読書メーター KADOKAWA Group

2025年2月の読書メーターまとめ

かふ
読んだ本
34
読んだページ
8605ページ
感想・レビュー
34
ナイス
1031ナイス

2/12/42/72/102/132/162/192/222/252/28635805637129638453639777641101642425643749ページ数2571257625812586259125962601冊数読書ページ数読書冊数
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2025年2月に読んだ本
34

2025年2月のお気に入られ登録
1

  • テル35

2025年2月にナイスが最も多かった感想・レビュー

かふ
『文藝春秋』で読んだのだが忘れないうちに記録。「サンショウオ」というのは実験動物なわけで四十九日というのは喪の期間という意味なのだ。だからこのタイトルが秀逸だと思うのは結合双生児の意識の違いを描いて、その喪失感を仏教的に供養するという作者の意図が読める。それは意識というものが臓器とは別の状態である繋がりがあるとする思索的な小説になっている。認知症の祖母が別の意識に語りかけたときの至福感に包まれる感覚は見事な描写だと思った。分裂病(統合失調症)の多重人格の話のようにも読める。
かふ
2025/02/17 08:27

「サンショウオ」というのは井伏鱒二の「山椒魚」も連想させる。頭でっかちになった山椒魚と共生するカエル。 「結局のところ、私を震えあがらせたものは私たち特有のものではなかった。私と瞬の関係は父や母や友人らのそれと何の変わりもなかった。(略)みんな気がついてないだけだで、みんなくっついていて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。(略)サンショウウオは物音を建てず通り過ぎていった。」

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2025年2月にナイスが最も多かったつぶやき

かふ

詩から散文へ。中心に向かうのではなくノイズまじりに拡散していく文学。そうしたところから古井由吉に興味を引かれた。そうか、老いることは中動態の世界なのかもしれない。2025年1月の読書メーター 読んだ本の数:31冊 読んだページ数:9286ページ ナイス数:967ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/56191/summary/monthly/2025/1

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2025年2月の感想・レビュー一覧
34

かふ
「言葉はメディアなのかバリアなのか」は言い得て妙である。この妙が微妙なのであって、善悪二面を見てかなければならない。例えばそれによって誰もが自由に発言出来て、自分の力以上のものを出せると思うのだが、そうした個人のトラウマは伝統社会への反発として、例えば家父長制によって押さえつけられた「女・子ども」という感情がバリアとしてコミュニティを作っていく。そのコミュニティの中ではそれほど言葉が足りなくても、言葉の蓄積としてネット社会を形作っているので快楽なのである。しかしそれは仮想社会であって現実ではない。
かふ
2025/02/28 06:54

要はその利用の仕方で善悪二面(この仕分けもかなりグレーゾーンがある)は個人の裁量に任せられるのではないか。例えばトランプが大統領になってもネット社会から抜け出せないのは、Twitterがイーロン・マスクによってXになっても止められないのと同じでいまさらネット社会を拒否も出来ないのだった。

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かふ
ドイツの翻訳詩とエッセイ。翻訳詩はなによりもリルケの「ドゥイノの悲歌」を韻文から散文で翻訳している。音韻やリズムよりも意味的なものを汲み取る感じ。ドイツはヨーロッパでも中心から外れるのでフランスやイタリアの影響を受けている。キリスト教の神への愛が個人の愛に降りてくる(ダンテの煉獄に落とされる罪人)。リルケの天使も堕天使というような。愛する女性は嘆きの天使でギリシア悲劇のカサンドラとか漱石の漢文とか興味深いエッセイ。そうした様々なものが「ドゥイノの悲歌」の下地になっている。
かふ
2025/02/27 20:42

それらが最終的に「ドゥイノの悲歌」に繋がっていく感じなのか。「ドゥイノの悲歌」も内容は難しいのだが、徐々に天使が現れて意味を探っていく感じで理解出来たと思う。日本の近代詩もキリスト教(讃美歌)の神の愛から抒情詩の愛(恋愛)というような島崎藤村の「若菜集」とかもろに模倣だったと『カッコよくなきゃ、ポエムじゃない! 萌える現代詩入門』に書かれていた。そういう感じで神の愛が恋愛的な抒情(物語)になっていくのかと思った。

