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2024年9月の読書メーターまとめ

かふ
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2024年9月に読んだ本
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2024年9月にナイスが最も多かった感想・レビュー

かふ
新潮の文庫化に伴ってバブリーな評価が続いている感じだ。確かにマジック・リアリズムの走りなのだろうが、その前にフォークナーとか読むべき本があると思う。マルケスのマジック・リアリズムを体感したいのなら『エレンディア』の方がいいと思う。マルケスはそれ以上にリアリズムの作家だと思う。だからコロンビアの内戦を描いているのだし。一族が大佐となって次々と銃殺されるシーンが感情が高ぶるのは母であるウルスラの悲しみか?その背後にキリスト教的なものがあるというのは、池澤夏樹の指摘だがそのキリスト教的なものの変質がある。
かふ
2024/09/11 08:29

日本人にはこういう物語を書けないというのは池澤夏樹の指摘だが、大江健三郎や中上健次が描いていた。それらはフォークナーからバトンを受けたものであり、マジック・リアリズムの小説はマルケスだけじゃなく次々と書かれているのだ。それらの小説の方が気に懸かる。一度読んでいるので、今回は完読はしなかった。あと池澤夏樹「『百年の孤独』読み解き支援キット」は便利だ。大体の物語を知りたいのなら寺山修司が原作者に無断で映画化した『さらば箱舟』がいいと思う。

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2024年9月にナイスが最も多かったつぶやき

かふ

「青春18きっぷ」を買ってぶらり読書の旅。マルケスの『百年の孤独』を読みながら、「百年前の」戦争の記憶を辿って広島原爆記念館へ。そこにいいようもない悲しみの歴史があった。そして厳島神社の清盛の夢の跡を見学する。露出の多い姿の観光客で溢れかえっている(ある意味厳粛性のある広島と対象的で面白い)。日本のふたつの歴史的場所を見た後に、尾崎放哉の墓へと赴く。そこはすでに尾崎放哉の墓ではないような立派な墓がある一方で無縁仏に花を捧げるなという張り紙があったりして興味深かった。墓を巡る旅だったのか?

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2024年9月の感想・レビュー一覧
25

かふ
現代詩について本を図書館で物色していたがこれと言った本がないので雑誌を読んでみようと思った。生憎今年の雑誌は借りられていたので去年の『現代詩手帖』から読んでみよと思った。特集で富岡多恵子だったのが良かった。詩人としての富岡多恵子よりも作家としての富岡多恵子に興味があった。最初に読んだのが『表現の風景』で驚愕したのは身体障害者用のダッチワイフ(今はラブドールという)のレポートしていた記事。それから『釈迢空ノート』『男流文学論』『波うつ土地・芻狗』と読むほどに好きな作家になっていく。
かふ
2024/09/30 10:03

伊藤比呂美の編集した富岡多恵子の詩は、観念語が少なく誰にも読めるが詩自体は単純ではなく奥深い。それは詩の形が常識を崩す問いになっているからだ。『返禮(返礼)』の愛についての詩は最後が決まっている。「嘔吐のこないひとりの胃痛の返禮(おかえし)」「嘔吐」はサルトルを意識していると思う。もう一つの特集「詩論のクリティカル」で中学生詩人としてデビューした文月悠光に興味を持った。中学生で詩人というレッテルを貼られてしまうことに対してかなり大変だったようだ。

