「自分がこんな泥だらけの服を着て、真暗な坑のなかに屈んでる所を、艶子さんと澄江さんに見せたらばと云う問題」(193頁)を考えてしまう根性。銅山での実際の仕事はなく、坑に入っていく下見を一日だけして、気管支炎から帳場の仕事を5ヶ月やって、東京に帰ったこの男は、銅山の荒くれ者に接し、社会への免疫が付いたであろう。そしてこの男は東京に戻ってから、この『坑夫』を書いた(という体になっている)。
話の流れで精神の成長過程がないが、敬意を持てる安さんが殺人を犯したことを想起する場面で「だから社会が悪いんだと断定してはみたが、一向社会が憎らしくならなかった。唯安さんが可哀想であった。出来るなら自分と代わってやりたかった。」(242頁)はこれまで人の風体や職業で順位を付けていたこの男が、人格で考えている。幼稚な考え方のようだが、『二百十日』より好感が持てる。
「二百十日」の「文明の革命」(59頁)で金持ちと対抗するという圭さんの議論で「社会の悪徳を公然商買にしている奴等」は『それから』『こころ』での天下国家にすり替えるという暴露につながる。『こころ』とのつながりは「野分」が強い。道也先生の「君は自分だけが一人坊っちだと思うかも知れないが、僕も一人坊っちですよ。一人坊っちは崇高なものです」(222頁)という思想は源流であろう。後の作品では、さらに陰影が増していく。
那美をもし役者にしたらという妄想で「しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然に芝居をしている。」(154頁)やラストのあふれ出る「憐れ」の称賛に託していたのだろう。ストーリーを追うことをやめ、「開いた所をいい加減に読んでる」(112頁)ことを漢詩を楽しむような境地に漱石は救いすら見出そうとしていたのかもしれない。「兎角に人の世は住みにくい」ように仕向ける「汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀に疲れ果てた後、凡てを忘却してぐっすりと寐込む」(13頁)ことを求めたくなる心情は心に沿ってくる。
町田康、武田百合子、ゼーバルトが好きな作家、ナボコフ、ウルフ、フォークナーが気になる作家です。
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那美をもし役者にしたらという妄想で「しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然に芝居をしている。」(154頁)やラストのあふれ出る「憐れ」の称賛に託していたのだろう。ストーリーを追うことをやめ、「開いた所をいい加減に読んでる」(112頁)ことを漢詩を楽しむような境地に漱石は救いすら見出そうとしていたのかもしれない。「兎角に人の世は住みにくい」ように仕向ける「汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀に疲れ果てた後、凡てを忘却してぐっすりと寐込む」(13頁)ことを求めたくなる心情は心に沿ってくる。