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かふ
「口語化」やネット短歌の中で私性が希薄になるのを「私」(作者)≒〈私〉(作品)という日本のあいまいなる「私」的な保守主義に傾きつつある傾向が出てきたのは大震災のあとの当事者性ということが言われたからだ。文学の世界では虚構性は「私」ではないという(当事者性を問題にしないから他者が描ける)当たり前だと思っていたことが通じない。最後はヴェーバーとか持ってきてそれに当てはめようする。まあ、そうは言ってもますます私性は希薄になりつつあるのだと思う。俳句は私性は消してアニミズムの方向となっているのだがその差異なのか。
かふ
2025/02/26 17:19

とは言っても俵万智以降の短歌を論じていて、短歌史はいろいろ勉強にはなる。ただ著者のいうようには短歌の世界は進んでいないようで、口語のつぶやき化という流れは変えられないと思ってしまう。その中で保守主義的にならずにどう他者と共感していくかだと思うのだが、この辺の問題はもう少し深い議論が必要だと思う。

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かふ
芥川賞作の『コンビニ人間』で掴みそこねていたかもと思い読んでみた。希死念慮というべきものを知佳子から感じてしまう。宇宙人みたいに感じた。三人の女性が出会う中でセックスは何か?というのを問いかけているのだが、里帆は女性とも男性とも判断がつかないで悩む。椿はそれは女性性を避けているからだ(もっともな意見)といい、対立する。千佳子は男女しかない性別を不思議に思う宇宙人(異星人)。そんな三人が出会う自習室というハコブネ。そこから抜け出したかのような知佳子。中島みゆきの「宙船」を聞きたいと思ったのは里帆のテーマか。
かふ
2025/02/25 07:39

あとがきで村田沙耶香が「クレージー沙耶香」と呼ばれているというのは西加奈子との鼎談(もう一人は柴崎友香で、この三人のような鼎談だった)で知って興味を持ったのだ。村田沙耶香の異星人性は知佳子に感じる。

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かふ
短歌研究も二ヶ月合弁号になったのか。短歌ブームと言われるが雑誌は売れてないのだろうか。ネット短歌が流行りなのか。短歌の振り返りとして、俵万智から40年という記事がけっこう驚きというか、未だに第一線で活躍している俵万智の存在感はと驚くがやはり女子大生から結婚をして家族を得て大地震に出会い、その中で短歌を読み続けているのだ。コロナ禍でもTVに出て活躍しているし、そういう立ち回りが上手いのだと思う。短歌は、孤独の作業ではなく、そういう繋がりだと知る。AIの世界でもネット評価で学習させたりしているという。
かふ
2025/02/24 01:32

朝日歌壇は家族詠が取られるというデーターがある。またAIがベスト短歌に選んだのは栗木京子の「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」で歌人が選ぶ短歌と変わりがなかった。恋愛短歌が人気だという。最近の若手の傾向としてユニットで短歌を発表するというのも、短歌が関係性の文学と言えるのか。そうした中で定家賞は家族の喪失とノスタルジックな幼少期の思い出というものだった。あと文学フリマも盛んで、仲間と作る雑誌は結社誌とは違う形だという。縦社会字じゃなく横の繋がりだろうか。

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かふ
ルーマニアの独裁者(チャウシェスク大統領)から亡命したサーカス一家の末娘の手記で多和田葉子がドイツ語で受賞したシャミッソー賞を受賞したという。ロマの小説。簡潔な言葉だけど詩のような題名は母が髪の毛で宙吊りになる芸の間に母が語ってくれた民話を姉が妹にし、妹は人形や飼っている犬にするというように代々伝わっている話で、姉の話になると残酷さを増すという。それをバンビという子犬に話すのだがある日事故でドアに挟んで殺してしまう。そのバンビを冷凍保存して旅回りしたとか、マジックリアリズムという感じなのかもしれない。
かふ
2025/02/22 20:31

