」が姿を現す)。ここも面白かったが,解説で永江朗が触れているように「弁護士」という存在の様々な側面も主人公夫妻の対比(企業弁護士=商事法務系と刑事弁護士=(不適切な引用だが)"無罪請負人")をはじめ,物語に溢れる様々な伏線とミスリードがこの小説の複合的・重層的面白さを深めているように感じた。作者充実の快作だ。
【メモ】☆ (同著156頁) > 「刑事裁判ってのは、国という大きな存在が個人を裁くんだ。それだけなら一方的な戦いだよ。裁判員や裁判官にしても、その人のことを知らないわけだから、どうしても疑心暗鬼になる。霧の中で不気味なシルエットを見るようなものだ。人を襲う獣なのかもしれないという目で見てる。だから、まとわりついている霧を払って、その人を一人の人間として見てもらうようにする必要がある。弁護士がそれをやる。霧を払った結果、その人が無実の人間であるなら、もちろん言うことはない」
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②(承前)☆ (解説まで)読み終わった後に「初出」を見ると,今回読んだ順番に発表されたようだった。小説誌の読者には各編が独立した小説として読まれたのであろうと思った(作家の熱心な読者はそう思わなかったかもしれない)。そういう意味では「実験的」なのだが(おそらく複数の読者さんから)各編のディテールの小さな齟齬(解説者とは別の視点からの)が示されるかもしれない。作家の構想は凄いしそれをほぼ成り立たせる力量は肯定できるが,同時に「力技に過ぎる」ようにも感じられた。