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2024年8月の読書メーターまとめ

かふ
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27
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感想・レビュー
26
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2024年8月に読んだ本
27

2024年8月にナイスが最も多かった感想・レビュー

かふ
「カルチャーラジオ 文学の世界 ゴシックの扉」でメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」をやっていて、メアリー・シェリーの興味と共に再読したくなった。以前、新潮文庫で読んでいた。まず語りの回りくどさに驚いた。そして、最初探検家ウォルトンが姉に宛てた手紙が書かれているのがサンクトペテルブルクなのだ。メアリー・シェリーがゴーゴリを読んでいたは不明だが関連性はあると思う。それはサンクトペテルブルクがパリに似せて作られた人工都市であり、神秘主義的傾向はフォークロア(民間伝承)のゴシックを思い出させるからである
かふ
2024/08/27 02:24

確かに怪物以上に怪物であるフランケンシュタイン博士の告白文学であるのだが(悪魔に取り憑かれキリスト教精神を忘れていた)最後まで彼が復讐心に取り憑かれ、また彼の分身とも言えるエリザベスとの対比によるとエリザベスはヴィクターを信じている。そこが単なる復讐譚だけではなく愛の物語としてのドラマがあるのではないか?ヴィクターは夫となる詩人のシェリーであり、そこに彼女の本心がまだあったのではないのか?そうでなければその後に結婚するなんて考えられないわけですから。

かふ
2024/08/27 02:35

『吸血鬼』を書いたポリドリはバイロン作とされて、生前それが訂正されることがなかった。

が「ナイス!」と言っています。

2024年8月にナイスが最も多かったつぶやき

かふ

図書館に予約していた川上未映子『黄色い家』を読むことが出来た。一年前に予約した本だったが、それだけの内容はあったと思う。今のところ今年ベスト本かな。あと全体的に詩の本が多かったような。俳句、短歌と始まって今は詩に挑戦している。2024年7月の読書メーター 読んだ本の数:25冊 読んだページ数:7954ページ ナイス数:738ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/56191/summary/monthly/2024/7

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2024年8月の感想・レビュー一覧
26

かふ
ボードレール『悪の華』に描かれたジャンヌ・デュヴァルという娼婦は、奴隷の子孫であったようで、19c のフランスによる植民化というジャンヌ・デュヴァルの出自。そんな彼女をミューズ(女神)としたボードレールを読んでいくポスト・コロニアルの試み。クッツェーの翻訳者だけにクッツェーがボードレールや19cの浪漫派詩人が影響を受けたことへの作品の影響や、アンジェラ・カーター『ブラック・ヴィーナス』によるジャンヌの瞳に映る鏡としてのボードレールを読む試み。最後に『ブラック・ヴィーナス』の翻訳付き。
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かふ
清岡卓行『アカシヤの大連』を読んだときに村上春樹の喪失性と似ていると思った。故郷喪失者。多崎つくるはそれとはちょっと違って駅をつくつる仕事をしている人でターミナル(交差点)で人を眺めるのが好きな人物として、高校時代に5人組グループ交際で完璧な感じだったのに大学を卒業してその関係性が崩壊していく。そのドラマは後に語られることになるのだが、そのことがトラウマとなって彼は自殺を考えるほどになるのだが、同じタイプの灰田くんと知り合う。彼は読書家で哲学的な孤独癖があるのだが、それでも彼にも色があった。
かふ
2024/08/30 01:53

エリが住む「ヘルシンキ」がロシアの皇帝が作った植民都市(人工都市)としての歴史がある。サンクトペテルブルクの次に首都になった場所であった(ロシアの南下政策)。幽霊譚には相応しいようなゴースト・ストーリーになっている。多崎つくるはかなり頭が良さそうなので話を年上の恋人のために作ったということはないのか(信頼できない語り手)。そのぐらい物語が出来すぎな感じがしてしまう。

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かふ
文章読本の部類に入ると思うが特定の作家の一面的な文章論よりも様々な文章が分析的に捉えれていて文体史というものになっている。各作家の文章の魅力をレトリックを通して知るというのが面白いと思う。森鴎外が啓蒙時代の作家だったように上から目線で女性の階級制をレトリックで示す。それに対する漱石は権力に対する諧謔性という感じだろうか?太宰が自我の顕示欲を示せば川端は日本的美の中に私を埋め込める。それは谷崎が示した「陰翳礼讃」なのか?井伏や井上ひさしになるとまた諧謔(アイロニー)だったり、安岡章太郎は時代風だったりとする
かふ
2024/08/29 11:13

