
図書館に予約していた川上未映子『黄色い家』を読むことが出来た。一年前に予約した本だったが、それだけの内容はあったと思う。今のところ今年ベスト本かな。あと全体的に詩の本が多かったような。俳句、短歌と始まって今は詩に挑戦している。2024年7月の読書メーター 読んだ本の数:25冊 読んだページ数:7954ページ ナイス数:738ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/56191/summary/monthly/2024/7
エリが住む「ヘルシンキ」がロシアの皇帝が作った植民都市(人工都市)としての歴史がある。サンクトペテルブルクの次に首都になった場所であった(ロシアの南下政策)。幽霊譚には相応しいようなゴースト・ストーリーになっている。多崎つくるはかなり頭が良さそうなので話を年上の恋人のために作ったということはないのか(信頼できない語り手)。そのぐらい物語が出来すぎな感じがしてしまう。
ただ鴎外が晩年にはレトリックを多様せず語彙の力によって文章を組み立てていたという(それはそれだけの知識があったということだ)。レトリックは辞書的な言葉に満足出来ないときの表現方法として使うテクニックであるということだ。子供がオノマトペで自身の言いたいことを伝えようとするのに似ているのかもしれない。言葉を知るほどレトリックが不要になるとか、そういう面だけじゃないのも詩によるレトリックもあるからだろうか?ただその分類は専門的になりすぎて、例えば換喩と提喩の違いは詩的言語性にあるということだ。
言葉の定義性は曖昧であるからにしてどこから換喩でどこから提喩というも理解が難しいということだ。ただ専門家はそこに差異を見つける。今では提喩と言われてとほとんどの人がわからないと思う。直喩と隠喩と換喩ぐらいか?そういう分析は学者によるものでおうおうにして、その定義以上のことをしているのが作家たちの言語表現だと思う。直喩だけでもそこに新鮮な驚きがあるのだ。安易な直喩とか批評は控えるべきだという文章読本もあるが。そこにコミュニケーション以前の詩的言語としての表現が隠されている。
確かに怪物以上に怪物であるフランケンシュタイン博士の告白文学であるのだが(悪魔に取り憑かれキリスト教精神を忘れていた)最後まで彼が復讐心に取り憑かれ、また彼の分身とも言えるエリザベスとの対比によるとエリザベスはヴィクターを信じている。そこが単なる復讐譚だけではなく愛の物語としてのドラマがあるのではないか?ヴィクターは夫となる詩人のシェリーであり、そこに彼女の本心がまだあったのではないのか?そうでなければその後に結婚するなんて考えられないわけですから。
直前にクッツェー『サマータイム、青年時代、少年時代』を読んでいたこともあり、くぼたのぞみの手紙には大いに感心するところがあった。ウクライナの老女がロシア兵に渡したという「ひまわりの種」の詩とか、斎藤真理子も詩から翻訳を始めたようだ。詩は辞書通りの言葉ではなく、作家の背景やら文化がその言葉の奥には潜んでいるのだ。直訳の正しさよりもその国の文化に精通しているかがものを言うのだろう。二人はそういう文化社会にも精通しているものがあると感じられる。
『アメリカの没落』になるとバロウズのカットバックの手法なども取り入れて移動する電車や車の車窓から見える広告やヴェトナム戦争のニュースなど織り込んでいく。その渦に巻き込まれていくアメリカという存在は、『白鯨』を描いたメルヴィルにも通じていく。そこがギンズバーグが内輪だけの詩人ではなく、それまでのアメリカの伝統にも通じているという。
「サマータイム」の部分がクッツェーという自己を祀った後に登場させる5人の人物たちによって、それまで見えてこなかったクッツェーという人物の批評になっている。そこに様々な視点があり、それは同時に彼らの物語でもあるという疎外されていく一人のアフリカーナがいるのである。「サマータイム」が黒人の子守唄であり、その父である存在はアフリカーナ的であり、その子供たちは別の時空に生きなければ生きていけないのであった。それがフィクション(虚構)という物語のズレた時間なのかもしれない。
それは、『ハンチバック』で芥川賞を取った市川沙央と重なるかもしれない。介護者とのセックス小説と読めないことはないのだ。ただモラル(道徳)の問題なのか?戦時に谷崎潤一郎が発禁になったのもモラル(道徳)の問題だ。ただ近代文学は個人の特異性を描くことで国家権力と対峙していたのである。そう読むとこれらの作品もそういうものだと思えるのだ。ラストは愛の物語とし展開していく。それも一方的なポルノだと伊藤比呂美はいい切ったが。
杉本苑子の学徒動員を振り返っての開会式とお祭り騒ぎの様子などの記事も読み応えがある(この作家は知らなかった)。またドイツ人の観客が「ヒタチノミヤ」とか「テンノウヘイカ」などを観てプリンス、プリンスとはしゃいでいる。「東洋の魔女」はどの作家も感動レポートを書いているのだが、石原慎太郎も感動する記事を書いていた(ただし「鬼の大松」レポートが先に来る、また汗に濡れたコートをタオルで拭く姿に大和撫子を感じたりするのだった)。アベベの孤高さとかリスペクトする感想とか都知事になっての石原とは違う人みたいだった。
当時の日記というかツイッター(いまではXだが)の記録があるのでみたら、アグネス・チョウの呼び方を周庭(シュウテイ)は日本語の音読みで中国名は違う発音なんじゃないのかとどうでもいいことを書いていて、アグネス・チョウもカナダに亡命して、日蝕の動画とかアップしていた。暑さだけは変わりないのか、ますます暑くなっているのか?百日紅を都市部でよく見るのは夏の花は少ないのでオリンピックに合わせて植えたのだとどうでもいい情報に惹かれた。
https://note.com/fe1955/n/n0d04f004682c https://note.com/fe1955/n/n8df1c95b5881 https://note.com/fe1955/n/n1f655d4f7305 note覚書 本・雑誌記事・映画・ユーチューブで聴ける音楽のメモ(覚書・備忘録) 感想やレヴューではありません
樺太がパルプの収穫地で自然の大木を切り倒して、工場の機械で切り刻む様子とか、産業資本主義の最前線の中で現地人が人間性を失っていく様子も描いている。その騒音の中は地獄の光景だと。
「燃焼よ 思考を言葉にするときにただ一本の鶏頭は見ゆ」例えばこの歌は正岡子規の鶏頭の俳句を本歌取りにするような思考性を感じる。つまり普遍ではなく分かる人にはわかる的な、短歌や俳句を興味を持つもののゾーンに投げかけたのかと思う。短歌研究新人賞はそもそも言葉がよくわからない。内輪と専門性という中でどう普遍性に向けていくのか?もうこの世代になるとそういうのは諦念なのか?とも思う。短歌が「恋愛の相聞」から始まったというが最近は恋愛の歌がないという。読者に委ねられる「相聞歌」とは?独泳ではないのか?定型と叙情か?
