二人の子ども、セリョージャとアーニャのその後が知りたくなる。嫌いな夫カレーニンの子なのに愛さずにはいられないセリョージャと、好きな人ヴロンスキーの子なのに愛着が湧かないアーニャ、この差はなんだろう。アーニャがカレーニンのもとに引き取られたという短い記述があるが、異父兄妹がどのように育ってゆくか、知りたい気持ちにさせられる。
トルストイの戦争と平和全四巻をまとめてメルカリで買ったところ、三巻と四巻の見返しに、訳者工藤精一郎氏の妻への献辞が書かれていて、なんだかドキドキしてしまいます。どのようなドラマを経ていまここにあるのだろうと。
奥付には平成15年とあってそれほど古い本でもなく、状態もよく、このような献辞があればもっと高い値がついても良さそうなのに、定価以下のお手頃な値段で、なんだか申し訳ないほどでした。
いつから人は男女間の恋愛を至上のものと考えるに至ったかを含めた恋愛の歴史、視覚を基本的な認識手段とする西欧文明のルッキズムへの偏向、異性愛主義やロマンティックラブイデオロギーが優勢となっていくとともに、それに当てはまらない同性愛やトランスジェンダーが排除されてゆく過程に興味があり、手に取ってみました。
「たなばたの日の歯科医院にんげんの小暗き洞を覗ける女」「友情の西からのぼり恋人の東へしずむまぶしき馬よ」「みぎに滝ひだりにから鴉従えて春のあしたの散歩にぞ出る 」「十二人の妻にかこまれ時計(クロック)の針の男神はとどまらざりき」「撥音便ひとつ持つゆえ潔き人の名なりきいや離りゆく」「接吻に音階あるを知らざりしころより咲けるさ庭の百合よ」「春夏と秋冬四人の夫持つ女神の息に髪吹かれいる」「右側と左側とがうつし世にあるさみしさや君とあゆめり」「矢筒には花をみたしめ花瓶には矢をみたしめよ歴史負う民」
兄のスチーヴァが、浮気がバレて大喧嘩したあと仲直りして、表面的には平穏を取り戻したあとも、密かに浮気を続けて、家庭と恋愛を上手に両立させているのに、妹のアンナのなんと不器用なこと。自分の気持ちに正直に生きれば生きるほど、どんどん傷は深くなり、取り返しがつかなくなる。しかも、スチーヴァという男が、悪魔どころか、憎めない善良な男性として描かれているだけになおさら、誰に味方していいかわからなくなってしまう。
二人の子ども、セリョージャとアーニャのその後が知りたくなる。嫌いな夫カレーニンの子なのに愛さずにはいられないセリョージャと、好きな人ヴロンスキーの子なのに愛着が湧かないアーニャ、この差はなんだろう。アーニャがカレーニンのもとに引き取られたという短い記述があるが、異父兄妹がどのように育ってゆくか、知りたい気持ちにさせられる。
リョーヴィンの脇筋では、田舎くさくて垢抜けないけれど純真な男の、ついに意中の人に思いを通じる場面の初々しさが印象的。農村経営での彼の迷いと苦悩、近代的な設備や学校教育の重要性を認識しつつ、もしかしたらそんなものは全て余計なことで、そんなものなしでも農民たちは十分やっていけるのではないかという洞察、西洋近代文明を盲目的に崇拝するのではなく立ち止まって懐疑する、しかしこの流れは不可逆的という悟りもある、そのあたりの堂々巡りの思考、わかる気がする。学校なしでやっていければこんないいことはないのに。
高校生以来の再読だが、戦争と平和よりもこっちのほうが面白い。アンナとヴロンスキーが初めて出会う場面での鉄道員の轢死事故が暗示的で、この長編の最後のもう一つの轢死と対をなしていると言えよう。
兼業主夫です
アイコンは エドワード・バーン=ジョーンズ Edward Burne-Jones です
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https://filmarks.com/users/francois708
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兄のスチーヴァが、浮気がバレて大喧嘩したあと仲直りして、表面的には平穏を取り戻したあとも、密かに浮気を続けて、家庭と恋愛を上手に両立させているのに、妹のアンナのなんと不器用なこと。自分の気持ちに正直に生きれば生きるほど、どんどん傷は深くなり、取り返しがつかなくなる。しかも、スチーヴァという男が、悪魔どころか、憎めない善良な男性として描かれているだけになおさら、誰に味方していいかわからなくなってしまう。