ただ鴎外が晩年にはレトリックを多様せず語彙の力によって文章を組み立てていたという(それはそれだけの知識があったということだ)。レトリックは辞書的な言葉に満足出来ないときの表現方法として使うテクニックであるということだ。子供がオノマトペで自身の言いたいことを伝えようとするのに似ているのかもしれない。言葉を知るほどレトリックが不要になるとか、そういう面だけじゃないのも詩によるレトリックもあるからだろうか?ただその分類は専門的になりすぎて、例えば換喩と提喩の違いは詩的言語性にあるということだ。

かふ
2024/08/29 11:20

言葉の定義性は曖昧であるからにしてどこから換喩でどこから提喩というも理解が難しいということだ。ただ専門家はそこに差異を見つける。今では提喩と言われてとほとんどの人がわからないと思う。直喩と隠喩と換喩ぐらいか?そういう分析は学者によるものでおうおうにして、その定義以上のことをしているのが作家たちの言語表現だと思う。直喩だけでもそこに新鮮な驚きがあるのだ。安易な直喩とか批評は控えるべきだという文章読本もあるが。そこにコミュニケーション以前の詩的言語としての表現が隠されている。

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かふ
「カルチャーラジオ 文学の世界 ゴシックの扉」でメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」をやっていて、メアリー・シェリーの興味と共に再読したくなった。以前、新潮文庫で読んでいた。まず語りの回りくどさに驚いた。そして、最初探検家ウォルトンが姉に宛てた手紙が書かれているのがサンクトペテルブルクなのだ。メアリー・シェリーがゴーゴリを読んでいたは不明だが関連性はあると思う。それはサンクトペテルブルクがパリに似せて作られた人工都市であり、神秘主義的傾向はフォークロア(民間伝承)のゴシックを思い出させるからである
かふ
2024/08/27 02:24

確かに怪物以上に怪物であるフランケンシュタイン博士の告白文学であるのだが(悪魔に取り憑かれキリスト教精神を忘れていた)最後まで彼が復讐心に取り憑かれ、また彼の分身とも言えるエリザベスとの対比によるとエリザベスはヴィクターを信じている。そこが単なる復讐譚だけではなく愛の物語としてのドラマがあるのではないか?ヴィクターは夫となる詩人のシェリーであり、そこに彼女の本心がまだあったのではないのか?そうでなければその後に結婚するなんて考えられないわけですから。

かふ
2024/08/27 02:35

『吸血鬼』を書いたポリドリはバイロン作とされて、生前それが訂正されることがなかった。

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かふ
BOOK☆WALKERのポイントで電子書籍を購入。まずこの電子書籍が使いにくい。なかなか目的のページまで辿り着けず最初からページをめくって行く感じ。目次はあるのだが見つけにくい。それだけで読むのにストレスを感じてしまう。スマホでは読めずある程度大きな画面じゃないと楽しめない。NHK短歌の予・復習に使ってみたが得るものが少ない。過去の名歌と写真ぐらいか?この読みにくさをどうにかしてもらいたい。以降は電子書籍では買わないかな。
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かふ
今読むとアメリカのプアホワイトのアル中作家という感じで、トランプ支持者かもしれないと思うのだ。なによりも中国人に対する偏見とか、藤本和子の長いあとがきを読むとビート作家よりもポスト・モダン作家ということだった。ビート作家の毛嫌いも田舎のおっさん風である(「イージーライダー」で猟銃で撃ってしまうような)。日本でのブームは藤本和子の翻訳にあり、一見怖そうだけど本当は優しいオジサンというような。彼のアメリカがメルヴィル『白鯨』の世界で、それを釣り上げようと夢見ながら「鱒」一匹も釣れない世界になってしまった喪失感
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かふ
翻訳という作業は読者が作品を見えやすくするための眼鏡であるというのは、翻訳者によって作品の傾向が変わるのは一人称一つとっても僕と私では受ける印象が違う。そういうことでは辞書的な正確さよりは文脈をどう日本の読者に伝えていくか、その例で藤本和子は「翻訳はコンテンツ(文脈)が大事」という。直訳の正しさではなく、日本語でどう伝えていくかなのだ(二人の翻訳小説の日本語の読みやすさは、聞き書きに通じることがあるのかもしれない。また藤本和子のリスペクト会「塩を食う女たち」(通称「塩の会」も立ち上げメンバーだという)。
かふ
2024/08/22 14:04