もう一人パウンドは自由なる精神ということでウィリアムズとも仲が良かったのだが、パウンドはアメリカの野蛮性を嫌ってヨーロッパに亡命する。むしろヨーロッパの精神を求めてアメリカと対立し、ムッソリーニのイタリアを支持する。イタリアの敗戦によって戦争犯罪人になる。そして、狂っている詩人ということで精神病院に入れられる。ウィリアムズはアメリカの地霊を信じていたので、それで対立して離れていくが、ギンズバーグは自身も精神病院に入れられたのでパウンドに共感していくのだった。それはアメリカ資本主義に対する反抗ということで。
ウィリアムズ『パターソン』の批評は難解なのだが、アメリカ詩の流れのようなものが知れて良かった。ウィリアムズがパウンドとギンズバーグの間にいる詩人ということで、メルヴィル『白鯨(モビィ・ディック)』を描こうとしたのが『パターソン』という「地霊」で、それを蝕んでいったアメリカ人がエイハムを船長とする「愚か者の船」というアメリカの姿でその下に仕えるユダヤ人だったりヨーロッパの亡命者だったり、奴隷の黒人であったり、支配されたインディアンというアメリカの多様性がアメリカ人となっていくのだ。
人形=貢物としての女の身体という領土という男尊女卑社会はコロニアル(植民地化)なのだろう。その存在としての受領という階級の哀れさを大いに語ることになるのだ。ただ下を向いて従うしかない浮舟。しょせん大君の人形の田舎娘がと思う薫、いい女の匂いを嗅ぎつける匂宮、その間に挟まれて右往左往する中君の心持ちが、薫には邪険に当たり匂宮には媚るように感じてしまう。中君の諦念という気持ちと対比させられる浮舟になるのか?
第2章はその光州事件の詩を紹介するアンソロジー(韓国ではこの時代に詩のブームが起きる)。生々しい詩は、光州事件の盛り上がりや熱意のようなものを感じる。金芝河はそれを日本の学生運動のようだと批判したのだった(死に取り憑かれた若さみたいな)。光州事件の捉え方の違いを感じる。著者は在日韓国人で、若い時に金芝河の影響を受けて詩人となり、光州事件への反動に抗議するこの本を書いた。韓国詩の熱意を感じる本。夭折した尹東柱との違いを明らかにする。韓国詩の変遷について知る事ができた。
モダニズム小説が帝国主義の小説であるというのはなんとなく理解出来たが、それだけではないのはヴァージニア・ウルフとかはフェミニズムに繋がっていく。ウェイリー訳『源氏物語』はやはりコロニアル文学であるというのは、天皇制が受領階級の荘園から成り立っているのであり、女性は男尊女卑の中で搾取される身体ということかもしれない。それがアウトウッドの『侍女の物語』として現代性と繋がっていくのだろう。
その大連を描いて後の大連再訪問は、中国と仲が良かった時代というか、まだ中国が日本から学ぼうとする中にあって、ロシアが南下政策のために大連をパリをモデルとし、その途上での日本侵略、そして中国の経済発展という姿をまざまざと見せつけられる。詩人の円の例え、ヨーロッパ人は大きな円(フランスか?)をその内側から意識的に円を広げていくが東洋人は無意識的に広げるという。それがロシアと日本の都市化の違いとして、大連という人工都市の変化を読む。その人工美がニセという虚構の世界に通じていく世界は村上春樹の文学と繋がっていく。
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確かに怪物以上に怪物であるフランケンシュタイン博士の告白文学であるのだが(悪魔に取り憑かれキリスト教精神を忘れていた)最後まで彼が復讐心に取り憑かれ、また彼の分身とも言えるエリザベスとの対比によるとエリザベスはヴィクターを信じている。そこが単なる復讐譚だけではなく愛の物語としてのドラマがあるのではないか?ヴィクターは夫となる詩人のシェリーであり、そこに彼女の本心がまだあったのではないのか?そうでなければその後に結婚するなんて考えられないわけですから。
『吸血鬼』を書いたポリドリはバイロン作とされて、生前それが訂正されることがなかった。