おばさんや母が税関に色目を使ったり他人はみんなスパイだと思いなさいとか、当時の厳しい環境がうかがえるが、そんな中にもユーモラスな語りで面白い。父は悪党のピエロで映画も撮るので女優として出演したり(ソフィア・ローレンになりたかったとか)、母と喧嘩別れしてしまうなかで、モデルのような際どい仕事をしていたりする。生きることの逞しさと母を思う気持ちの抒情が描かれてホロッとしてしまう。

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かふ
まずカッコよさというのはよくわからない。美意識的なものだと思うが、それは個人個人によってちがうのではというのがある。カッコよさは抒情だというのはわかるようなわからないような。つまり感情ではあると思うのだがそれが全体主義的になっていったかつての日本の詩があるわけだった。カッコよさが正義と言われても、特攻隊でいいのかというがある。死という概念を含む潔さみたいなものがあると思うのだが、それは国家よりも個人に属するものかもと。一番読んでみたいたい詩は山本陽子の日本語を溶解させていくような詩だった。
かふ
2025/02/21 23:18

それで権力側に利用されたりしてしまうのだろう。例えば詩のリーディングでロシアの詩人が大喝采を浴びることとか。そうした熱狂の抒情に待ったをいったのが荒地派の考える詩だったような。そこから歌のポピュリズムは権力側に利用されるのではと思ってしまう。侍ニッポンとか。だからカッコよさというのは両刃の剣なのだが、一方でそうしたものに反する抒情もあるのかなとは思う。エモいが短歌で流行っているのは、エモいというとすべてがエモくなるというのなかで最果タヒはエモいを使わないと宣言する。反体制的。

かふ
2025/02/21 23:22

最果タヒや四元康祐は好きだが、広瀬大志は好きじゃないかもしれない。微妙なところだ。好き嫌いの問題なのか?でも、この本で紹介されている詩や詩人は知らないこともあって勉強にはなる。

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かふ
『嵐が丘』は影響力は、最近読んだ韓国の小説でも『嵐が丘』が出てきた。最初に読もうと思ったのも音楽からでケイト・ブッシュのデビュー・アルバムを聞いたからだった。どこにそんな引き付ける物語があるのだろうか?それは聞き書きのスタイルで侍女であるネリーの語りではないだろうか?ネリーはキャサリンに反感を持つのだが、倫理的にネリーの意見は正しいけれども、それでもキャサリンに魅力があり、ネリーも死ぬときはそれを認めてしまう。ネリーが成れなかった姿にキャサリンは成るからだった。自意識ばかりが強くてなんでも思い通りにする。
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かふ
世界をムーミンを通して見るというような本だろうか?最初にあるビー玉の世界観。ビー玉を通して見る夕陽の世界は美しいが、それはガラス玉の世界と知っている者と。しかしビー玉を通して見る現実を求めてしまうということ。それは覗いている者と覗いてないものの違いとして異世界なのだろうか?見るという哲学の本なのか?「見る」から「観察」へということ。その根本は?
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かふ
『おくのほそ道』。歌枕というのは本来その土地に行かずともイメージする本歌取りの手法なのだが、芭蕉はあえてその歌枕を訪ねる旅をしているのである。その理由もいろいろあるが同行した曽良によるとそれは「黄泉の道」であったとするのだ。つまりすでに滅んでしまった武士時代や貴族たちの亡骸を追善供養する旅でもあった。芭蕉はそうした目に見えないものの姿を詠むシャーマンの姿を彷彿させる。それは象潟を詠む句はすでに象潟は喪失された場所なのだが古代詩(漢詩の楚辞)に思いを馳せる。さらに遊行柳に西行の姿を見たりする。
かふ
2025/02/19 07:41

最後の蛤の貝殻の句は曽良との旅を詠んだのもあるが、貝の魂を海へ返す句なのだと思った(浜辺で読まれたらならそれは鎮魂の句だろう)。そうした死者を鎮魂させると共に芭蕉の弟子たちと再会する楽しみでもあったのだ〈そこで歌仙=俳諧が繰り広げられる〉。だから生者と出会う旅であったのだが、一笑の墓前で詠んだという「塚も動け我泣声は秋の風」は芭蕉の絶叫が聴こえるようだった。

