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プロフィール

登録日
2020/10/18(1288日経過)
記録初日
2012/08/17(4272日経過)
読んだ本
149冊(1日平均0.03冊)
読んだページ
46589ページ(1日平均10ページ)
感想・レビュー
112件(投稿率75.2%)
本棚
12棚
性別
年齢
40歳
職業
専門職
自己紹介

自己紹介的なもの

Ⅰ 梵我一如
 世界と私は一つであったのが、私の側に芽生えた意識が恣意的な考えをあれこれ巡らしている不思議。自他の弁別から生じた無数の二項対立が分別智の世界を構成し、AIはそれを模倣している。

Ⅱ 言語、あるいは人の本質としての仮固定
 人は掴みどころのない世界の中で、任意の何かに着目し、わかった様な気になってはまたわからなくなるという事を繰り返している。そもそも人は自分の存在が何なのかさえよくわからない。人の認識はどこまで行ってもかりそめであり、見立てであり、仮定であり、近似であり、ラフ・スケッチであり、暫定的判断であり、結論の先送りである。人はそういう曖昧模糊とした外界の対象に言葉を当てがい、共感し合ったり論争したりする。言葉の使い方が人を表し、人生は過去にどのような言葉を用いてきたかで語られる。

Ⅲ 仮固定と脱構築、複雑系
 何か手近なものを借りてきて利用して、破綻したらまたそこにある別のものを利用する。生命はそんな場当たり的対応の連続で進化してきた。そんな歴史が刻まれた無数の細胞が人体を構成し、サイトカインを通じた細胞間コミュニケーションが人体という複雑系を成立させている。免疫系細胞は自他の弁別を司り、これらが全身をくまなく巡回する事で一個人が全体として保たれている。そんな個体の無数の仮固定的認識が人間社会を構成し、自然が、宇宙が、それを外から支えている。世界は時間的、空間的入れ子構造になっている。

Ⅳ 文脈依存性の世界
 法もマネーも国境も、宗教も倫理も科学も芸術も、世間の常識というのは過去からの文脈を踏襲した一つの時代思潮の下に交わされた約束事で、偶然性に左右されながら移ろい変わりゆくものである。世の中のあらゆる言説には絶対的な根拠などなく、幾分かの嘘やごまかしや時に悪意が紛れ込むことを免れない。

Ⅴ 自由意志とは
 平素の私の振る舞いは、そのような曖昧で根拠不明な世間の常識に対して自分でもよくわからないままに同調したり忖度したりした結果である可能性を否定できない。私が発した言葉は本当に私自身の言葉と言えるのか?私は私の言動にちゃんと責任が取れるのか?世間に簡単に飲み込まれてしまいそうなほど脆弱な私は主体としての自己に関する省察が足りていないのではないか?

Ⅵ 近代的個人の宿命
 私は私自身のことをうまく説明できないにも関わらず、世間における私という役割を引き受ける他ない。その不条理を自覚し、私は私という実存に責任を取ると決めることで、初めて人は社会の参加者となれる。主体の言動に価値があるかどうかは、合ってるか間違ってるかではなく(それはそもそも不可知である)、責任能力の有無で決まるのだ。社会人とは、近代的個人とはそういうものだろう。近代的価値観の中で生きる人間は、自分の言動を神や悪魔や世間あるいはその場の空気のせいにしてはならず、責任は最後まで己に帰する覚悟を持っていなければならない。神が死んだ近代社会に生きるというのは自由なようで実は大変な事なのだ。その自覚なくぼんやり生きていると痛い目にあう。

Ⅶ 近代的個人が生み出したもの
 近代的個人は、私とは何かという問いへの答えは保留にし、主体の実在を確信する処から出発している。近代においては、主体が「ある」という大前提が公理として要請されている。主体が対象として把握できる分別智の世界だけを問題とし、理性によって対象世界の解像度を上げていこうとする態度が合理主義であり、抽象度を上げ数学を用いて対象世界の最も簡潔かつ汎用性の高い記述を目指す試みが科学である。科学の発展のおかげで、飢餓や感染症といったかつては人の生活のすぐそばにあった不条理の大半は克服されるようになった。機械文明の発達で、肉体的労苦も格段に軽減した。自然が人に与える試練を緩和するという意味においては、対象世界の科学的合理的把握という方法は大変有効だったといえる。そしてその様な科学の発展を支えたのは、人々に夢を語り大規模な資金を集める資本の力であった。ここにも、怪力乱神を語らず存在を対象化可能なもの=金と数字(利子)だけに割り切ってしまう近代の合理性が見て取れる。近代合理主義が産んだ科学と資本主義が車の両輪のように影響しあって、今日の文明社会を築いてきたのである。

