「ナオミはいきなり私の頸にしがみつき、その唇の朱の捺印を繁忙な郵便局のスタンプ係りが捺すように、額や、鼻や、眼瞼の上や、耳朶の裏や、私の顔のあらゆる部分へ、寸分の隙間もなくぺたぺたと捺しました。それは私に、何か、椿の花のような、どっしりと思い、そして露けく柔らかい無数の花びらが降って来るような快さを感じさせ、その花びらの薫りの中に、自分の首がすっかり埋まってしまったような夢見心地を覚えさせました」(123頁)
騎士団長がセロニアス・モンクについて、彼は無から創造したのではなく、すでによく知っている、今ここにある何かから、正しい和音を見つけ出したのだ、というくだりも面白い。漱石の夢十夜に出てくる運慶が、木切れの中から仏の姿を彫り出すように、目の前の何の変哲もない質料の中に永遠な何かを感じ取るのが芸術家の仕事なのだろう。
桜の花を見るとき、いま目の前に咲いている桜だけではなくて、意識していてもしていなくても、これまで生きてきたなかで見た無数の桜が、見た場所や情景や、一緒に見ていた人などとともに、まるで倍音のように、あるいは不可視の光のように、同時にそこに重ねられ、過去のすべての桜が折りたたまれて和音のように響いているかのようで、それゆえここに見ている桜は、私以外の誰にも見えない唯一無二で取り替えのきかないもののように思われる、とここまで書いて、このところ読んでいるプルーストの文体に自分のそれが似てきたことに気づきます。
桜以外でも心に深く残る花や人は存在しますが、桜というのは年度替わりと相俟って特別な花ですね。プルーストも花について書いていますが、中でも山査子の花が印象的です。勿論花咲く乙女たちも。松本さんの文章は音楽や絵画が浮かんできて、私の思い出の桜に重なり、それでも私には唯一無二の桜に思えます。
たしかに桜は特別な花で、いくつもの出会いや別れの記憶に結びついていますね。ときどき原書の表現を確かめながらプルーストを読んでいますが、息の長いセンテンスは麻薬的で、模倣したい気持ちにさせられます。
鈴木優人指揮のバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏で、バッハのクリスマスと新年のカンタータを聴きに、六甲山の中腹にある松蔭女子大学チャペルに。終演のあと外に出るともう日が暮れていて、残照がきれいでした。ブログに短い感想を書きました。https://francoisdassise.hatenablog.com/entry/2023/11/27/152235
子どもだましのこけおどしとわかっていても、地獄落ちのシーンはゾクゾクするものですね。そんなわけで、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の舞台を見てきました。ブログに感想を書きました。https://francoisdassise.hatenablog.com/entry/2023/07/17/153516
ゆうべは鈴木優人指揮、バッハ・コレギウム・ジャパン、森麻季ほか出演の、ヘンデル『ジュリオ・チェーザレ』を見てきました。チェンバロ3台、テオルボ奏者2人という充実した通奏低音がききものでした。ブログに感想を書きました。https://francoisdassise.hatenablog.com/entry/2023/10/08/092648
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます
エンジェル・ホームで生まれ育ったために男性を知らないまま大人になり、男との付き合い方のわからない千草が、恵理菜に対して、私自身は赤ちゃん産めなくても、それでも私は、恵理菜の子の母その2になることができるよ、と言う場面がある。 産む決断をした恵理菜だけを描いていたら、ありがちな母性の賛美に終わっていたかもしれないが、彼女のとなりに産みたくても産めない千草を立たせたとき、母性ということばは少し違う意味を帯びる。産めなくても、産まなくても、母になることはできるのだ。
血の繋がった核家族の閉ざされた息苦しさから解放されて、血縁など関係なしに、ゆるくて大きな親密さを築くことができればいいのに、と思う。