直前にクッツェー『サマータイム、青年時代、少年時代』を読んでいたこともあり、くぼたのぞみの手紙には大いに感心するところがあった。ウクライナの老女がロシア兵に渡したという「ひまわりの種」の詩とか、斎藤真理子も詩から翻訳を始めたようだ。詩は辞書通りの言葉ではなく、作家の背景やら文化がその言葉の奥には潜んでいるのだ。直訳の正しさよりもその国の文化に精通しているかがものを言うのだろう。二人はそういう文化社会にも精通しているものがあると感じられる。

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かふ
ケストナー『人生処方詩集』の形式を借りたアンソロジー。それぞれ題(テーマ)のもとに日本の近代詩から現代詩までを網羅する。例えば「理想を見失ってしまったら」では北村透谷「楚囚之詩」、宮沢賢治「雨ニモマケズ」与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」から中野重治「歌」、吉本隆明、谷川俊太郎、谷川雁、などと共に流行歌『人生劇場』まで掲載している。そのへんは寺山修司の大衆化路線なのか。フランス象徴詩やシャンソンもあるが、アメリカの現代詩は少なかった。国内中心で当時の詩の在り方が伺える(今より詩は読まれていた)。
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かふ
著者はギンズバーグが次世代のボブ・ディランらに影響を与えたビート詩人としてのギンズバーグに注目する。それは同世代の仲間に語る(ケルアックやニール・キャサディ)等身大の語り口(上から目線ではない)、そこに一行の息で一気に語る手法を生み出していく。ただギンズバーグは同時にホイットマンの壮大な詩からも影響を受けていた。『吠える」で圧倒的な若者の支持をうけたのはそういうことだった。さらに『カディッシ』では精神病を患った母のドラマをエレジーで語るなど伝道師の一面もあった。そこに私小説的なものを社会性へ繋げる。
かふ
2024/08/21 11:43

『アメリカの没落』になるとバロウズのカットバックの手法なども取り入れて移動する電車や車の車窓から見える広告やヴェトナム戦争のニュースなど織り込んでいく。その渦に巻き込まれていくアメリカという存在は、『白鯨』を描いたメルヴィルにも通じていく。そこがギンズバーグが内輪だけの詩人ではなく、それまでのアメリカの伝統にも通じているという。

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かふ
この本の前にサイード『文化と帝国主義』を読んだので、これはポスト・コロニアル文学だと思った。大江健三郎がサイードの「晩年の仕事」をヒントにそれまでの自書の読み直しをしているが、まさにそのような本で、「幼年時代」「青年時代」はクッツェーの内面形成の話。それはアフリカーナというアパルトヘイトの中にいながらイギリスのモダニズムへの憧れ(詩人になりたい)それはもう一つの帝国主義でありながら自己否定していく生き方を求める。しかし、それに(イギリスに)裏切られて自己を喜劇化するしかない「サマータイム」という小説。
かふ
2024/08/20 04:13

「サマータイム」の部分がクッツェーという自己を祀った後に登場させる5人の人物たちによって、それまで見えてこなかったクッツェーという人物の批評になっている。そこに様々な視点があり、それは同時に彼らの物語でもあるという疎外されていく一人のアフリカーナがいるのである。「サマータイム」が黒人の子守唄であり、その父である存在はアフリカーナ的であり、その子供たちは別の時空に生きなければ生きていけないのであった。それがフィクション(虚構)という物語のズレた時間なのかもしれない。