Ⅷ 科学の限界
 尤も科学は万能ではない。一般性を語り例外を捨象する科学が個々人の心の闇まで照らすことは原理的に不可能である。近代の始まりとともに主体の深淵に目を瞑った後ろめたさは原罪的な不安となって残っており、社会に暗い影を落としている。また、原水爆を例に出すまでもなく、科学技術は人が制御できるレベルをどんどん超えている。良心について深く考えずこのまま合理的思考ばかりで突き進んだ場合、科学は却って禍いを招くだろう。そして、科学というより科学リテラシーの問題になってくるが、科学的に正しいとされたものが人口に膾炙していくと、それがあたかも揺るぎない真理であるかのような振る舞いをし始める弊害がある。科学は複雑な世界を単純に理解するための一つの解釈モデルに過ぎず、より良いモデルが構築されれば従来のモデルは棄却される運命にある。反証可能性こそ、科学を科学たらしめているものだ。これを忘れて科学が絶対的権威になってしまうと、それは最早カルトになったも同然で、社会を誤った方向へ誘導してしまう。我々は優生学の負の歴史を忘れてはならない。

Ⅸ 資本主義の限界
 近頃は資本主義の堕落が目に余る。資本主義はその歴史的使命を終えようとしてるんじゃないかと思われる程に。皆が一生懸命働き拡大再生産を続ければ、みんな金持ちみんな幸せ、などという古典を信じている人はもうどこにもいないだろう。需要過多供給不足のフロンティアは途上国ばかりになり、途上国が豊かになるといわゆるB層貧困層が標的になり、現在では詐欺紛いの弱者ビジネス貧困ビジネスが横行し、ただ資本主義の延命の為だけにあるようなブルシットジョブが溢れるようになった。先進国(この言葉ももうすぐ死語になるだろう)では、資本主義の原動力は物質的欲望からバーチャルな欲望に移っているように思われる。実体経済と金融経済は乖離して久しく、地に足つかない数字の上下に世界が一喜一憂し、企業の倫理は地に落ちて不正による騙し合いの様相を呈しており、根拠不明な補助金給付金のばら撒きが人々の勤労意欲を削ぎ、挙句の果てには政府が率先して不労所得を奨励するようになった。イノベーションが新たな市場を生むという向きもあるが、こういう本末を転倒した考えを私は好きになれない。そもそも何のための経済成長なのか?何のための科学技術なのか?健康で文化的な最低限度の生活が保障された後、人類はどの様な物語を描いていくべきなのか?現代社会はそのビジョンを見失っている様に思われる。いつまでも成長できるような雰囲気が今なお煽られているが、地球資源が有限である以上それは不可能である。ばかみたいに膨らんだバーチャルな欲望が全てハリボテにすぎない事が露呈した時、ハードランディングは免れないだろう。

Ⅹ 現代人の抱える闇
  現代にありふれている苦悩とは、生きている意味がわからないとか、労働に価値を見出せないとか、自分に自信が持てないとかそんな類の、その人自身にしか解決できないような問題ばかりである。いったい何を為すべきかよくわからないまま周囲に流されて馬齢を重ね、ただ健康と安心と安全ばかりを願いながら生きていてたらいつのまにかお迎えが近い年齢になっていた、というような人生が容易に想像されてしまう。毎日虚しさと徒労感ばかりが募り、虚無に耐えられなくなってはゲームやネットに逃避し更に空虚な人生になっていく。こんな救いようのないばかばかしさ、不条理と呼ぶのもおこがましい命の無駄遣いで終える生涯が一般現代人の人生になろうとしている。虚無を抱えた現代人は現金やS&P500的な紙切れ/データばかりを信奉し、少し歯車が狂っただけで簡単に人の道を踏み外す。自分の頭で考えていないから世間に簡単に飲まれてしまって、周りが良いと言っているものに迎合する事しかできない。それは無駄な消費のための生産を繰り返している資本主義や身の丈を越えて持て余されている科学技術と構造的には同じであって、社会の閉塞感が個人に投影されているのである。

