「青春18きっぷ」を買ってぶらり読書の旅。マルケスの『百年の孤独』を読みながら、「百年前の」戦争の記憶を辿って広島原爆記念館へ。そこにいいようもない悲しみの歴史があった。そして厳島神社の清盛の夢の跡を見学する。露出の多い姿の観光客で溢れかえっている(ある意味厳粛性のある広島と対象的で面白い)。日本のふたつの歴史的場所を見た後に、尾崎放哉の墓へと赴く。そこはすでに尾崎放哉の墓ではないような立派な墓がある一方で無縁仏に花を捧げるなという張り紙があったりして興味深かった。墓を巡る旅だったのか?
伊藤比呂美の編集した富岡多恵子の詩は、観念語が少なく誰にも読めるが詩自体は単純ではなく奥深い。それは詩の形が常識を崩す問いになっているからだ。『返禮(返礼)』の愛についての詩は最後が決まっている。「嘔吐のこないひとりの胃痛の返禮(おかえし)」「嘔吐」はサルトルを意識していると思う。もう一つの特集「詩論のクリティカル」で中学生詩人としてデビューした文月悠光に興味を持った。中学生で詩人というレッテルを貼られてしまうことに対してかなり大変だったようだ。
「短歌研究賞」は二つとも趣味的に合わなかった。坂井修一『鷗外守』はどうも鷗外が苦手だった。山田富士郎『UFO』も天文学がいまいち苦手なのかもしれない。そんな中で佐藤モニカ「いにしへの盾」が良かった。家族詠も苦手なのだが子との繋がり「子の漢字ノートに幾度も書かれたり生きる生きる生きるの文字が」で子供のいじめ問題かと思わせて病気の母を思う息子の気持ちだった。「子の好きなアニメ「はたらく細胞」に強敵としてがん細胞あり」「ある朝を紋章のごと鳥はゐていにしへの盾くきやかに見ゆ」ゲームみたいな歌だが実感がこもっている
「昭和俳句史」は川名大の解説なので、他で読んでいたので今回はカット。虚子の「花鳥諷詠」について、自然だけを写生して詠むのかと思ったら人事を詠んでもいいということだった。そのあたりに虚子に対して勘違いがあるのが分かった。ただこれは「ホトトギス」内でも解釈は揉めているという。
終わりの方は藤原氏の摂関政治を大化の改新から。藤原一族の天下は道長(『源氏物語)にも繋がっているのだろう。その栄枯盛衰なのかな。序の中国史は無くても良かったかもしれない気もするが、中国から歴史の恩恵(害悪か?)を受けていることも記しているのかもしれない。小説よりもアニメの方が面白い(『キングダム』を並行して見ていたが)というかアニメ化してくれないか?無理だろうな。
大震災のときに「全電源喪失」というどこにも繋がらない絶望感のあとで、なおも何かを伝えようとする表現とは何か、それはネットでの日常言語とは違うものになるという。その「私」性との距離感が口語より文語を呼び覚ますのかもしれない。
『二十歳の原点』と『無援の抒情』のプロトタイプのような気もする。岸上大作が自死したのが1960年で樺美智子の死のあとだった。そして福島泰樹は安保世代を引きずった全共闘世代の初めの頃で、まだ浪漫を感じられたのかもしれない。『二十歳の原点』と『無援の抒情』となると社会性よりも個人の欲望としての愛と死がある。
英語もアフリカーンスの英語で名前のクッツェー自体が発音がしにくかったりアフリカーンスの読みを確かめたりかなり苦労しているようだ。それも南アフリカが辺境にあり、辺境の文学としてポストコロニアルであるのは、サイードを通して大江健三郎との共通性も感じるが二人が対談した記憶がない。似たもの同士で仲が悪かったんだろうか?と考えてしまう(微妙な違いとか)。
『その国の奥で』では二冊目の長編小説なのだが、コンラッド『闇の奥』を踏まえて文芸警察の検閲制度を明らかにした本だという。これはぜひ読みたいと思った。あと『鉄の時代』を再読したいと思った。『少年時代・青年時代・サマータイム』の解説が勉強になった(最近読んでいたので)。
日本人にはこういう物語を書けないというのは池澤夏樹の指摘だが、大江健三郎や中上健次が描いていた。それらはフォークナーからバトンを受けたものであり、マジック・リアリズムの小説はマルケスだけじゃなく次々と書かれているのだ。それらの小説の方が気に懸かる。一度読んでいるので、今回は完読はしなかった。あと池澤夏樹「『百年の孤独』読み解き支援キット」は便利だ。大体の物語を知りたいのなら寺山修司が原作者に無断で映画化した『さらば箱舟』がいいと思う。
ファノンらのクレオール主義はむしろ白人との混血性を厭わない多様性を求める者としてネグリチュードの根源性を批判していく。なによりもセゼールがファノンの教師であったことがセゼールの暗部を見抜いていたのかもしれない。しかし、次世代のクレオールたちはセゼールがいたからマルティニークの黒人が立ち上がったと評価する。その先はネグリチュードであるよりもクレオール(混血性)を求めるのだが。翻訳者の砂野幸稔「エメ・セゼール論」(解説)は理解の助けになった。
鳩に対する子供たちの視線(それは母とは反対であった)を織り交ぜながら次世代の成長した姿として娘を描く。娘は母のようになりたくはなかったのだ。結婚式を上げそのダンスする姿を見てノスタルジーのように語り手が一番幸せだった時代を思い出すのだった。それは「ダイヤモンド広場」で夫とダンスをした時代で、夢見る少女だった時代、そういう市民戦争前の幸福時代を思い出のように綴りながら、鳩がネズミになって巣食う「夢=無」のスペイン市民戦争の時代を見事に描き出す傑作文学。
あと和歌の始まりは天皇の国見と妻恋(エロスを含む)でそれが呪術的なものだった。恋の歌を近代の天皇は詠まなくなったのは、国がナショナリズムに傾き戦争に突入していったので、恋(エロス)的な歌が排除されていく。もともと和歌の伝統はそっちにあったとか。『源氏物語』もそっち方面で読まれ、江戸時代には戯作ものとして宮廷文化を消化していく。この辺の説は面白い。
かふ様 丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)『日本文学史早わかり』 note覚書 https://note.com/fe1955/n/ncecbb5720ade を、ご笑覧いただけましたら、幸甚と存じます。 読書メーターは長いメモには向かないので https://note.com/fe1955/ に覚書を作成しています。読みながらググったあれこれを、文章の中に「実物」として記録できて、便利です。
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日本人にはこういう物語を書けないというのは池澤夏樹の指摘だが、大江健三郎や中上健次が描いていた。それらはフォークナーからバトンを受けたものであり、マジック・リアリズムの小説はマルケスだけじゃなく次々と書かれているのだ。それらの小説の方が気に懸かる。一度読んでいるので、今回は完読はしなかった。あと池澤夏樹「『百年の孤独』読み解き支援キット」は便利だ。大体の物語を知りたいのなら寺山修司が原作者に無断で映画化した『さらば箱舟』がいいと思う。