「日本の「感想分」は、真情を読み取る物語の読解とセットとなって、他者の五感を自己のもののごとく取り込み感じることで、他者の期待を理解し、その期待に応える行為を志向させる。そのような行為は、対立を避け、場の調整を行う高度な認知(現在では社会性に関わる非認知能力と呼ばれている)を養う機能がある。感想分は状況によって複雑に変化していく人間の心情と、場を構成する人間と自然と社会環境の関係を読み取って反応できる共感力を鍛え、子どもを社会かする。それは、形式的な善悪を超える道徳観を育てる。
と渡邊はまとめている。教育学者の幸田国広は国語教育を「隠れた道徳教育」と読ぶ。日本の国語教育とは生徒同士の自主的な相互理解という名目の監視を通して、 自己規律を誘うものだったのだ。SNSで「書く」とは学校でならった要素を凝集した「作文」のことだった。 私はこの『論理的思考とは何か』を推す。これは私たち日本人の思考様式にかぎらず、SNS言論が「なぜ、こんな窮屈で他罰的有様なのか?」を説明している本でもあるからだ。 日本人はSNS上でもお互いの共感や道徳をはかりあっているのである。 バカではないだろうか。
新しい世界をつくりだすとかいているのであって、発想の大本はグッドマンにあったということなのではないだろうか。それなのに青田氏の本にはグッドマンのことは確かかいてなかったので、不可思議に思っていたのである。それにしてもまとめることが難しい。プリキュアは始まってから20年以上たっているわけだが、各プリキュアはそれぞれプリキュアだが異なる。これがヴァージョンということなのだろうか。
あるいは名前が変わったはずのTwitterを、我々はいまだにXとはよばずにTwitterとよぶ。正しくはXなのに。これは我々の「守り」による「投射」がTwitterをXと呼ばせないことといえるのかもしれない。
もっと専門的な授業や教育をしたほうがいいとおもう。以前にもブログで紹介したことがある佐々木紀彦『米国製エリートは本当にすごいのか? 』や苅谷剛彦『グローバル化時代の大学論1 - アメリカの大学・ニッポンの大学 - TA、シラバス、授業評価』『グローバル化時代の大学論2 - イギリスの大学・ニッポンの大学 - カレッジ、チュートリアル、エリート教育』などを読むと、あちらは教育であり、こちらは学生を放置しているだけではないかと思えてしまう。今だとyoutubeで留学している学生の勉強風景がみられるが
ひたすら勉強に時間をかけており—もちろん、そういう大学ばかりでもないだろうが—これが理想的な大学の姿にみえる。結局は高専のような大学を増やした方がいいのではないだろうか。
「分野別」がすすめられている理由は、たとえば宅建だと「宅建免許を必要とする場合はどういった場合か」などがでるが、これだけでも何十通りの聞き方がある。 過去問を一回分やっただけど四択なので、四通りの聞かれ方しか身につかない。分野別だと数十回分の聞かれ方を一気に学べるので、 初心者の段階からものの数十分から一時間ほどで合格者と同様の水準に至ることができる。 また、他の勉強本にもよくかいてあることだが「インプット中心」は何も身につかない。教科書の内容は問題を解くことでしか身につかない。
まず問題が先にあって、それを解くために知識があるというのが資格試験である。 よって身につけるべき知識とは問題としてだされたものということになる。 それなのに、解かないでそれに関係する本ばかりを読んでいると、いつまでも知識が血肉にならない。 そのため問題が解けずに試験に落ちてしまう。必要なのは読書ではなくて正解を導くための行為である。
減価償却、用語の定義などを極めた方が良い。この経過勘定が簿記三級のなかでもっとも難しく、手間がかかるからである。いってしまうと、勉強しないで落として良い。ただし、大問3にでてくる経過勘定は大問2と異なり、絶対に解くべき問題なので落としてはだめだ。詰まるところ、大問2の経過勘定は表を埋めるのが難しい。大問一と大問三は密接に繋がりがあるので、やればやるほど点数があがる。大問2は問題の種類が多く、対策が立てにくい。そしてこういったところは ほどほどに諦めて、点がとれるところで点をとる。これが対策である。