Ⅺ Cogitoとは
 現代人は、私は、対象ばかりに目を向けすぎていて己を省みる余裕を失っているのではないか?デカルトの時代に主体について問うことを放棄したのを反省し、再び主体に向き合ってみるべき時がきたのではないか?だがいくら自己を見つめ直しても一向に自分なんてものは見つからない。それもそのはず、自分 Ātman とは永遠に対象化できない何かであると太古の昔から言われているのだ。主体を合理で捉えようとしても自己言及のパラドックスに陥るだけだ。なぜなら主体とは近代合理思考の出発点にある公理だからである。合理思考の罠にはまるとここを乗り越えられない。初心に帰り、主客の二分法というのがどれだけ恣意的で強引で乱暴なものであったかをもう一度よく考えてみるべきだ。私とは無条件に存在が保証されるほど自明のものではなく、他者との関係の中で浮かび上がってくる何かである。主体の実在を安易に認めないという点で、私は近代合理主義よりも、空と縁起の法を説く仏教の方に親近感を抱く。こういう文脈でよく禅が持て囃されるのも、多くの人が分別智の限界に薄々気づいているからではないか?

Ⅻ 現代における文学の重要性
 自分というのは、生い立ちや経験に基いた物語を紡いでいく中で自ずと顕れてくる何かであって、文学的に示されるより他にないものだと私は考える。それも言葉によってピタリと明晰に指し示されるような形でなく、行間から滲み出るような形で不恰好に語られ続けるより他にないものだと思っている。さらに言えば、対象は静的、空間的にしか把握し得ないもので、主体は動的、時間的にしか捉えられない何かである。前者は認識、後者は行動に対応し、これは三島由紀夫の文学的テーマだった。合理的思考ー少数の物差しで対象を捉え、それで全てを把握した様な気になり、その尺度で得た指標に最適化しようとする態度ーを現代社会は持て囃す。だがそれは世界を、自分を、他者を、死物(ただの玩具であり原子分子の塊でありデータであり金づるである)として見ているという事であり、そういうものの見方が、生を、性を、卑小なものに貶めている。私は先進国の引きこもりや少子化の根本的な病理をここに見る。行き過ぎた合理思考によって毀損された個人の価値を取り戻す事ができるのは、文脈に応じ適切な言葉で語り続けることー即ち文学的感性を育むより他にないと直感している。

XⅢ 日本人としての私と死への先駆
 私の物語はどのようにして始まったのか。私はどのような歴史的文脈の中でこの世に生を受けたのだろう。私の関心を惹くのは、ある対象に身心を捧げる事を美徳とする価値観が、我が国の思想的基盤となってきた点である。その行動原理を大義と言った。大義を掲げる対象は政治的には天皇や主君であったが、一般には肉親でも友でも恋人でも何でもよかった。多神教で神仏習合の日本の思想とは、元々はそのくらいのゆるさのものであった。ある対象に対する真っ直ぐで純粋な心ーきよき心、あかき心を神聖なものとする考え方があり、私を滅して誠を貫く生き方=死に方を理想とする様式を我が国は文化として持っていた。