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かふ
「詩と思想」の会員による2003年の詩。「あとがき」によると283名の詩人の詩が年齢順に掲載されている。後ろから読んだ方が面白いかも。自分と同年代以下が一割ぐらいしかいない。有名な詩人も森崎和江、宗左近ぐらいでほとんど同人誌かと思うほど。単に羅列されているだけだからどこをどう読んでいいか戸惑う。現代詩が読みたかったんだが迷宮入りだった。批評が欲しい気がする。
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かふ
村木道彦「ショート・ランナーの永遠」は俵万智にも影響を与えた青春短歌。ライト・ヴァースの走りだったようだ。青春短歌だけにショート・ランナーだったのだろうか?その過ちをしっかりものにしている俵万智だった。吉川宏志「1970年代短歌史「アルカディア」の刊行」は学生運動が過ぎて伝統短歌に行き場を見出す若手と旧世代の葛藤。そして女性歌人の時代になるのだが家族詠が多くなる。というか男性歌人は趣味的な歌で女性は生活詠が多くなる感じだ。趣味的な繋がりから漱石『心』を詠んだ三枝浩樹「夏の風立つ」は良かった。
かふ
2024/09/27 02:57

「短歌研究賞」は二つとも趣味的に合わなかった。坂井修一『鷗外守』はどうも鷗外が苦手だった。山田富士郎『UFO』も天文学がいまいち苦手なのかもしれない。そんな中で佐藤モニカ「いにしへの盾」が良かった。家族詠も苦手なのだが子との繋がり「子の漢字ノートに幾度も書かれたり生きる生きる生きるの文字が」で子供のいじめ問題かと思わせて病気の母を思う息子の気持ちだった。「子の好きなアニメ「はたらく細胞」に強敵としてがん細胞あり」「ある朝を紋章のごと鳥はゐていにしへの盾くきやかに見ゆ」ゲームみたいな歌だが実感がこもっている

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かふ
子規、碧梧桐、虚子と続いて「明治大正俳句史」「昭和俳句史」と俳句史に寄り添った形で俳句観賞をする。碧梧桐は本が少ないので興味を持った。解説は加藤郁乎。碧梧桐は旅する俳人で芭蕉の俳諧を継いでいる感じだ。子規や虚子が芭蕉より蕪村を評価したのは写生句としての方法論なのだ。しかし虚子よりも碧梧桐の方が写生句には拘っていたようである。虚子は理論よりも人を引き付ける力があったのだろう。「ホトトギス」なくして虚子はない。芭蕉に否定的だった虚子も晩年には芭蕉理解を示す。それは物の世界の中に心を詠むイメージの句。
かふ
2024/09/26 11:44

「昭和俳句史」は川名大の解説なので、他で読んでいたので今回はカット。虚子の「花鳥諷詠」について、自然だけを写生して詠むのかと思ったら人事を詠んでもいいということだった。そのあたりに虚子に対して勘違いがあるのが分かった。ただこれは「ホトトギス」内でも解釈は揉めているという。

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かふ
高柳重彦の多行俳句を知ったときの驚き。俳句はこんな自由でいいんだと。でも現実にはそれを押し通す感動が必要だった。高柳重彦の句にはその言葉に凝縮された感動の世界がある。「船焼き捨てし/船長は/ /泳ぐかな」はメルヴィル『白鯨』を連想した。またそれが高柳重彦が俳壇のことを詠んでいるようにも感じる。高柳がイメージする蛇や月や死のイメージのエロスとタナトスの神話世界のような俳句は好きになった。また一行表記の俳句も写生句じゃない高柳らしい回想句となっていた。
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かふ
こちらは地方のカフェやスポーツクラブで老人の話を盗み聞きした人のエッセイ。いちいち応答しないのは、応答すると大変なことになるからだろうか?聞き書きのエッセンスが詰まっている本だと思う。例えばユダヤ人なのにヒトラーユーゲントになった人の分裂した話とか、いちいち応答もしにくい話を語る。彼女は他の人の話を語ることでエッセイを書いているがそれがまったくの他人とも思えず彼女はその世界の一部なのだろうか?貧困女性のケアマネージャーの仕事を語るのも、ブレイディみかこのようである。最近の女性に支持されているのもわかる
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かふ
人類学者が主に美術館の要請で書かれたブログ(内容はハイソな感じ)なのか、その時々の作品から感じたコトバ(文字化されない芸術としてのコトバ)に応えたものや、自然界の世界(「環境の知覚」と呼ぶ)への応答としてのエッセイを綴ったもの。哲学的思索で内容は難しいが生命讃歌にあふれているエッセイなのか。パラパラと拾い読み。
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かふ
俳句は短詩だから使える言葉も少なく知識の開示という面がないわけではない。NHK俳句的な共感の総量なのかと。
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かふ
『平家物語』は仏教徒が書いた説話だと思うのだが序で中国の古代史を記述するのは中華思想の視点でありそれは天の視点なのかなと思う。そこに『窯変 源氏物語』とは大きく違った語り手の問題があると思う。中華思想の叛徒は「女禍」や異民族が語られるのであり、その中心は安史の乱であろうか?安禄山という個性極まりない人物の出自や生業は興味深いのだが、どこか物語というより学術的な記述(名前を覚えるのも大変)がしてもう一つ感情移入がしにくかった。そういう感情を持たせないのが、この物語の特徴なのか?
かふ
2024/09/20 18:14

