ところで、本作で描かれる大人には戦争をする大人は何故登場しなかったのか?と考える。著者は本作で戦争を描かず、結局ナチスと戦い、空の上で命を落とした。彼はコックピットで死ぬ直前に何を考えたのだろう。 そういや、箱根に星の王子様ミュージアムなんてあったな。今まで素通りしてたけど、次箱根に行くことあったら寄ってみたいな、と思ったら!コロナの影響で2023年3月31日に閉館していただと!人生には様々なタイミングというものがあるな。
喫茶店とホットケーキと読書の相性の良さよ。色々食べ比べたが、珈琲館のホットケーキの焼き目が一番好きだ。銅板で焼かれ美しく、芸術ですらあるな。バターをたっぷり伸ばし切る。二層なので1階部分にも忘れず配慮して塗る。メープルシロップをかけ、切り分けてホイップにちょっとつけて、熱々で半分まで食べる。再び本に手を伸ばす。2ページ読んではまた少し食べる。ゆっくり冷めていきながら、少し硬くなり食感が変わるのも楽しみながらちびちびと。良い。
人生これから、と言う人よりも、ある環境に染まり切って違和感を持ったタイミングには特によい気がする。少し前まで自分が属して違和感が抑えきれなくなったのは金融資本主義のパワーゲームの世界だった。職を辞し3年の今、元同僚から見た今の私は、ゲームに力尽き、中途半端な、何も志がない不気味な存在に思えるかもしれないな。ただ、自分では横断的に様々なノリをつまみ食いし、楽しいのだ。多分これも仮固定だろうとアイロニカルな目を持ちつつ、目の前をできる限り楽み、日々を日記に記し生きている。これは孤独だ。そんな私にはハマった。
自分がこの文章を書けることや本を読めることが不思議に思えてくる。フレーゲもラッセルもヴィトゲンシュタインも用意したのはそれぞれ説であるが、天才たち自身、皆迷い、行きつ戻りつ語る。我々が考える言葉との解像度が違う。文の意味として、真偽としての指示対象と意義の両面を唱えるフレーゲ。意義を認めず文の指示対象は命題とするラッセル。言語は思考に先立ち、論理空間における真理関数の真偽が世界の在り方を語るとするヴィトゲンシュタイン。云々。まったく、凄い世界に誘われたものだ。時間を置き、また読み返さねばなるまい。
翌日、反芻して面白いなと思ったこと。広田先生、ひいては知識人について。彼の印象的な言葉がある。三四郎が上京する列車で、日本は進歩してこれから良くなるだろうという見立てに、一言「滅びるね」と返すのだ。富士山くらいしか誇れるものは無いという。知識人は往々にして悲観的である。俗世から離れ高の見物をするが、どこにも行けない。中島敦の言う、臆病な自尊心と尊大な羞恥心だ。その位置を相対的に維持する為には、世界が沈んでもらわないと困るからかもしれない。世界がダメになる、という思想と知識人はいつの世も相性がいいのだな。
では、知識人はおろかなのか?そうではない。三四郎は中盤、自分を取り巻く世界として3種あげる。変わらない故郷と、静謐な象牙の塔である学問の世界と、猥雑で変化する東京だ。この3つ、どこを選んでも人は選ばなかった残りの2つを比べて認知的不協和に悩まされる。宿命だ。その意味では与次郎は実に達者だ。彼は愛すべき滑稽なキャラだと描かれるが、領域を横断するその器用さは実は人生の達人の秘訣ではないか。代償として、それぞれの世界から、中途半端だとそしりを受けるが、選ばなかった道の後悔はない。中途半端と後悔の天秤が人生だな
この辺の主題を濃く思い起こせる小説が、昨年読んだ、「人類の深奥に秘められた記憶」だ。こちらもフランス人だなぁ。好きだなぁ。もう一回こちらも読んでみたい。しかし人生、本当に時間が足りないな。
自分の好きな本だけ集めて客が全く来なくても良い、本屋。そんなものなら本を読む時間がとれるかもしれない。それは人に売っても良い、書斎という形態か。恐るべき傲慢な。昔小学生から毎日通っていた古本屋がそうだった。世捨て人の様なおっちゃんがひたすら本を読んでいて、合間に接客していた。憧れだった。時代の波に溺れ、もうとっくに無くなってしまったが、懐かしい。 働かなくても良くなるほど稼ぎ切った後の夢だな。
細胞、人間個人、人類社会、生命生態系、環境。これらのフラクタル的なつながりを想像をすると茫洋とした気持ちになる。なんだか手塚治虫の火の鳥にそんなシーンがあったな。細胞は60億で一つの人間を作っている。細胞一つ一つは細胞膜に閉じられ孤独だ。だが繋がっている。ある意味、我々は孤独ではないという意味にも読み取れる。ただ、コミュニケーションが難しく、想像が働きにくいだけだ。