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かふ
この原作を読む前に山嵜晋平監督の映画を観た。映画も現代の出会い系の風俗店で働く孤独な女性を描いていて面白い映画だった。https://filmarks.com/movies/114732 永井荷風の原作は昭和一桁のモガ・モボのモダン小説。ただ永井荷風は西欧化する女性の中にも根本的な優しさを見出すのだ。それは刹那的だがロマンチシズム小説となっていく。むしろ欲望社会の中に吹き溜まりのような失われない下町の人情の繋がりを描く。その後に『濹東綺譚』が描かれる世界が残っているような君江のラストなのだろうか?
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かふ
人形だった浮舟がコトバ通りに形代として宇治川に身を投げ自害する。横川の僧都に助けられて生まれ変わった浮舟はもう人形ではなく、はっきり自分の意志を示す女性になっていた。それが出家という家族の関係性も断ち切らなけれならないほどの強固な男尊女卑のシステムがあったのだ。薫が弟君を使いとして浮舟の元にやるのは、「空蝉」の喜劇であり、すでに家族の縁を切っている浮舟は薫の思惑通りにはならない存在なのだ。横川の僧都が妹尼の意見を聞かずに浮舟を出家させたのも仏に仕えるという意志のもとだ。仏教が天皇制の避難所になっているのか
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かふ
電子書籍で読んだ。「高橋源一郎と読む「戦争の向こう側2024」で紹介されて、戦時は発禁処分へ。出版された当時はエロ・グロ・ナンセンスの昭和初期で夢野久作などの作品と共に大衆文学として出版されたのだろう(『新青年』とか)。江戸川乱歩は谷崎に傾倒しており、谷崎の耽美小説的なSMの世界だと思う。それは芥川との論争「文芸的な、余りに文芸的な」で芸術か大衆文学かを問題にしている。谷崎が求める新聞記事からの物語は、まさに乱歩や久作の青年文学であったのだ。いま読むとラノベの部類だろうか?
かふ
2024/08/17 03:22

それは、『ハンチバック』で芥川賞を取った市川沙央と重なるかもしれない。介護者とのセックス小説と読めないことはないのだ。ただモラル(道徳)の問題なのか?戦時に谷崎潤一郎が発禁になったのもモラル(道徳)の問題だ。ただ近代文学は個人の特異性を描くことで国家権力と対峙していたのである。そう読むとこれらの作品もそういうものだと思えるのだ。ラストは愛の物語とし展開していく。それも一方的なポルノだと伊藤比呂美はいい切ったが。

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かふ
図書館で何気に手に取って読み始めたら止まらなくなった。凄まじい。人間の形ではなく地獄絵図。腹は膨張し髪の毛は抜け皮が「ずりむける」。「ずりむける」なんて言葉は余り使うことがなかったが靴ズレとかで水ぶくれになる。それだけでも痛いのに全身だ。背中から剥がれているという。そういう言葉は『はだしのゲン』を読んだとき以来だろうか?たぶん、そういう言葉のせいで読まれることがないのだ。それが原爆の現実なのだ。戦争の恐怖がここにある。人間ではいられない水木しげるの妖怪の姿だった。
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かふ
自分なりの「百人一首」を作ろうと始めたのだが、なかなか百首も好きな歌が集まらず(最初は和歌だけで始めたが無理だと思い短歌も入れた)。この本は近現代短歌の百首であの有名な歌かという感じの近代短歌や面白いと思う現代短歌があった。一番最初が明治天皇の歌で驚いた。明治天皇は、生涯9万3千首詠んだとか。一番が大本教の教祖である出口王仁三郎で12万首。そういう世界なんだと思った。短歌界の4人の権威による「百人一首」ということなんだが、誰もが自分の「百人一首」を持つべきだ。
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かふ
戦後最初の東京オリンピックの作家たちの観覧レポート。2020年の東京オリンピックとは随分様相が違うのは敗戦後のスポーツの祭典であり、否定的な人は少ない。作家たちもペンによるオリンピックという競争意識があったようである。一番張り切っているのは三島由紀夫で高橋源一郎のあとがきでも彼が一番芸術点が高いだろうということだった。大江健三郎も小田実も積極的に記事を書いている中で石原慎太郎がオリンピックに否定的なのが面白い。すでにオリンピックが素人の祭典ではなく原爆保有国の国威を示す祭典という意見で興味深い。
かふ
2024/08/15 19:22