かふ
2025/02/19 07:46

「萩の月」はそうした芭蕉の言霊が生んだ銘菓なのである。それはコピーライティングのように俳句が使われた予知詩というものだったのかもしれない。芭蕉の偉大さは現在にも通じているのだ。小澤實はそうした芭蕉の跡を辿るのだが活字の言霊となって芭蕉の句が届いてくるのである。

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かふ
中国の神話時代の夏から殷(小説の中では商)へ変わる時代を描いている。伊尹(摯)は夏出身であり(正確には夏の中にある小国)義理立てするかつての仲間たち(武将)と反するのだがそこの転換から後編は始まり、三顧の礼はこの時代の摯を招く商王から始まったとする。物語的には「三国志」のような戦記物だが、神話的部分があるので、そこにファンタンジーを感じるエンタメ小説になっている。漢字の人名とか国名は難しいのだが、情景描写や会話体主体の物語は読みやすい。人物中心なので感情移入してしまう物語で「三国志」好きならば楽しめる。
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かふ
この二作も同時受賞だった。そういうときは一方が問題作で一方がいわゆる文学文学しているのだろうか。選評で島田雅彦が『バリ山行』は自然主義文学をベタに書いているようだというのに共感した。観察者の文学なのだ。ブログの面白さのような。それで共感を得る。しかしその本質は会社小説なのだと思った。一方『サンショウオの四十九日』はそうした組織(システム)を外れていこうする人の実験小説。わかりにくさはあるが、その意欲に惹かれる。賛否両論の問題作。あと半年前の雑誌を読むとちょっとだけ未来にいる自分を感じる。
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かふ
詩のワークショップでのレッスンを通して言葉の不思議さを知る。著者たちの立場は言葉は他者的なものでそれを組み合わせたり、一部を変えたりして、詩を作り出す。シュルレアリスムの無意識の方法みたいな。その無意識の言葉から自分の文脈(文体)としての言葉を組み立てるというような方法。詩だけじゃなく、ブログなどの文章を書くのにも役立つという。真面目にレッスンをやれば面白いのかもしれない。詩の背筋力を鍛えるというような本。
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かふ
『文藝春秋』で読んだのだが忘れないうちに記録。「サンショウオ」というのは実験動物なわけで四十九日というのは喪の期間という意味なのだ。だからこのタイトルが秀逸だと思うのは結合双生児の意識の違いを描いて、その喪失感を仏教的に供養するという作者の意図が読める。それは意識というものが臓器とは別の状態である繋がりがあるとする思索的な小説になっている。認知症の祖母が別の意識に語りかけたときの至福感に包まれる感覚は見事な描写だと思った。分裂病(統合失調症)の多重人格の話のようにも読める。
かふ
2025/02/17 08:27

「サンショウオ」というのは井伏鱒二の「山椒魚」も連想させる。頭でっかちになった山椒魚と共生するカエル。 「結局のところ、私を震えあがらせたものは私たち特有のものではなかった。私と瞬の関係は父や母や友人らのそれと何の変わりもなかった。(略)みんな気がついてないだけだで、みんなくっついていて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。(略)サンショウウオは物音を建てず通り過ぎていった。」

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かふ
エチオジャズはエチオピオのジャズということなのだが、本の中にQRコードが付いていてそれが動画サイトとリンクして実際に演奏が聴けるようになっている。それは日本人好みの演歌とかチンドン屋メロディで興味深いものだった。本は地元のミュージシャンにインタビューしたりエチオピアの音楽文化の歴史を紹介というフィールドワークを主体とした本で面白い。その手法がジャズ的な即興演奏というような出たとこ勝負みたいなスタイルなのか、著者もブルーズマンだった(ブルーズと書くところにこだわりがある)。
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かふ
両作品ともレベルが高いのか、スラスラは読めなかった。鈴木結生『ゲーテはすべてを言う』はゲーテ研究者がティーバッグのあったゲーテの格言を巡ってのメタフィクションで、紅茶に書かれていた英語の格言を探すのに奔放するのだが、それはネットの格言集から選んだ言葉でその源泉は、ゲーテのラブレターだったと判明する。その時に妻のガーディニングがゲーテの愛をモチーフにしたということに気づくのだが、教授が訳したのが「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」という言葉だった。それを物語にしたのが娘の彼氏であったという入れ子構造の話。
かふ
2025/02/14 17:30

