詩から散文へ。中心に向かうのではなくノイズまじりに拡散していく文学。そうしたところから古井由吉に興味を引かれた。そうか、老いることは中動態の世界なのかもしれない。2025年1月の読書メーター 読んだ本の数:31冊 読んだページ数:9286ページ ナイス数:967ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/56191/summary/monthly/2025/1
要はその利用の仕方で善悪二面(この仕分けもかなりグレーゾーンがある)は個人の裁量に任せられるのではないか。例えばトランプが大統領になってもネット社会から抜け出せないのは、Twitterがイーロン・マスクによってXになっても止められないのと同じでいまさらネット社会を拒否も出来ないのだった。
それらが最終的に「ドゥイノの悲歌」に繋がっていく感じなのか。「ドゥイノの悲歌」も内容は難しいのだが、徐々に天使が現れて意味を探っていく感じで理解出来たと思う。日本の近代詩もキリスト教(讃美歌)の神の愛から抒情詩の愛(恋愛)というような島崎藤村の「若菜集」とかもろに模倣だったと『カッコよくなきゃ、ポエムじゃない! 萌える現代詩入門』に書かれていた。そういう感じで神の愛が恋愛的な抒情(物語)になっていくのかと思った。
とは言っても俵万智以降の短歌を論じていて、短歌史はいろいろ勉強にはなる。ただ著者のいうようには短歌の世界は進んでいないようで、口語のつぶやき化という流れは変えられないと思ってしまう。その中で保守主義的にならずにどう他者と共感していくかだと思うのだが、この辺の問題はもう少し深い議論が必要だと思う。
あとがきで村田沙耶香が「クレージー沙耶香」と呼ばれているというのは西加奈子との鼎談(もう一人は柴崎友香で、この三人のような鼎談だった)で知って興味を持ったのだ。村田沙耶香の異星人性は知佳子に感じる。
朝日歌壇は家族詠が取られるというデーターがある。またAIがベスト短歌に選んだのは栗木京子の「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」で歌人が選ぶ短歌と変わりがなかった。恋愛短歌が人気だという。最近の若手の傾向としてユニットで短歌を発表するというのも、短歌が関係性の文学と言えるのか。そうした中で定家賞は家族の喪失とノスタルジックな幼少期の思い出というものだった。あと文学フリマも盛んで、仲間と作る雑誌は結社誌とは違う形だという。縦社会字じゃなく横の繋がりだろうか。
おばさんや母が税関に色目を使ったり他人はみんなスパイだと思いなさいとか、当時の厳しい環境がうかがえるが、そんな中にもユーモラスな語りで面白い。父は悪党のピエロで映画も撮るので女優として出演したり(ソフィア・ローレンになりたかったとか)、母と喧嘩別れしてしまうなかで、モデルのような際どい仕事をしていたりする。生きることの逞しさと母を思う気持ちの抒情が描かれてホロッとしてしまう。
それで権力側に利用されたりしてしまうのだろう。例えば詩のリーディングでロシアの詩人が大喝采を浴びることとか。そうした熱狂の抒情に待ったをいったのが荒地派の考える詩だったような。そこから歌のポピュリズムは権力側に利用されるのではと思ってしまう。侍ニッポンとか。だからカッコよさというのは両刃の剣なのだが、一方でそうしたものに反する抒情もあるのかなとは思う。エモいが短歌で流行っているのは、エモいというとすべてがエモくなるというのなかで最果タヒはエモいを使わないと宣言する。反体制的。
最果タヒや四元康祐は好きだが、広瀬大志は好きじゃないかもしれない。微妙なところだ。好き嫌いの問題なのか?でも、この本で紹介されている詩や詩人は知らないこともあって勉強にはなる。
最後の蛤の貝殻の句は曽良との旅を詠んだのもあるが、貝の魂を海へ返す句なのだと思った(浜辺で読まれたらならそれは鎮魂の句だろう)。そうした死者を鎮魂させると共に芭蕉の弟子たちと再会する楽しみでもあったのだ〈そこで歌仙=俳諧が繰り広げられる〉。だから生者と出会う旅であったのだが、一笑の墓前で詠んだという「塚も動け我泣声は秋の風」は芭蕉の絶叫が聴こえるようだった。
「萩の月」はそうした芭蕉の言霊が生んだ銘菓なのである。それはコピーライティングのように俳句が使われた予知詩というものだったのかもしれない。芭蕉の偉大さは現在にも通じているのだ。小澤實はそうした芭蕉の跡を辿るのだが活字の言霊となって芭蕉の句が届いてくるのである。
「サンショウオ」というのは井伏鱒二の「山椒魚」も連想させる。頭でっかちになった山椒魚と共生するカエル。 「結局のところ、私を震えあがらせたものは私たち特有のものではなかった。私と瞬の関係は父や母や友人らのそれと何の変わりもなかった。(略)みんな気がついてないだけだで、みんなくっついていて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。(略)サンショウウオは物音を建てず通り過ぎていった。」
暴力の「暴」を取って力(権力)にしたいと願うキースは愛を知らない男として描かれていて中学生で睾丸を抜かれたモモが彼を追跡していく中で彼のトラウマ(秘密)を知るというような物語でこれも複雑だった。そんななかでデートピアと番組自体が一人の女神が各国の男を選ぶ(それはトラウマを告白するという番組)であったのだ。隠された世界の裏社会というような物語なのか?