杉本苑子の学徒動員を振り返っての開会式とお祭り騒ぎの様子などの記事も読み応えがある(この作家は知らなかった)。またドイツ人の観客が「ヒタチノミヤ」とか「テンノウヘイカ」などを観てプリンス、プリンスとはしゃいでいる。「東洋の魔女」はどの作家も感動レポートを書いているのだが、石原慎太郎も感動する記事を書いていた(ただし「鬼の大松」レポートが先に来る、また汗に濡れたコートをタオルで拭く姿に大和撫子を感じたりするのだった)。アベベの孤高さとかリスペクトする感想とか都知事になっての石原とは違う人みたいだった。

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かふ
サイードのわかりにくさはそれまでの帝国主義がアメリカ型の多国籍正義として存在する在り方でナショナリズムに陥らない道を模索するからだろうか?それはサイードのパレスチナとして生き方がアラブにあるのではなくアメリカ帝国主義の中で共存していかなければ成り立たないポスト・コロニアルだからなのか?植民地主義でもアラブでは不可能なパレスチナという生き方。それはかつて離散したユダヤ人のようにその土地で生存することだ。専門書の羅列で読むのに苦労する。後半は植民地主義からの抵抗を模索する文学を読んでみたいと思った。
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かふ
「空気の日記」というタイトルが面白いと思ったのは、ここに書いている詩人はほとんど空気を読まない人の集積だろうと思ってしまったのは、カニエ・ハナのあとがきで最初は詩の形で要請があったのだが空気を読まず日記にしてしまったという。そういう人は何人もいて、結局詩と日記の差異なんてほとんどなく、ただ情報として読んでいた。だから今の季節(八月)前後で、そうか東京オリンピックが開催予定だったのかと2020年の記憶はあまりなく、マスク警察とか今より危機感があったコロナ禍も過ぎてただ何事も過ぎていくのかと時代の空気を感じた
かふ
2024/08/14 05:08

当時の日記というかツイッター(いまではXだが)の記録があるのでみたら、アグネス・チョウの呼び方を周庭(シュウテイ)は日本語の音読みで中国名は違う発音なんじゃないのかとどうでもいいことを書いていて、アグネス・チョウもカナダに亡命して、日蝕の動画とかアップしていた。暑さだけは変わりないのか、ますます暑くなっているのか?百日紅を都市部でよく見るのは夏の花は少ないのでオリンピックに合わせて植えたのだとどうでもいい情報に惹かれた。

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かふ
日本の詩歌は和歌の伝統に囚われていくのではなく、菅原道真の漢詩から始まり男の形式性よりも女たちの感情表現から、民謡的な今様に至るまで中心を求めるよりは外部の影響をうけて変化していくもので、それが大岡信がコレージュ・ド・フランスでやる講義の意義なのだ。それは日本の詩が日本人にしか理解できないというものではなく、詩の根源に係る他者とのコミニュケーションということなのかも知れない。和歌も相聞という恋歌から始まった。まず詩や和歌を好きになることなのかな。そこから始まるのである。
Fe
2024/08/12 01:55

https://note.com/fe1955/n/n0d04f004682c   https://note.com/fe1955/n/n8df1c95b5881   https://note.com/fe1955/n/n1f655d4f7305  note覚書 本・雑誌記事・映画・ユーチューブで聴ける音楽のメモ(覚書・備忘録)  感想やレヴューではありません

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かふ
白秋の北方領土紀行。白秋の詩的な(散文よりも韻文)文体がぶっ飛んでいた。不倫して姦通罪になり、詩も発禁処分になったりして、小笠原の暗い(引きこもり)時代があり、樺太の視察団という旅行で、このあたりで翼賛的な詩人になっていく。今読むと差別用語も多いのだが、ぶっ飛んだ歓喜の文章で面白い。この頃から民謡とかも興味を持っていたのか、そうした庶民の生活とかの描写もある。また最初の歌集『桐の花』を出す時期でその短歌も掲載されていた。やっぱ上手いなと当たり前に感じてしまう。
かふ
2024/08/11 05:22

樺太がパルプの収穫地で自然の大木を切り倒して、工場の機械で切り刻む様子とか、産業資本主義の最前線の中で現地人が人間性を失っていく様子も描いている。その騒音の中は地獄の光景だと。