暴力の「暴」を取って力(権力)にしたいと願うキースは愛を知らない男として描かれていて中学生で睾丸を抜かれたモモが彼を追跡していく中で彼のトラウマ(秘密)を知るというような物語でこれも複雑だった。そんななかでデートピアと番組自体が一人の女神が各国の男を選ぶ(それはトラウマを告白するという番組)であったのだ。隠された世界の裏社会というような物語なのか?

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かふ
環状島というのはトラウマを抱えた被害者のイメージで河合隼雄の中空構造から考えたような概念なのか。中空と言っても周りがドーナツ状に内海があり中心は島になっているイメージでその内海が水嵩が増すと被害者は水の中に沈んで見えなくなってしまう。水が引くと証言するようになるのだが、トラウマを抱えているのですべてを明らかにするのが難しい。そして支援者の中でも対立してなかな罪が明らかにならないのだがそういうイメージを持つことによって支援者が被害者を理解し合えるというような。
かふ
2025/02/12 22:25

実際にDV被害者の手記などがありそれを解明していくのだが、フェミニズム的な思考のように感じた。斎藤真理子との対談でその環状島というイメージがハン・ガンのトラウマを明らかにするのに述べられて解説されていたのだが、イメージを理解してそれを支援活動に役立てるのはなかなか難しいようだ。被害者はトラウマを隠そうというのではないけど表沙汰になるのが恐怖なのだという。だから被害者の証言が二転三転するのだという。

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かふ
少納言入道・信西は、藤原南家の貴族であり、それまで摂関家だった藤原頼長は藤原北家であるから、藤原家の勢力争いとともに、美福門院(藤原得子)と待賢門院(藤原璋子)の皇后としての争いもあった。そのポイントになるのが鳥羽院であり待賢門院よりも美福門院に付いたので、雅仁親王が後白河天皇になって権力の移行の中で失墜していくのが藤原頼長と崇徳新院であり、鳥羽院は多少崇徳新院に恨みがあったというか、白河院の愛人でもあった待賢門院が許せなかったのか。
かふ
2025/02/12 22:06

そのごたごたを冷静に受け止めたのが知将とも言われる少納言入道・信西ではなかったか。保元の乱・平治の乱になると清盛も出てきてやっと『平家物語』風になるが、源為義と長男義朝の争い。さらに為朝の活躍、この辺の名前は間際らしいが親子間兄弟間の争いで新院についた父為義が負けるのだが、息子たちのことを考えて出家するが許されず斬首になるようだ。このあたりは義理人情の世界で盛り上がるが斬首になるのは次の巻きなのかな。

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かふ
100分de名著を見て興味を持った精神科医のエッセイ。エッセイとしては用語や人名など専門的に語ることがあるが、興味の範囲としては「トラウマ」ということが気になった。それはPDSTが戦争の後遺症なのだが、日本人は精神力の弱さを指摘されるので表には出にくかったのだが大震災(中井久夫は阪神大震災だが、東日本大震災でもそういうトラウマが話題になった)の影響で最近その手の本も多いと思う。最近読んだハン・ガンの本でも「トラウマ」がキーポイントとして語られていたので共通の話題も多いかなと思った。
かふ
2025/02/11 16:51

「戦争と平和についての観察」は戦争の破壊は逆エントロピーということが言われ、戦争体験者がいなくなると平和な日常でジリ貧な状態を戦争によって突破しようとする輩が現れる。それはもともと人間の中に破壊衝動があるからかもしれない。その時に埋葬するという思考、ハン・ガンの小説にもあるが埋葬しない限り忘れることは出来ないということで、このエッセイが一つの埋葬の仕方であると述べている。それは忘却しやすい(忘却するということも必要なのであるが)戦争の堕落ということを、書き残して置きたいということなのだろう。