XⅣ 国民的トラウマとしての戦争
 しかし、この世に地獄を生んだ先の大戦を経て、これらの価値観は大きく歪み、捻じ曲がってしまった。真珠湾攻撃は、誰がどう考えても当時の常識からしたって狂気の沙汰だった。だが、そうと知りつつそれでもやるのが当時の日本だった。それは薩英戦争や下関戦争をやらかした幕末の武士と同様の気骨であった。それは会津戦争であり、大塩平八郎であり、赤穂浪士であり、桶狭間であり、湊川であり鵯越であり、日本人からすれば歴史上何度も経験されてきた、大義に殉ずる行動様式の一つのバリエーションに過ぎなかった。死中に活を求めるのが武士道の最も理想とするところであり誉れであり、真珠湾はそれを体現したものだった。しかし、大量殺戮兵器の時代に国を挙げて死に狂いに染まった事は、取り返しのつかない事態を招いた。この思想は組織や社会に適合されると破滅に陥る危険を孕んでいた。葉隠が門外不出とされていた理由でもある。こんな危険思想を全国民に強いて突っ走った当時の日本は、最初から花と散り滅びる運命が決まっていた。近隣諸国を巻き添えにし膨大な犠牲を払いながら、正義の戦争と信じ突き進んだ結果が亡国だった事は、深刻な国民的トラウマとなった。敗戦を境に嘗ての美風は蛮風となり果てた。戦争がもたらした現実があまりに酷かったので、戦後の日本ではそれまで思想の核にあった忠義や誠があまり触れてはいけない危険で野蛮でクレイジーなものになった。日本人は自己の本来性から目を背けるようになり、死を思わなくなった。嘗ての美意識や矜持を失って責任の取り方が分からなくなり、失敗しないようにすること、世間の顔色を伺うこと、損得勘定ばかりが行動原理になり、自分の言葉を持てなくなった。

 安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬからー原爆慰霊碑に彫られた言葉である。過ちとは何か、考えていかなければならない。武士道とは死ぬことと見つけたりー自分の死は自分にしか決められない。であるからこそ、武士道は本来極めて個人的な美学であったはずだ。本来なら個人の内面から発せられるべき倫理や規範意識を、国家が外からの強制力として利用し、世間もそれに加担してもの言えぬ空気が醸成されたこと、それに対抗しうる自律的倫理観を個々の日本人が持てなかったこと。こうした武士道の曲解と退廃こそ、戦前日本の思想的過ちだったのではないだろうか。

XⅤ 大衆の時代
 戦後は大衆の時代として始まった。大衆社会の萌芽は既に大正の頃からみられていた。真珠湾攻撃に快哉を叫んだのは、大本営発表を鵜呑みにして報道したのは、大衆でありマスメディアだった。戦後その事実は都合よくなかった事にされ、「戦犯」だけに罪を押し付け、自分達の民主主義で選んだ指導者を絞首刑にして、米国の「進んだ」大衆文化を無条件に受け入れた。平和主義は対米従属とセットであり、反共の為の方便であった。背後には逆コースと言われた政治取引があった。戦後民主主義平和国家の共同幻想はこれらの欺瞞からスタートした。大衆社会で生きる事のばかばかしい喜劇性は、時代の変化を鋭く察した太宰治が、小説「斜陽」に描いている。浮薄で、下品で、卑屈で、陰湿で、残酷で、嫉妬深くて、不誠実でー大衆には人の醜い部分が詰まっている。戦争は二度と御免だと情緒的には反省した日本人だが、戦争を支持した大衆の悪徳に関してその本質を突くような議論は起きなかった。間に合わせで作られた憲法と自衛隊は、多くの矛盾を抱えながらも超国家アメリカに支えられ盤石に機能し続けた。そのカウンターとして左翼的思想が蔓延したが、多くはかぶれてるか過去を自虐しているにすぎなかった。米国の核の傘に守られながら反戦を叫ぶ虚しさよ。しかし、だからといって打倒米国帝国主義などと息巻く事に、もはや大義はないのである。偽善に耐えられなかった者は極左暴力集団となって他者を傷つけ、極端に振れる事の愚かさを身を以て証明した。