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かふ
作品季評で穂村弘が秀歌性ということを言っていて川野里子「蒼いマリア」はそうした歌なのかと思う。福島の帰宅困難地域を詠んだ歌で、そこでも自然が育まれ燕が飛ぶ様子を「キリエ」と描く。そこにマリアの願いがあり、川野里子の母性なのかと思う。「いい水ですよ、というこゑ根は吸ひ茎奔り浜昼顔となりて咲きたり」。秀歌のゾーンなのか?小佐野彈「君が詩になるとき」は「ギャンスタ」という言葉からある一定の層(ゾーン)に投げかけた内輪の歌のように感じる。服部真里子「夜の戴冠」。上手いと思うのだが川野里子のように普遍性はない。
かふ
2024/08/11 18:31

「燃焼よ 思考を言葉にするときにただ一本の鶏頭は見ゆ」例えばこの歌は正岡子規の鶏頭の俳句を本歌取りにするような思考性を感じる。つまり普遍ではなく分かる人にはわかる的な、短歌や俳句を興味を持つもののゾーンに投げかけたのかと思う。短歌研究新人賞はそもそも言葉がよくわからない。内輪と専門性という中でどう普遍性に向けていくのか?もうこの世代になるとそういうのは諦念なのか?とも思う。短歌が「恋愛の相聞」から始まったというが最近は恋愛の歌がないという。読者に委ねられる「相聞歌」とは?独泳ではないのか?定型と叙情か?

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かふ
映画『パターソン』の詩人であるウィリアムズの長編詩『パターソン』を作家論と作品論で批評していく解説書?みたいな。「パターソン」が映画ではバスの運転手の名前、詩ではアメリカの土地の名前で、それを書いている詩人は町医者ということで精神分析的にアメリカの深層を探っていく叙事詩的なものになっている。映画では日常の抒情詩だったのだが、ずいぶん違った。その「深層」とは何かというとメルヴィル「白鯨(モビィ・ディック)」が描いたような「地霊」ということだった。
かふ
2024/08/10 03:38

もう一人パウンドは自由なる精神ということでウィリアムズとも仲が良かったのだが、パウンドはアメリカの野蛮性を嫌ってヨーロッパに亡命する。むしろヨーロッパの精神を求めてアメリカと対立し、ムッソリーニのイタリアを支持する。イタリアの敗戦によって戦争犯罪人になる。そして、狂っている詩人ということで精神病院に入れられる。ウィリアムズはアメリカの地霊を信じていたので、それで対立して離れていくが、ギンズバーグは自身も精神病院に入れられたのでパウンドに共感していくのだった。それはアメリカ資本主義に対する反抗ということで。

かふ
2024/08/10 03:47

ウィリアムズ『パターソン』の批評は難解なのだが、アメリカ詩の流れのようなものが知れて良かった。ウィリアムズがパウンドとギンズバーグの間にいる詩人ということで、メルヴィル『白鯨(モビィ・ディック)』を描こうとしたのが『パターソン』という「地霊」で、それを蝕んでいったアメリカ人がエイハムを船長とする「愚か者の船」というアメリカの姿でその下に仕えるユダヤ人だったりヨーロッパの亡命者だったり、奴隷の黒人であったり、支配されたインディアンというアメリカの多様性がアメリカ人となっていくのだ。

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かふ
受領の娘である浮舟は中君によって人形として薫に差し出されるのあるが。中君を大君の人形にしたい薫と中君のこのしつこい男ったらという会話は喜劇的で面白い。東屋は東北の受領の妻になった北の方の愚痴話なのだが、受領と殿上人の身分の違いをまざまざと見せつけられる。薫の前に匂宮が嗅ぎつけるとは展開が面白くなってきてはいるのだが、薫のメンタル部分のダメさをまざまざと知る。東屋は離れなのだが、その建物が東北の田舎風だと薫が感想を漏らし、貢物としての館なのだと知る。受領制が天皇制の基礎にあることを知るポストコロニアル文学。
かふ
2024/08/08 16:32

人形=貢物としての女の身体という領土という男尊女卑社会はコロニアル(植民地化)なのだろう。その存在としての受領という階級の哀れさを大いに語ることになるのだ。ただ下を向いて従うしかない浮舟。しょせん大君の人形の田舎娘がと思う薫、いい女の匂いを嗅ぎつける匂宮、その間に挟まれて右往左往する中君の心持ちが、薫には邪険に当たり匂宮には媚るように感じてしまう。中君の諦念という気持ちと対比させられる浮舟になるのか?