が「ナイス!」と言っています。
かふ
NHKで放送された番組の書籍化のようである。インタビューということでわかりやすいし、NHKの番組ならなおさら信頼が置けるのかもしれない。そんなことは知らずにただタイトルだけを見て図書館で借りたのだが、谷川俊太郎は言葉というものが他者のものであり、それを伝達するのが詩人ではと言っているのかもしれない。自分の言葉なんてほとんどないという。ほとんど借り物の言葉、それは言葉を習うより倣うという感じなのかと思う。だから子供にも人気がある詩人なのだ。その一つが言葉遊びの世界の詩なのである。
かふ
2025/02/11 14:18

「かっぱ」という架空の生き物は、外部の生き物である。いわゆる妖怪という精神世界の生き物なのか。それは民話や神話に登場するが否定も出来ない。そして言葉としてはイメージ出来るのだった。例えば外部から来た外人とかやはり警戒するし、どう呼んでいいのかわからないものだった。そうしたものが鬼とか魔女であったので何やら意味不明の言葉の世界だけど、その中で踊ってみると楽しいとか、詩はそういうことなのかと。谷川俊太郎の考える詩は音楽に近づく。

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かふ
漢詩に興味を持って借りたのだが学校で習う漢文の授業程度の内容か?基本漢詩の音韻については諦めているので、意味を汲み取るしか出来ないのだが、言葉の辞書的な感じならば『唐詩選』とか読んだほうがいいのかもしれない。いろいろな漢詩がわかりやすく解説している本ということか。李白が多いのはこの監修した人が酒飲みなのか李白が好きなのか、李白は杜甫に比べてイメージが幻想的なのがいいのかもしれない。
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かふ
岡本かの子が芥川龍之介に対する思いを短編として描いた私小説。たぶん岡本かの子のフィクションが入っていると思うのだが最後の一文に笑ってしまった「これを葉子という一女性の徒らなる感傷の言葉とのみ読む人々よ、あながちに笑い去り給うな」。これをあくまでもフィクションと思わせて笑いを取りにいくかの子は、太郎の母であった。自分は芥川を救えたのかもとフィクションとしたのだろうか?「うづたかき白光の量眼に浮きて晝見し鶴を得こそ忘れね」
かふ
2025/02/11 08:43

岡本かの子のデビュー作は芥川のブルジョア趣味が女の趣味だというようなことを書いているのだが、どうして私を選ばないのさという感じでスキャンダルすれすれの面白さがあるのだ。中国に行って性病になって帰ってきたことも書かれているが、面白いのは観念的な死についての対話だろうか、そこに岡本かの子と芥川の違いが出るのだが孤独さという感じでは理解していたのかもしれない。題名の『鶴は病みき』は芥川を鶴に喩えているのだが、そういう鶴を哀れに思うと同時に愛してしまっているのだった。

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かふ
旧暦のカレンダーにその月ごとに季語の句や詩歌が連なる。季語からの俳句コレクションみたいな感じなのか。最初にその季語から連想される批評があり、人物についてとか芥川と岡本かの子が誕生日が一緒で芥川の晩年の作品を書いたとか、カレンダーごとに見ていくような本(コラム)。歌帳とあるから、こういうノートを作っていたのかもしれない。勉強になるがやはり旧字は読みにくい。塚本邦雄流の歳時記(綺麗どころを集めた)といったところか。
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かふ
津村記久子『やりなおし世界文学』を読んだことがきっかけで「世界文学」ということを考えた時に、それはこの本のように誰かに与えられた「世界」ではないと反発したのだった。それは著者の津村記久子も実際に、ここに出ている世界文学という統計的な(Amazon選出の本)に異議を挟んでいるのだった。「世界」というものを「世間」と思っているのか「精神世界」と思っているのかの違いなのかもしれない。ヘッセの「世界文学」はもちろん後者の方であった。
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かふ
「高橋源一郎の飛ぶ教室」で紹介されていたが、偶然にも借りていた。ハン・ガンのサブテキストぐらいに思っていたのだが、韓国文学史を韓国の歴史から紐解いていく。日本でも話題になったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジオン』からハン・ガンのノーベル賞まで疑問が解けた感じである。チョ・ナムジュの本は豊かになった韓国社会とそれでも幸せになれない女性のトラウマを描いているのだが、それから韓国のフェミニズムはさらに過激になっていくのだ。そこには韓国では朝鮮戦争がまだ継続中のリアルさがあった。
かふ
2025/02/08 07:03