XⅥ 三島の蹶起
 1970年は戦後が一つの区切りを迎えた年だと思う。時あたかも高度経済成長が頂点に達すると共にその終焉を迎えようとしていた。大阪万博が成功を収め、岡本太郎が太陽の塔に込めた思いとは裏腹に、人々は科学技術の発展による進歩的未来を夢見ていた。万博が閉幕しその熱狂も落ち着きつつあった11月25日、三島由紀夫が世間を震撼させた。魂を失った戦後日本に違和感を抱き続けていた彼は世間に絶望し、その思いを檄として突きつけた。自衛隊にクーデターを促すような体裁を取っていたが、成功させる気はなかったと思われる。当然「失敗」に終わったが、自分と殉死者以外に一人の命も奪う事なく世間に強烈な衝撃を与えた彼の行動は見事と言う他ない。彼は自分の自決くらいで変わるほど世の中は甘くない事も分かっていただろう。その自決には美しく死にたいという個人的な願望があった事も否定できない。当時の世間は自分勝手と非難する声が多く、実際この国は何も変わらなかった。だが私は、戦後日本が捨て去った、大義に殉ずる至誠の行動様式の体現者として彼を評価したい。大義とは何か?単純には定義できない。その場の文脈や立場や見方で揺れ動く文学的な概念である。三島の蹶起は認識と行動の哲学であり、全ての日本人に渡された禅の公案なのだ。彼は戦後社会が目を背けていた日本文化の野蛮で非合理な美の源泉を、大衆の面前に引っ張り出して突きつけた。偽善に耐えきれず振り切れたという点では日本赤軍と同じかもしれない。だが彼は誰を傷つけることもなく、日本人の心の奥底に未来永劫楔を打ち込むことに成功したという点で、テロリストとは分けて考えられるべきである。科学の発展がもたらす未来に皆が胸躍らせると共に、岡本が、三島が釘を刺した1970年の日本。五輪に万博にこの頃が戦後文化のピークで、以後はその劣化した焼き直しに過ぎないような気がしてしまう。

XⅦ Japan as Number Oneの時代
 こうしてしらけた拝金の時代が到来した。無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない或る経済大国が極東の一角に残り、私はそこに生まれた。ファミコンが発売され東京ディズニーランドが開園した。物心ついた頃には身の回りがモノとアイコンで溢れていた。藤子アニメがジブリが、戦隊モノゴジラウルトラマン仮面ライダーがあり、ビックリマンシールキン消し霊幻道士スケバン刑事尾崎豊が流行っていた。小学校に上がると少年の心はドラゴンボール一色に染まり、あまり見せてはもらえなかったが、とんねるずたけしさんま志村けんとTVがやたらキラキラ(ギラギラ)輝いていた。Jリーグ開幕頃まで日本は敗北を知らず、下がった株価もすぐに回復すると信じられており、いつも新しい刺激に溢れていて、子供にとっても楽しい世界だった。だが、当時の日本社会は経済的豊かさ以上の価値観を産むことはなかった様に思う。バブルに浮かれる馬鹿騒ぎの裏で、人々の心の空虚は着実に拡がっていた。

XⅧ 衰退日本と私の虚無
 1995年。日本の凋落が子供心にも感じられるようになった。バブル崩壊の取り返しのつかなさが明確になってくる中、阪神大震災からのオウム事件でユートピアだった筈の日本はぶっ壊れた。連日ワイドショーでオウムの闇が報じられ、日本中の小学生が尊師マーチを口ずさむ異常な時代が訪れた。その後も親父狩に援交にチーマーにノーパンしゃぶしゃぶに、みっともない言葉が次々にTVに取り上げられ、私自身のモラルも崩壊した。お笑いも以前のわかりやすさわざとらしさが消え、ダウンタウンのシュールな笑いに変わっていった。私と同世代の弱い人間はキレる17歳なんて言われ、同じ様に弱い大人達から恐れられた。こんな時代に青春を過ごした私は、全てを斜めから見る癖がついてしまった。信じられるものは自然科学しかないと漠然と考え、唯物論的思想に傾くようになった。若い頃の私は、作者の気持ちとかいう訳のわからないものを答えさせる国語が大嫌いで、敢えて文学と親しまなかった。それは私の心の奥行きを狭め、思想を痩せ細らせる結果となった。この頃の私は、人間の感情など所詮は神経伝達物質の作用で自由意志など幻想であり、人間の営為は全て地球を汚す結果にしかならず、それなら何もしない方がいいと考えているような、虚無的な若者だった。健康に恵まれた若者でありながら、何をやってもばかばかしく思えて仕方がなかった。今思えばこれも、当時の若者に蔓延していた時代の空気であった。そうした思想的貧困、世間との乖離の必然的成り行きとして、いつしか私は自分の言葉が持てなくなり、気づいた頃にはその場を取り繕うことばかりに最適化し、グランドデザインが描けず、周囲に迎合することしかできない、典型的なダメな大人の一人になっていた。成人後も、リーマンショックが私の資本主義への懐疑を深刻にし、原発事故が科学や現代社会に対する不信を増幅していった。私は近代の恩恵に浸りながらも、近代というシステムの抱える矛盾に絶望しつつあった。一方で、唯物的なものの見方が己を虚無に陥れている事に気づき、思想を修正していく必要にも迫られていた。30代の私は、仏教や哲学の本を手当たり次第に読み漁り、虚無からの脱却を求めて彷徨っていた。本当はこんな事は学生時代で済ませておくべきなんだろうが、私は遅かった。気づいたら不惑が迫っていた。