大問3は精算表の問題である。決算整理後残高、精算表、財務諸表の三つのどれかからでるが、やっていることは大問1の仕訳であり、大問3の難しさは仕分けではなく、表の埋め方である。最初は紙にかいて仕訳をし、表をどのように埋めるかを身につける。求められる仕訳はすべて大問一と同じである。合格水準になると、そもそも紙に仕訳を書く量が減る。頭に仕訳が浮かぶからだ。経過勘定と「し~くりくりし~」を書くぐらい。約十五分程で解ける。私も最初は表の書き方が理解できずに苦戦したが、問題を二周したらそつなく解けるようになっていた。
だが、全三百頁という新書としてはなかなか大部なモノを読み通していくと、学習する誰にとっても重要な本であることがわかるだろう。子供も大人も勉強しつづけているのだから。この本を無視していいわけがない。勉強が好きな人、教育に携わる人、あらゆる人間に読まれるべき本である。Twitterでも書いたが、個人的にささったのは「概念がわかっていない子とChat GPTは同様の答え方、考えたかをしている」という部分である。教育とは子供に対してその意味や概念の繋がりを間違いながらも教えていくということなのだろう。
ここで「アブダクション」がでてくる。アブダクションについては今井むつみ氏の『言語の本質』がうれたせいか、最近、とある本が復刊した。米盛 裕二 『新装版 アブダクション: 仮説と発見の論理』である。私がこの言葉を初めて知ったのはプラグマティズムの祖であるチャールズ・サンダース・パースを読んだときであり、又、日本のノーベル物理学賞をとった益川敏英氏が6番目のクォークの存在を仮説することで研究をすすめていったことを知ったときであった。子供の発育にはこの仮説演繹法が欠かせないという。人間とAIの違いである。
解説によると、サリンジャーの評伝には「彼の物語の七十五パーセントは二十一歳以下の人物に関する話であり、うち四十パーセントが十二歳以下の若者である」らしい。だとすると、この手紙はサリンジャーから若者に対する人生における振る舞い方、読まれるべき文学などをまとめたものではないか。でた当時、辛口で知られる批評家によって酷評の憂き目にあった『ハプワース』だが、実際、楽しめる作品ではなく、評価は、サリンジャーにとって人はどうみえていたかをはかるための物差しとしてみるものだろう。
サリンジャーが隠遁生活にはいるまでを描いた映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』、晩年のサリンジャーの手紙をあつかっていた出版社の女性が主役の『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』などがあり、サリンジャーを読む人は映画からみるといいかもしれない。特に前者を当時みたとき、私ズンダは「自分もこういう人生だな」と思わざるを得ず、少し泣いた。 さて、この短編を読んだことにより、一時期話題になった、新潮選書の『謎ときサリンジャー―「自殺」したのは誰なのか―』をいよいよ読むべき時がついにきたようである。
ズンダと申します。Twitter、youtube、はてなブログ、noteをやってます。よかったら全部にきてみてください。
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「日本の「感想分」は、真情を読み取る物語の読解とセットとなって、他者の五感を自己のもののごとく取り込み感じることで、他者の期待を理解し、その期待に応える行為を志向させる。そのような行為は、対立を避け、場の調整を行う高度な認知(現在では社会性に関わる非認知能力と呼ばれている)を養う機能がある。感想分は状況によって複雑に変化していく人間の心情と、場を構成する人間と自然と社会環境の関係を読み取って反応できる共感力を鍛え、子どもを社会かする。それは、形式的な善悪を超える道徳観を育てる。
と渡邊はまとめている。教育学者の幸田国広は国語教育を「隠れた道徳教育」と読ぶ。日本の国語教育とは生徒同士の自主的な相互理解という名目の監視を通して、 自己規律を誘うものだったのだ。SNSで「書く」とは学校でならった要素を凝集した「作文」のことだった。 私はこの『論理的思考とは何か』を推す。これは私たち日本人の思考様式にかぎらず、SNS言論が「なぜ、こんな窮屈で他罰的有様なのか?」を説明している本でもあるからだ。 日本人はSNS上でもお互いの共感や道徳をはかりあっているのである。 バカではないだろうか。