その世代が村上春樹なのだと思う。彼のメタファー鼠や犠牲になる女性は書かれているのだが、主人公はなんとなくアメリカからやってきたポップな世界を楽しんでいるのだ。その歪みは個人の男女関係のラブアフェア(恋愛小説)として描かれるので社会問題化されにくいのかもしれない。

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かふ
自伝五部作の最後の自伝。最初に戻って(翻訳ではこれが最初に出したのはわかりやすく、五部作で巡回していく形になるとか)子供時代の自伝なのだが、絶望的状況の中にも子供時代は幸福に感じることもあったのだ。その思い出は心温まる話が罵詈雑言の中で光っていた。そこがいい。作家である祖父の影響を受け、田舎(農場)での暮らしとかで知り合った友達とか。ベルンハルトにも友達がいたのだ。その家庭的な雰囲気もいい。その後ナチス政権になってとんでもない矯正学校に入れられたりするのだが。
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かふ
現代詩を読み始めて一年ぐらいなのか(詩を読み始めてか?)で、ほとんどわからなかった中で多和田葉子「階段状の冬」はシュルレアリスムのカリグラムの手法で詩形が階段の形をしているので読んでわかりやすかった。それで好きな詩人は片手ぐらいはいるのだが、それほどのいいとは思わなかった。今年度の収穫で、杉本真維子『皆神山』と粕谷栄市『楽園』が目立っていた。読んでわかりやすいと思った。杉本真維子は家父長制に対しての詩なのかな(石垣りんっぽさを感じた)、粕谷栄市は病人みたいだ(ベッドで夢見る楽園みたいな)。
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かふ
以前別の出版社で読んでいたのだが國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読んでソクラテスと中動態は関係があるのか?確か訴訟のことについて書いてあったと思う。そこはあまりよくわからなかったのだがソクラテスの神託をプラトンは信じていたのか疑問に思った。それはプラトンの洞窟の喩えはソクラテスのことかもと思ったのだ。弟子が師匠の本を書く古典は多いのは師匠愛なのかと思ったのだ。信というのはそういうことで、死の覚悟性とか戦時の人だなと思った。どこかで三島由紀夫に近いというような論評があり頷けるかなと。
かふ
2025/02/06 16:37

イメージ的にソクラテスは軟弱爺の感じだけど論理は頑固爺だった。

かふ
2025/02/06 16:49

神託を信託と書き間違えていたのだが、プラトンからしてみれば信託だったのかもしれない。

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かふ
ハン・ガンの入門書としてレベルが高いかな。翻訳者の斎藤真理子と精神科医の宮地尚子の対談はわかりやすかった。ハン・ガンが光州事件から受けたトラウマが4.3事件の『別れを告げない』で結実していく。当初は雪の三部作になるはずが、一本の作品になったということ。また次の作品は雪だるま女の話で部屋に入れないで外をさまよっているうちに男と巡り合うという喜劇調の作品のようだ(ただ結末は溶けてしまうので悲劇)。あと『菜食主義者』で個人のトラウマが韓国社会の事件のトラウマになりノーベル賞ということだった。
かふ
2025/02/06 08:26

kamakamaさん、コメントありがとうございます。『ユリイカ』の特集は、ハン・ガンの作品を読んだ人が前提で書かれているようなので、評論とかは読んでないとわかりにくいかもしれなません(読んでいてもわかりにくいです)。斎藤真理子と宮地尚子の対談は、翻訳者ならではの情報と精神分析である宮地尚子の解釈がハン・ガン理解に役立つと思います。特に宮地尚子は「トラウマ」について、光州事件のトラウマがハン・ガンの文学のキーポイントになっているように語っていますね。