生命科学は脳や情報の観点から、将来的に人間の意識や心を解き明かすだろう、と著者は確信するという。それは21世紀まるまるかかるかもしれないがと。 ふと、それが解明しきれていない間に生きることが出来て良かったと思う。それが解明しつくされると、人間は本当に追い詰められてしまう気もするので。今の我々、まだ知らないことがあり想像・物語の中に遊び、苦しめる白地がある、「歴史のここ」は生物史での絶妙で贅沢な享楽圏かもしれないな。
付属年表を眺めてていて、ちょうど親鸞の活動期が、鴨長明の方丈記で描かれていた京の都の地獄絵図と同じというのが分かった。ああ、あの戦乱と飢饉の時代に同時にいたのかと感慨深い。調べると、1200年時点では、鴨長明が45歳、法然が67歳、親鸞が27歳。歎異抄のメッセージを読み返して、なるほど、これは世界と人生の絶対的肯定装置かもしれないと思った。思考の余地を挟ませない。 著者の高橋源一郎は無神論者であるという。だがこの本を書いた。光、肯定の象徴的なものか。死ぬ前に、自分も多分読み返すかもしれない
考える=理性=幸福になる為の行為→結局執着に繋がって不幸を呼ぶ。この図式を全部ぶっ壊すというのは、確かに仏教的に思えた。瞑想か、音を伴なった記号で心を満たすのかの違いは色々あるかもしれない。所詮個人の考える事全て浅はかだ(善悪ですらも)、どこにも行けない。なら黙って念仏を唱えろ。というのはそれはそれで合理的で極度に洗練されている様に思えた。瞑想のが大変だ。悩み悩んだ時に、確かに忘れずに心に留めておく価値があるかも。ここに無神論者であることは関係ないかもしれない。意図的に、機械的に、思考せず、ゆだねる。
結局、個々がそのゼロに近い謎の点、みたいな存在に収れんしていった世界はディストピアそのものなんだろう。そしてそれってもうすぐそこにあるんじゃないか。近頃は監視社会的な文脈でのディストピアは良く語られるが、虚無的なディストピアはそれこそ宗教が破壊されてからずっと社会はそれに怯えていたかもしれない。そう考えると、唯一残った宗教として本作で描かれているマーサー教も面白い。不条理を描いたカミュのシシューポスの神話めいた振る舞いをする教祖。
最終ページが良い。最後に妻が旦那リックの「こうして欲しいと思うこと」を想像して(共感して)、ヒキガエルの餌を注文する電話だ。抑うつに沈んでいた彼女が、最後は気分も良くなって自分の為にコーヒーを入れる。収れんする環は半径数メートルで、なんとか守られたのだ。ナイスハッピーエンド。
長い小説で味わう、冗長さという感情もまた味わい深い。短い小説における冗長のパートの意味とは違う。映像ならばカットされるであろう冗長シーンというのは、小説の懐の大きさ、遊びはリアリティでもある。実際の人生も冗長であふれているのだ。また小説故に、必然的に次に物語が大きく動いた場面との対比にもなる。それゆえ、後で読み返すとさらに味わい深い冗長もある。ニコライ、ナターシャのクリスマスの狩りのシーンなどは、実に良いシーンだった。何でもないようなことが~幸せだったと思う~虎舞竜のBGMが勝手に脳内再生された。
上述した感情は、船戸与一の満州国演技(満州国の成り立ちから終わりを描く7500枚、全9巻の大作)以来の感情だわ。ああ、あれはもう一つの戦争と平和だったのだな、よくあんなものかけたな、と別の作品の再発見にも繋がった。長い小説、これはいいんじゃないか!プロットではなく、プロセスそのものに価値がある。もし同じ感情を味わえる小説があればもっと読んでみたい。プルーストの失われた~はいつかどこかでチャレンジするとして、他に何があるか?探すのも楽しみだ。(もしいいのがあれば誰か教えてください。
少し前に読んだ、夜間飛行を反芻した。星の王子さま、は夜間飛行の世界がさらに美しくナイーブに結晶化したような印象を持った。夜間の飛行機のパイロットが見る、大地にぽつねんと光る農家の明りを心に描き直してみる。それは80㎞彼方からも見えるのだ。農夫は、自分が見られている、なんてことは想像だにしない。ましてや誰かに美しいと思われていることなんて。我々一人一人が星に生きている。寂しくも美しい。本作最後のページのイラストは印刷して壁に張りたい気分になった。
ところで、本作で描かれる大人には戦争をする大人は何故登場しなかったのか?と考える。著者は本作で戦争を描かず、結局ナチスと戦い、空の上で命を落とした。彼はコックピットで死ぬ直前に何を考えたのだろう。 そういや、箱根に星の王子様ミュージアムなんてあったな。今まで素通りしてたけど、次箱根に行くことあったら寄ってみたいな、と思ったら!コロナの影響で2023年3月31日に閉館していただと!人生には様々なタイミングというものがあるな。
