結局よく理解できなかったのは、半蔵ら平田門人が理想とした「復古」について。西洋文明を無批判に受け入れる前に、日本人が依って立つべき純粋な「日本性」を見つめ直すべき…みたいなニュアンスなのか…?そんなものが本当に存在するのか、そこを追い求めたとて何を得るのか、という点が、戦争を挟んで藤村から遠く隔たった世代としては、まずひっかかる。また、半蔵が山林事件の請願の際に思い描いた人民が虐げられない世界というものも、「復古」とは別物な気がする。巻末の解説によると、藤村の国学理解には怪しい所もあるそうだが…。
と終戦〜現代のそれぞれの75年間をパラレルに見る発想が根底にあるが、個人的にはこの見方をすると現代の社会・政治の問題が却って分かりづらくなる気がして、この考えとはちょっと距離を置きたいな〜と思う。思えば対談本というものをちゃんと読むのは初めてだったかも。会話形式なのでするすると読めてしまう一方、よく噛み砕かないままするする読めてしまうので、案外難しいものなのだな、というのが率直な感想。
北欧神話用語があまりに頻繁に本邦サブカル文化界隈で参照されるせいで、この本を読んでどのカタカナに反応したかによってその人の世代と嗜好がなんとなく分かりそうだなと思った笑。自分が聞いたことがあったのは「ユグドラシル」「フレイヤ」「ユミル、ウトガルド」「ギャラールホルン」あたりかな…
伝えたかったのかについては、色々調べてみたりしたが、『教養としての仏教入門』で中村圭志さんが唱えている法華経伝導文学説が説得力があると思った。時代を超えて響く普遍的なメッセージを持つことが賢治の文学のすごさだとよく言われるし、そこは読んでみて自分も共感できた。しかしそうは言っても、昭和初期の在家仏教運動という、現代人には馴染みのない当時の世相に特殊な要素とも切っても切れない縁があるという話は、意外性があって面白いと思った。
「おれなぞはおまえ、明日を待つような量見じゃだめだというところから出発した。明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。今日はまた、またたく間まに通り過ぎる。過去こそ真まことだ――…だんだんこの世の旅をして、いろいろな目にあううちに、いつのまにかおれも遠く来てしまったような気がするね。こうして子供のことなぞをよく思い出すところを見ると、やっぱりおれというばかな人間は明日を待ってると見える。」半蔵が狂ってしまった原因を考えると、終盤のこの彼の言葉にはしんみり泣かされる。
結局よく理解できなかったのは、半蔵ら平田門人が理想とした「復古」について。西洋文明を無批判に受け入れる前に、日本人が依って立つべき純粋な「日本性」を見つめ直すべき…みたいなニュアンスなのか…?そんなものが本当に存在するのか、そこを追い求めたとて何を得るのか、という点が、戦争を挟んで藤村から遠く隔たった世代としては、まずひっかかる。また、半蔵が山林事件の請願の際に思い描いた人民が虐げられない世界というものも、「復古」とは別物な気がする。巻末の解説によると、藤村の国学理解には怪しい所もあるそうだが…。
学生時代、せっかく本を読むなら記録も残したいと思い登録。社会人になった今も、マイペースに続けております。
小説のお気に入りは、海外SF、司馬遼太郎、万城目学、恩田陸等々。最近は浅く広く新書を読み漁るのがマイブームになりつつあります。
時間やらお金やらの関係でなかなか実現していませんが、本や作家の所縁の地を旅行するのも好きです。
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「おれなぞはおまえ、明日を待つような量見じゃだめだというところから出発した。明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。今日はまた、またたく間まに通り過ぎる。過去こそ真まことだ――…だんだんこの世の旅をして、いろいろな目にあううちに、いつのまにかおれも遠く来てしまったような気がするね。こうして子供のことなぞをよく思い出すところを見ると、やっぱりおれというばかな人間は明日を待ってると見える。」半蔵が狂ってしまった原因を考えると、終盤のこの彼の言葉にはしんみり泣かされる。