終わりの方は藤原氏の摂関政治を大化の改新から。藤原一族の天下は道長(『源氏物語)にも繋がっているのだろう。その栄枯盛衰なのかな。序の中国史は無くても良かったかもしれない気もするが、中国から歴史の恩恵(害悪か?)を受けていることも記しているのかもしれない。小説よりもアニメの方が面白い(『キングダム』を並行して見ていたが)というかアニメ化してくれないか?無理だろうな。

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かふ
NHK短歌でもわかりやすい川野里子の批評本。短歌が「文脈」と「批評」でなりたっていたという短歌史。例えば写生の文脈を受け継いでそれを発展させた斎藤茂吉と茂吉短歌の「万葉調」に疑問を投げかける釈迢空の短歌史があった。そして戦後になってそれと断絶するような女性歌人や前衛短歌が出てくるのも「文脈」と「批評」ということで整理していく。例えば葛原妙子らの女性歌人が従来の耐え忍ぶ女性歌人のイメージではなく(釈迢空の「女流」というのとは違う)、塚本邦雄の前衛短歌(批評)ともつながっていく同時代性。
かふ
2024/09/19 07:51

大震災のときに「全電源喪失」というどこにも繋がらない絶望感のあとで、なおも何かを伝えようとする表現とは何か、それはネットでの日常言語とは違うものになるという。その「私」性との距離感が口語より文語を呼び覚ますのかもしれない。

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かふ
穂村弘以降の現代短歌。言葉の使い方が斬新(実験的)だと思うが大学の短歌部という感じで内輪向きかなと思う。しかし、そこに新しさを感じるのも事実だ。大人になれない著者がこういう短歌を本流と勘違いしていたとか。短歌らしい短歌は別に多くの本が出ているので、こういうアンソロジーを読みたかった。
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かふ
ボードレールやヴェルレーヌなどのフランス近代詩(象徴派)を文語文で翻訳する荷風。意味的には難しい言葉もなく素直に入ってくる。当時の荷風の東京とパリが地下水で通じている感じか?
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かふ
歌人としての岸上大作とその実像。学生歌人としてデビューした歌集「意志表示」の一首目「意思表示せまり声なきこえを背にただ掌にマッチ擦るのみ」は寺山修司の短歌のパクリかと思えるのだが、同時に「寺山修司論」の「我」が個人のものとしながら全体性に埋没していくのを批評していく。意思表示はまさしく個人の表明なれど下の句は声が「こえ」として寺山修司を模倣していく。岸上大作のロシア文学趣味といい太宰好きといい昔の自分を見るようだった。ただ短歌の才能が無かったから、失恋で自殺を考えたりはしなかったのか?
かふ
2024/09/16 16:02