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かふ
前半は屈原から魯迅までの中国を代表する詩人とその詩を網羅するのだが、中国詩史という感じなのか、後半の「私の好きな中国の詩」が項羽と劉邦の違いや隠者の詩人や水墨画の写生と観念的な象徴詩などを論じて面白い。また「中国近代詩華抄」は唐詩などの古典詩ではなく近代の詩(日本に学ぶ民権運動)の詩人も面白い。魯迅がそうだが、民権運動を学びながら日本支配の祖国に目覚めるというような。あと数は少ないが女性詩人もとりあげられていたり。
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かふ
詩の言葉は他者の言葉として神に近い信仰と愛があるのは、先日読んだ古井由吉と大江健三郎の対談『文学の淵を渡る』で読んだのだが、その延長として詩の翻訳が神から授けられた言葉の伝達ということで、本来神の言葉は翻訳不可能なのである。それでも詩人たちは、その言葉を翻訳して伝えようとすることは神秘主義のドグマに似ているのかもしれない。この本に掲載された詩人がそんなタイプが多いのだ。神の言葉なんて信じられるか、だけど愛が必要だみたいな。四元康祐の翻訳は逐語訳というような自身の時代を通しての翻訳詩なので、現代的に面白い。
かふ
2025/02/03 17:07

リルケ「芋虫」はの前衛小説のように読める。芋虫状態の男の登場だがドゥルーズのベケット論『消尽するもの』のようでもある。そう言えばイスラエルにドゥルーズ教というキリスト教でも輪廻転生を信じる宗教(新プラトニズム)があると四元康祐『詩探しの旅』に書いてあった。次のディキンスンで完全にハマってしまった。ディキンスンの詩は原初の言葉の根源から言葉を探っていくような詩人だ。元祖ひきもり詩人か?そして、ダンテの『地獄篇』は愛に溢れたウェルギリウスとの地獄めぐり。漢詩を自由に翻訳して見せるのも面白かった。

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かふ
『短歌で読む 昭和感情史 』と同時に借りたのだが、感情というのが単なるノスタルジーに伍するとあまり面白くないと感じる。その時代のリアリティよりも昔懐かしいという歌が多くて、途中で飽きてきた。戦時のリアリティを求めるものではないが、何か今の生活が安定した上で、昔の貧しさを懐かしむようなそんな昭和のアンソロジーのように感じる。その時代に作られた短歌はけっこう驚きがあるのだが、ノスタルジー短歌は、ありきたりなイメージでしかないように感じてしまう。
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かふ
大江健三郎が古井由吉をゲストに翻訳と日本語の文体について対談している。主に詩についてなのだが、死と信について、信仰ということ。古井由吉は欲望としての愛が信仰としての愛に繋がるかというような。ドイツ語学者として、翻訳で自身の日本語がどう変化していくのか語っていて興味深い。大江の信は説明過多で難解という感じだが吉井由吉は他者の言葉は自身も変容させていくので難解という感じなのか。神秘主義に繋がることのように、リルケの『ドゥイノの悲歌』を韻律詩から散文詩にすることで変容していく自己の愛の形(合一しない神とか)。
かふ
2025/02/01 20:23

連詩の他者の言葉が入ることで変容していく世界とか興味深い。「百年の短篇小説を読む」は日本の小説の流れを森鴎外から中上健次まで解説していて面白い。大江健三郎が年取ってから詩に興味が深まっていくのは、やっぱ長編を読む体力もなくなってきたからなのかと自身に照らし合わせて思う。海外小説の翻訳で日本の言葉が変化していくとか、近代の作家(漱石とか)が日本語と他者(外国語)の言葉と格闘して世界が広がっていくのだ。最近の内輪の文学は二人を見習うべきだ。

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かふ
江戸庶民の感情として、川柳があり、それらは浮世絵のごとく権力者の欲を明らかにしていた。江戸の川柳子(川柳作家)が『平家物語』を題材に川柳にするのだが、下ネタ川柳が多い。そんな中でも当時の権力者を自分たちと同じだと思う意識なのかもしれない。それは『平家物語』の「奢れるものは久しからず」に通じているのかもしれない。川柳で『平家物語』を読むのはわかりやすいと思うのは、短詩の定型がハマっていくからだろうか。当時の庶民が権力者に感じていた感情史であるかもしれないと思った。
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2010/03/16(5504日経過)
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