XⅨ 認識の歪み
 初めの論考で現代人という大きな主語で語っていた闇、あれは結局は全部自分の事だった。自己肯定感が低くて人生に意味が見出せず、心に深い虚無を抱えていたのは、他でもない私自身であった。それを敗戦や近現代のせいにして自己正当化しようとしていたのも私だった。物質主義的、唯物論的世界観、極端な合理思考が、私の人生を皮相なものにしていた。この思想は受験勉強と相性が良かった。10代の私は学歴社会に反発心を抱きながらも、自分を信じられず人一倍臆病であったが故に、自己の本来性に向き合わず社会に合わせる方を選んだ。己を省みることなくただ受験に最適化するよう認識を歪めていく中で、幸か不幸かこの試みは受験システムの中ではうまく行き、私は歪みに気づくこともなかった。私は、世の中には絶対的な真理があり賢い人は皆それがわかっているものだと思っていた。難しい事は賢い人に任せて、私は自分の分かる事できる事だけやらせてもらえればそれでいいと思っていた。それが人として謙虚な姿勢だとさえ思っていたからタチが悪い。私は私の人生の主人公となる事を最初から放棄していた。すべて人生に対するこういう逃げ腰の態度が問題だった。言葉を大事にしない事が投げやりな人生観を生み、自分を大事にせず他人を大事にしない事に繋がっていた。私の様な弱い人間は世間に飲まれやすく、最初から勝負もしてない癖に、悪い事があると安易に時代や社会のせいにして言い訳しようとする。こういう自己欺瞞的な生き方は、過去の賢人達に末人とか大衆に頽落しているとかいう言い方で批判されていた事を後に知った。

XX 短絡の罪
 私は四十を前にしてようやく小説を読むようになった。読めるようになってきたという方が正確かもしれない。唯物論に染まっていた私にとって、視覚は電磁波の、聴覚は空気の、触覚は末梢神経の振動で、味覚嗅覚は受容体化学刺激でしかなく、それが真理であり科学だと思い込んでいた。だがそんなものは真理でも何でもなく、ある一面的なものの見方で言葉を言い換えただけに過ぎず、実際には何の説明にもなっていなかったのである。自分の中にある、誰かが言った事を簡単に鵜呑みにする傾向、何でも短絡的に解釈する傾向、じっくり腰を据えて考える事のできない胆力のなさに気がついて初めて、文学が読めるようになってきた。私は一等愚かな人間だった。

「一番バカな人間は、分子や原子がほんとうに『ある』と思っている。 中くらいの頭の人間は、分子や原子は『概念』だと考えている。 利口な人間は、分子や原子をたんなる『約束』だと信じているのである。」(都筑卓司「物理学はむずかしくない」)

XⅪ Manifesto
・私は世界を死物と見るのでなく、活物として動的に捉えるよう努めたい。
・私は言葉を大事にしたい。余計な言葉は語らず、必要な言葉を落とさぬよう努めたい。
・言葉を字義通りに捉えるのではなく、行間を読む姿勢、行間に真意を込める姿勢を崩さぬよう努めたい。
・私とは何か、私の生きている世界とは何なのか、その上で私はどうあるべきなのか。それを現代という時代思潮の下で物語れるよう意識したい。

 ここに感想を残す事で、自分というものが浮き彫りになっていくとよいと思う。同時に他者の解釈を拝読する事で、多様性の中の自己を見つめるようにしていきたい。

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