美というものへの自分の鈍感性やその意味の捉えどころのなさはずっと課題だった。確かに美しい、ってものはあるが、昔の人や他人が言うみたいにそこまで美を渇望して、美の為に人生をささげる、という感覚が分らなかった。こういうのこそ、小説の中で想像して手がかりを得るしかないと思った。なるほど、と思う所はいくつかあったのは収穫だった。三島由紀夫の金閣寺はサマセットモームの月と六ペンスみたいな読後感があった。
通りすがりですが、コメント失礼します。仮面の告白と同じ?という印象、同感です!戦争で悲しくも、美しく散るはずだったのに、なんで生き残ってしまったという焦燥感は、両者共通ですね。
世界は行き過ぎて、また戻ってくるもんだと思っている。地獄=グローバル空間ってのは、SNSにしかない。いつか、「SNSってあれ、何だったんだろうな?」って大部分が正気に戻る世も来るかもしれない。タバコの様に。電車の中ではスマホを見ずに本を開いたりおしゃべりする人達をまた目にする時が来るかもしれない。そん時には自分が生きてるか、知らないけど。
「偽りのない事実、偽りのない気持ち」はデジタルが更に浸透した少し未来での混乱と、ヨーロッパのアフリカ植民地で文字が普及した過去の物語が交互に語られる。いつでも人は新しい変化に心をかき乱されるし、今我々が古典的にさえ思われるテクノロジーも思想も、世に出た時には社会に悲喜こもごもをもたらすのだ。最近の世の中の変化の速さに、ついていけないな、未来はどうなっちまうんだろう?って思ったりする。ただ、それでも人は新しい世界に何か意味を見つけ、折り合いをつけ、生きていかんといかんのだ。
「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は本作品集の中ではもっとも長い中編だ。AIが進化し、家族の様になった世界で、人や企業の寿命とソフトウェアの人生の時間軸をどう整合させるか?そんなもの人や企業が死んだら終わり、という立場もあるが、割り切れない愛着をもつ人からしたら何が起きるか?自分が死んだ後もどうやって幸せに生きてもらうか。AIの話だが、自分の子供の人生についても強烈に意識せざるを得ない。作中描かれた赤ちゃんの頃のディジェント(AI)がとにかくかわいい。感情移入して成長を見守ってしまった。
>短期間で色々繋がり そういうことってありますよね。ネットのレコメンドもあるけど、自分の無意識的な何かの影響もあるかもと思ってます。僕は今、「死との向き合い」で繋がり中です。
無意識って、ほんと不思議ですよねぇ。自分の人生の主役が意識じゃないかもしれないって、足場がなくなって不安にもなりそう。ただ、偶然っぽく見えるのも、実は偶然じゃないかも、って捉えると新しい楽しみも出そうです。今回は、偶然に見えて実は違う。無意識に何か問があるから、普段なら見落とすところに意味合いを見つけてる、ということだったんじゃないかなと思いました。
アラフィフ。まだまだ黄昏ではなく、これから夜更かしする気満々。
小説ノンフィクション問わず、科学、SF、ミステリー、歴史、社会学、経済、哲学関連の読み物が好きです。
本を読めば読むほど、自分は思ったほど自由にモノを考えていないかった、時代や社会の大きな流れの中にある小舟の様なものだった、と最近痛感します。
そう考えるようになってから、古典を通じて異なる地域や時代性に触れることも最近は楽しめる様になってきました。
評価は個人的なものです。私との相性だとご理解ください。
物差しは以下の通り
・5:心動かされる。価値観や行動に具体的な大きな影響を及ぼす。一生読み返したい。
・4:メモをとりながら深く読みたい。必ず再読したい。図書館で借りた本ならば手元用に買いたい。人生のテーマを広げる/この本を起点に新しいワクワクする探索領域が広がる。人に勧める。
・3:面白かった。没頭できた。共感できた。1回読めばいい。
・2:読まなきゃよかった、程ではないが、共感できない。没頭できない。目新しくない。読後のもやもやなど。BOOK OFFで売?人にはお勧めしない
・1:読まなきゃ良かった。面白くなくて読み続けるのを断念。
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少し前に読んだ、夜間飛行を反芻した。星の王子さま、は夜間飛行の世界がさらに美しくナイーブに結晶化したような印象を持った。夜間の飛行機のパイロットが見る、大地にぽつねんと光る農家の明りを心に描き直してみる。それは80㎞彼方からも見えるのだ。農夫は、自分が見られている、なんてことは想像だにしない。ましてや誰かに美しいと思われていることなんて。我々一人一人が星に生きている。寂しくも美しい。本作最後のページのイラストは印刷して壁に張りたい気分になった。