『二十歳の原点』と『無援の抒情』のプロトタイプのような気もする。岸上大作が自死したのが1960年で樺美智子の死のあとだった。そして福島泰樹は安保世代を引きずった全共闘世代の初めの頃で、まだ浪漫を感じられたのかもしれない。『二十歳の原点』と『無援の抒情』となると社会性よりも個人の欲望としての愛と死がある。

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かふ
J・M・クッツェー翻訳者によるクッツェーのガイド・ブック的な本だがクッツェーとの関係も面白い。それは著者がナカグロ・詩人と言っているように翻訳者になる前に詩を書いていて最初は南アフリカの詩人の翻訳からスタートしてクッツェーを知ったという。クッツェーも小説家以前に詩人であった人でイギリスのモダニズム詩人やヨーロッパの浪漫派が好きだということで言葉に対してのこだわりが著者と通じるのかもしれない。それはクッツェーの出自がアフリカーンスの白人ということでイギリス(英語)に対しての複雑な感情があるのだ。
かふ
2024/09/16 02:32

英語もアフリカーンスの英語で名前のクッツェー自体が発音がしにくかったりアフリカーンスの読みを確かめたりかなり苦労しているようだ。それも南アフリカが辺境にあり、辺境の文学としてポストコロニアルであるのは、サイードを通して大江健三郎との共通性も感じるが二人が対談した記憶がない。似たもの同士で仲が悪かったんだろうか?と考えてしまう(微妙な違いとか)。

かふ
2024/09/16 02:41

『その国の奥で』では二冊目の長編小説なのだが、コンラッド『闇の奥』を踏まえて文芸警察の検閲制度を明らかにした本だという。これはぜひ読みたいと思った。あと『鉄の時代』を再読したいと思った。『少年時代・青年時代・サマータイム』の解説が勉強になった(最近読んでいたので)。

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かふ
前半は乙女チックすぎたけど後半の「好餌」が良かった。「夕焼け」の娘よりもしたたかな婆さんの方が好みだった。詩は後世の娘たちの贈り物というような詩集だから理想的な綺麗な世界で描かれているが老いた身には辛い詩が多いような。
が「ナイス!」と言っています。
かふ
藪内亮輔「薔薇を抱へて」が他の短歌と違って衝撃的だった。詞書が精神分析医のようで短歌は心の歌というような内容。死についての短歌なのも今の時代では異色だった。「人生処方歌集」はケストナーや寺山修司の「人生処方箋詩」のパクリなんだが短歌のアンソロジーとして面白いかも。吉川宏志「一九七〇年代の短歌と〈今の歌〉」は先程読んだ道浦母都子『無援の抒情』が挙げられていないのが気になる。抒情だからだろうか?前衛短歌中心か?岡井隆の失踪のあと保守本流となるのはもっと厳しく批評してもいいと思った。今は大家になっている。
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かふ
俵万智『サラダ記念日』がベストセラーになる前に最も売れた歌集だという。「全共闘世代」の挽歌であるこの歌集は最初に「われらがわれに還りゆくとき」と題されているように、全共闘世代から個人へ「還る」短歌であり、そこに女性の生理や恋が詠まれていることが青春短歌であり、例えば父との葛藤は現代の歌としても通じる。「催涙ガス避けんと密かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり」「ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いにゆく」「調べより疲れ重たく戻る真夜怒りのごとく生理はじまる」センチメンタリズムの個人を感じる抒情性。
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かふ
川島雄三監督『州崎パラダイス 赤信号』の原作で読みたいと思った。州崎パラダイスという遊郭街の側にある居酒屋を舞台に橋の向こう側の世界を見ながらそこの店員となって働く女たちの姿を描く連作短編。川島雄三作品だけではなく溝口健二『赤線地帯』にも関係しているという。『蝶になるまで』の16歳の家出娘が次第に遊郭の女に惹かれていく中で、最後にそのオネエたちからリンチに合うシーンで京マチ子に虐められる若尾文子を連想した。最後の話は遊郭の中年女性の話で哀れさが出ている。今は全く変わり果てていると思うが。
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かふ
新潮の文庫化に伴ってバブリーな評価が続いている感じだ。確かにマジック・リアリズムの走りなのだろうが、その前にフォークナーとか読むべき本があると思う。マルケスのマジック・リアリズムを体感したいのなら『エレンディア』の方がいいと思う。マルケスはそれ以上にリアリズムの作家だと思う。だからコロンビアの内戦を描いているのだし。一族が大佐となって次々と銃殺されるシーンが感情が高ぶるのは母であるウルスラの悲しみか?その背後にキリスト教的なものがあるというのは、池澤夏樹の指摘だがそのキリスト教的なものの変質がある。
かふ
2024/09/11 08:29

