雑感ではあるけれど、レヴィナスは仏教の縁起説のような「自己はただの結節点」という考え方を持ちつつ、そこに「自分が生じてしまったことへの責任」を持ち込もうとしているのかなと。そんなの不合理では?と思ってしまうけれど、「責任」をどうしても問いたださずにはいられない悲惨を経由したからこそ辿り着いた思想なのだろうなと邪推することしかできない。
「身に覚えがないとは、その身がはっきりしなくなれば、言っても甲斐のないことだ」「人が恐れることは、じつはとうに起こってしまっている、とまた声がした。怯えてのがれようとしながら、現に起こってしまって取り返しもつかぬ事を、後から追いかけている、知らずにか、それとも知っていればこそか、ほんとうのことはわからない、誰にもわからない、と聞こえた。」「ここは、誰にも見えないが、辻なのだ」
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雑感ではあるけれど、レヴィナスは仏教の縁起説のような「自己はただの結節点」という考え方を持ちつつ、そこに「自分が生じてしまったことへの責任」を持ち込もうとしているのかなと。そんなの不合理では?と思ってしまうけれど、「責任」をどうしても問いたださずにはいられない悲惨を経由したからこそ辿り着いた思想なのだろうなと邪推することしかできない。