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かふ
韓国の朴正煕政権下の反体制詩人。獄中詩人として国際的に釈放の運動がサルトルらによって起きる(大江健三郎も参加)。反体制の詩人だと思われていたが晩年は変節し、学生の民主化運動に意義を出す。過去の政治運動やどうしようもない女ずきやアル中を告白し、金芝河であることを後悔する(詩人芝河は地下の意味)。それは韓国で問題となったが日本にはあまり伝わって来なかった。彼も人間なのだと肯定的に受け止められたようだ。しかし趙南哲は手厳しく批判する。それは光州事件の学生たちに対することだったからだ。
かふ
2024/08/05 00:47

第2章はその光州事件の詩を紹介するアンソロジー(韓国ではこの時代に詩のブームが起きる)。生々しい詩は、光州事件の盛り上がりや熱意のようなものを感じる。金芝河はそれを日本の学生運動のようだと批判したのだった(死に取り憑かれた若さみたいな)。光州事件の捉え方の違いを感じる。著者は在日韓国人で、若い時に金芝河の影響を受けて詩人となり、光州事件への反動に抗議するこの本を書いた。韓国詩の熱意を感じる本。夭折した尹東柱との違いを明らかにする。韓国詩の変遷について知る事ができた。

が「ナイス!」と言っています。
かふ
ウェイリー訳『源氏物語』はオリエンタリズムではないのか?とふと疑問に思い、この本を手にした。一番わかり易いのはコンラッドの『闇の奥』でこの小説が斬新なのは支配する側の不安も描かれているからということだった。オースティン『マンスフィールド・パーク』はイギリスがインドを植民地化することによって「マンスフィールド・パーク」の豊かさがあるということ、植民地側の小説・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』を読むことを勧めている。またカミュ『異邦人』もコロニアル小説なのは理解できるが帝国側というのが良くわからない。
かふ
2024/08/04 00:18

モダニズム小説が帝国主義の小説であるというのはなんとなく理解出来たが、それだけではないのはヴァージニア・ウルフとかはフェミニズムに繋がっていく。ウェイリー訳『源氏物語』はやはりコロニアル文学であるというのは、天皇制が受領階級の荘園から成り立っているのであり、女性は男尊女卑の中で搾取される身体ということかもしれない。それがアウトウッドの『侍女の物語』として現代性と繋がっていくのだろう。

かふ
2024/08/04 00:21

アウトウッド→アトウッドでした。

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かふ
「朝の悲しみ」。妻の死から始まる私小説。植民都市である中国の大連出身である主人公の身の振り方。故郷を喪失してしまう根無し草という。それが妻の死と重なって想起されていく。妻と生きていた時代は幻想の大連だった。文学の在り方としては、喪失した世界、それを再現させる、愛だよなというところか。しかし、他の女性への愛欲は止まらない。幻想と現実の間の朝の夢現。その妻との出会いの「アカシヤの大連」は、ニセアカシアが咲き乱れる大連のノスタルジー。ニセという記憶だと思うのは植民地だからだろうか?そのニセが本物よりも美しい。
かふ
2024/08/02 22:19

その大連を描いて後の大連再訪問は、中国と仲が良かった時代というか、まだ中国が日本から学ぼうとする中にあって、ロシアが南下政策のために大連をパリをモデルとし、その途上での日本侵略、そして中国の経済発展という姿をまざまざと見せつけられる。詩人の円の例え、ヨーロッパ人は大きな円(フランスか?)をその内側から意識的に円を広げていくが東洋人は無意識的に広げるという。それがロシアと日本の都市化の違いとして、大連という人工都市の変化を読む。その人工美がニセという虚構の世界に通じていく世界は村上春樹の文学と繋がっていく。

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ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2010/03/16(5763日経過)
記録初日
2010/03/24(5755日経過)
読んだ本
2895冊(1日平均0.50冊)
読んだページ
722069ページ(1日平均125ページ)
感想・レビュー
2767件(投稿率95.6%)
本棚
28棚
性別
現住所
神奈川県
自己紹介

note https://note.com/aoyadokari

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