日本人にはこういう物語を書けないというのは池澤夏樹の指摘だが、大江健三郎や中上健次が描いていた。それらはフォークナーからバトンを受けたものであり、マジック・リアリズムの小説はマルケスだけじゃなく次々と書かれているのだ。それらの小説の方が気に懸かる。一度読んでいるので、今回は完読はしなかった。あと池澤夏樹「『百年の孤独』読み解き支援キット」は便利だ。大体の物語を知りたいのなら寺山修司が原作者に無断で映画化した『さらば箱舟』がいいと思う。

が「ナイス!」と言っています。
かふ
篠弘は短歌史の本を書いている歌人でけっこう昔の短歌を知るには勉強になる。この新書は俵万智『サラダ記念日』が登場してくるまでの女性歌人たちの葛藤と戦いを描いて面白かった。男性保守歌人らの批評とか。そういう様々な戦いの後で俵万智一人勝ちの『サラダ記念日』の凄さと未だにそれが続いている状況。その俵万智を認めたのが塚本邦雄だったり、中条ふみ子の賛否両論と似た状況だったり、結局俵万智のゲーム性短歌に一掃される概念の短歌だったりするのだった。口語のライトヴァースの手法が席巻する俵万智の短歌についてなるほどとは思う。
が「ナイス!」と言っています。
かふ
散文詩「帰郷ノート」はボードレールらの象徴派の詩の影響を受けながらシュールレアリズムに近づいていく。そのときにブルトンの称賛(序文)を受けて権威的になってしまったのではないのか。ネグリチュードというアフリカの根源性(精神)に反ヨーロッパを見る限り逆に排他的な原理主義に陥ってしまう。もともと政治的な人だけに「植民地主義論」はアジテーションが上手いのだ。そのことによってマルティニークの黒人奴隷の独立を促したのだが、政治を進める余り妥協せねばならなくなり、それがフランス支配の白人政治に寄り添うことになっていく。
かふ
2024/09/09 23:43

ファノンらのクレオール主義はむしろ白人との混血性を厭わない多様性を求める者としてネグリチュードの根源性を批判していく。なによりもセゼールがファノンの教師であったことがセゼールの暗部を見抜いていたのかもしれない。しかし、次世代のクレオールたちはセゼールがいたからマルティニークの黒人が立ち上がったと評価する。その先はネグリチュードであるよりもクレオール(混血性)を求めるのだが。翻訳者の砂野幸稔「エメ・セゼール論」(解説)は理解の助けになった。

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かふ
『百年の孤独』のマルケスが称賛しているスペインの国民文学を「カタルーニャ」語で確立した女性作家。スペイン市民戦争を銃後の立場から見据えた母の視線。それは市民戦争が市民の英雄たちの戦争ではなく、不条理的(カフカ的)なものを抱え込んでいた。それが鳩という象徴であり、マルケスが闘鶏で見出した(解説によると)男たちの浪漫なのである。その鳩の家で悪夢を見ながら、夫と鳩は戦争のために犠牲にしなければならなかった鳩の家として語られていく(そこに市民戦争の英雄視点があるのだが、彼女に取ってはひとりの暴君にしか過ぎない)。
かふ
2024/09/08 00:20