実際にDV被害者の手記などがありそれを解明していくのだが、フェミニズム的な思考のように感じた。斎藤真理子との対談でその環状島というイメージがハン・ガンのトラウマを明らかにするのに述べられて解説されていたのだが、イメージを理解してそれを支援活動に役立てるのはなかなか難しいようだ。被害者はトラウマを隠そうというのではないけど表沙汰になるのが恐怖なのだという。だから被害者の証言が二転三転するのだという。
そのごたごたを冷静に受け止めたのが知将とも言われる少納言入道・信西ではなかったか。保元の乱・平治の乱になると清盛も出てきてやっと『平家物語』風になるが、源為義と長男義朝の争い。さらに為朝の活躍、この辺の名前は間際らしいが親子間兄弟間の争いで新院についた父為義が負けるのだが、息子たちのことを考えて出家するが許されず斬首になるようだ。このあたりは義理人情の世界で盛り上がるが斬首になるのは次の巻きなのかな。
「戦争と平和についての観察」は戦争の破壊は逆エントロピーということが言われ、戦争体験者がいなくなると平和な日常でジリ貧な状態を戦争によって突破しようとする輩が現れる。それはもともと人間の中に破壊衝動があるからかもしれない。その時に埋葬するという思考、ハン・ガンの小説にもあるが埋葬しない限り忘れることは出来ないということで、このエッセイが一つの埋葬の仕方であると述べている。それは忘却しやすい(忘却するということも必要なのであるが)戦争の堕落ということを、書き残して置きたいということなのだろう。
「かっぱ」という架空の生き物は、外部の生き物である。いわゆる妖怪という精神世界の生き物なのか。それは民話や神話に登場するが否定も出来ない。そして言葉としてはイメージ出来るのだった。例えば外部から来た外人とかやはり警戒するし、どう呼んでいいのかわからないものだった。そうしたものが鬼とか魔女であったので何やら意味不明の言葉の世界だけど、その中で踊ってみると楽しいとか、詩はそういうことなのかと。谷川俊太郎の考える詩は音楽に近づく。
岡本かの子のデビュー作は芥川のブルジョア趣味が女の趣味だというようなことを書いているのだが、どうして私を選ばないのさという感じでスキャンダルすれすれの面白さがあるのだ。中国に行って性病になって帰ってきたことも書かれているが、面白いのは観念的な死についての対話だろうか、そこに岡本かの子と芥川の違いが出るのだが孤独さという感じでは理解していたのかもしれない。題名の『鶴は病みき』は芥川を鶴に喩えているのだが、そういう鶴を哀れに思うと同時に愛してしまっているのだった。
その世代が村上春樹なのだと思う。彼のメタファー鼠や犠牲になる女性は書かれているのだが、主人公はなんとなくアメリカからやってきたポップな世界を楽しんでいるのだ。その歪みは個人の男女関係のラブアフェア(恋愛小説)として描かれるので社会問題化されにくいのかもしれない。
kamakamaさん、コメントありがとうございます。『ユリイカ』の特集は、ハン・ガンの作品を読んだ人が前提で書かれているようなので、評論とかは読んでないとわかりにくいかもしれなません(読んでいてもわかりにくいです)。斎藤真理子と宮地尚子の対談は、翻訳者ならではの情報と精神分析である宮地尚子の解釈がハン・ガン理解に役立つと思います。特に宮地尚子は「トラウマ」について、光州事件のトラウマがハン・ガンの文学のキーポイントになっているように語っていますね。
リルケ「芋虫」はの前衛小説のように読める。芋虫状態の男の登場だがドゥルーズのベケット論『消尽するもの』のようでもある。そう言えばイスラエルにドゥルーズ教というキリスト教でも輪廻転生を信じる宗教(新プラトニズム)があると四元康祐『詩探しの旅』に書いてあった。次のディキンスンで完全にハマってしまった。ディキンスンの詩は原初の言葉の根源から言葉を探っていくような詩人だ。元祖ひきもり詩人か?そして、ダンテの『地獄篇』は愛に溢れたウェルギリウスとの地獄めぐり。漢詩を自由に翻訳して見せるのも面白かった。
連詩の他者の言葉が入ることで変容していく世界とか興味深い。「百年の短篇小説を読む」は日本の小説の流れを森鴎外から中上健次まで解説していて面白い。大江健三郎が年取ってから詩に興味が深まっていくのは、やっぱ長編を読む体力もなくなってきたからなのかと自身に照らし合わせて思う。海外小説の翻訳で日本の言葉が変化していくとか、近代の作家(漱石とか)が日本語と他者(外国語)の言葉と格闘して世界が広がっていくのだ。最近の内輪の文学は二人を見習うべきだ。
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「サンショウオ」というのは井伏鱒二の「山椒魚」も連想させる。頭でっかちになった山椒魚と共生するカエル。 「結局のところ、私を震えあがらせたものは私たち特有のものではなかった。私と瞬の関係は父や母や友人らのそれと何の変わりもなかった。(略)みんな気がついてないだけだで、みんなくっついていて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。(略)サンショウウオは物音を建てず通り過ぎていった。」