鳩に対する子供たちの視線(それは母とは反対であった)を織り交ぜながら次世代の成長した姿として娘を描く。娘は母のようになりたくはなかったのだ。結婚式を上げそのダンスする姿を見てノスタルジーのように語り手が一番幸せだった時代を思い出すのだった。それは「ダイヤモンド広場」で夫とダンスをした時代で、夢見る少女だった時代、そういう市民戦争前の幸福時代を思い出のように綴りながら、鳩がネズミになって巣食う「夢=無」のスペイン市民戦争の時代を見事に描き出す傑作文学。

が「ナイス!」と言っています。
かふ
その土地の風土から人間を考えるというのは、こじつけかもしれないが、そういう部分はあると思う。日本人はモンスーン型で台風が去っていくのを耐えるだけの民族で、砂漠の民は感情が激しい(キリスト教的な一神教を産んだ土地)。ヨーロッパの牧羊地帯は、他国を支配していく文化を育てていく。自然対人間の構図なのだが、その自然を乗り越えるのに気合という精神力が必要だと解く。最後はアントニア猪木の浪漫主義者というような。ハイデガーの実存の論理を西田幾多郎が直感で説明したような、和辻哲郎はその後継者的な存在なのかなと思う。
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かふ
日本の文学史を古来から親しまれている詩歌中心として見る文学史なので、小説中心の近代文学史ではなかった。そこにこの本の特徴がある。詩歌を勅撰集によって分けてその頂点を『新古今集』に置く。それからは和歌は衰退していくのだが能や俳諧に受け継がれて芭蕉などの七部集が重要になり近代の正岡子規の登場となっていく。やはり興味は小説とかにあるのでその先はどうなんだろうと思ったらら永井荷風を重要視していた。江戸から伝わる戯作文学とフランス仕込の自然主義文学。永井荷風の興味が湧いてきた。
かふ
2024/09/03 21:45

あと和歌の始まりは天皇の国見と妻恋(エロスを含む)でそれが呪術的なものだった。恋の歌を近代の天皇は詠まなくなったのは、国がナショナリズムに傾き戦争に突入していったので、恋(エロス)的な歌が排除されていく。もともと和歌の伝統はそっちにあったとか。『源氏物語』もそっち方面で読まれ、江戸時代には戯作ものとして宮廷文化を消化していく。この辺の説は面白い。

Fe
2024/09/04 03:12

かふ様 丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)『日本文学史早わかり』 note覚書  https://note.com/fe1955/n/ncecbb5720ade を、ご笑覧いただけましたら、幸甚と存じます。 読書メーターは長いメモには向かないので https://note.com/fe1955/ に覚書を作成しています。読みながらググったあれこれを、文章の中に「実物」として記録できて、便利です。

が「ナイス!」と言っています。
かふ
橋本治としては「宇治十帖」はあまり改編するところがなかったようだ。「手習」でただそのまま物語をなぞるのは、浮舟が出家して御経を写経するのと同じようなことなのかもしれない。それは己に巣食うもののけというべき自意識であり、それが社会と相対する。千年前の物語を「手習」するというのはもののけに憑かれたようなものなのである。それを浮舟の中に見出す自意識という母や肉親の愛をも断ち切ってしまうものの姿(もののけ)であり、浮舟の存在は千年前に置き去りにされた現代人のようだった。
かふ
2024/09/02 00:51

それは母なるものの胡散臭い愛というものを感じてしまうもののけ(物語の怪)の姿なのだろう。

が「ナイス!」と言っています。

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2010/03/16(5452日経過)
記録初日
2010/03/24(5444日経過)
読んだ本
2588冊(1日平均0.48冊)
読んだページ
638931ページ(1日平均117ページ)
感想・レビュー
2465件(投稿率95.2%)
本棚
27棚
性別
現住所
神奈川県
自己紹介

note https://note.com/aoyadokari

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