橋本治は随分読んでいる。『窯変源氏物語』と『双調平家物語』があるから。去年は(まだ今年と書いてしまうな)「源氏物語」関係が多かったのだ。あと、俳句や短歌本も。そのあと現代詩を読むようになったのが一番の変化か?一番はハン・ガン『別れを告げない』。これは譲れないだろう。2024年の読書メーター 読んだ本の数:339冊 読んだページ数:97521ページ ナイス数:9852ナイス ★去年に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/56191/summary/yearly
そう言えば『ギリシア語の時間』もやっと図書館で借りれた。早く読みたい。日本文学では、川上未映子『黄色い家』で妥当だな。源氏物語もあるけど、一冊で言えばこんなところか。2024年のベストもだいたいそんなところだろう。
それと豊崎由美が「本屋大賞」ノミネート作家を知らなかったから本屋に行ってないとか。人は自分の関心あるところにしか目が行かないのだ。つまり、その作家は豊崎由美にとってはOUT OF 眼中であり、多分自分もそんな作家は知らなかったし、ジャンルの好みというものがあるのだった。その作家が海外文学を興味深く紹介してくれているわけでもなく、文学的には豊崎由美の方に興味が湧くのだった。それは『本屋大賞』の受賞作と豊崎由美のベスト本を較べてどっちが読みたくなるかということなのだ。
「食ふ草よ草よ草よと誰もがみな花見にと来て草を摘むなり 山田尚子」戦後の食糧難の時代の花見の歌だ。北朝鮮かよ、と思ってしまうが日本にそういう歴史があったのだと短歌は残していた。この歌を詠んだのが当時小学校六年の女子というから、驚く。花見の歌では西行に匹敵するかも。
「完全な夜はない/ 悲しみの果てにはいつも開いた窓が/ 明かりに照らされた窓がある ポール・エリュアール」映画のことのようにも思えるが、ここでは芸術一般を指している。
ディキンスンは父の影響下にありなが、女性だったので独立することも出来ずに結婚もしなかったのは、精神的に影響を与えたと思う。それは詩=神の世界という恩寵であったのだ。それは神の恩寵を信じないことで世間と対立したのだった。世間の建前というものが理解できずにそれを攻撃する。そんなときに外交的な妹との対立が映画にも描かれていて、引き籠もりにも理由があったのだ。ただそこにピューリタン的な純粋さよりも人間の欲望を抱えていたので、今なお評価されているのだという。
そして壺が修道女と共にスペインに行くのだった。そのスペインで高名な先生が宋時代の青磁の骨董を発見したと日本に持って帰るのだが、風邪をこじらせ肺炎になりながらどうしようもないガイド(役立たずの若者)のせいとしながらもその壺の為に死ねないと戻って来る。そして陶芸家はかつて自分の作った壺と再会するのだった。青い壺は本来の目的で使われるのではなく美術品として価値を増大させていくのだが、それと対比させながらの昭和世代の人々の暮らしぶりが感じられる文学になっている。短編集の悲喜劇で面白く読めた。
外部性といことではリービ英雄に近いのかもしれない。同性愛と外人であることという主体性のテーマが重なるのでテーマとしては面白い作家性みたいなものはある。もしかしたら芥川賞あるかもしれない(次作で芥川賞)、とこの作品では思わせるのだが、これで取れなかったんだよな。同性愛小説も在日小説も珍しくなくなったからか?(2024年12月28日)
読書案内的なガイドブックの本だが、出てくる作家が若く、また日本の作家との関連も書かれていて興味深い。上間陽子とコン・ジヨン『椅子取りゲーム』の共通性とか。あと親ガチャが韓国では泥のスプーンと呼ばれていたり(ブルジョア階級は銀のスプーンをプレゼントされるということから)。
現代思想なんてほとんど西欧の翻訳をわかりやすく語り直したものだろうと思ってしまったり、批評はそれ自体で作品をわかりやすく分析したものだ。それはそもそも誰の言葉かというと母なる言葉ということなのかもしれない。「大文字の詩」というその根源性を問うとき言葉の模倣から始まったのが詩人であり偽詩人であるのかもしれない。
表題作の「紅水晶」はセックスを扱った小説だがコミュニケーション不全なのかなと思う。石屋の彼との愛なきセックスを嘆くのだがだらだら一緒にいるのが理解出来ない。自意識が強いのか、相手が見えてない女性で一緒に墓に入ろうという時点で相性最悪と気づけよと思ってしまう。結局他の男とのセックス(情事)があり石屋の彼から合いそうをつかされる。性的描写はリアルなので読者サービスなのかなとも思う。それでセックスが嫌いとかかまととかよと思ってしまう。墓石がベッドから最後棺桶に変わっていくのは見事なストーリーだと思うのだが。
ソクラテスが法の前に死を受け入れるのも運命的なもので、それはキリスト教世界では意志を持って戦うということになっていくのだ。その受苦(パッション)がストア学派によりキリスト教的な意志として賞賛されたのだが、すでに世界は人間の意志ではどうにも出来ない世界になりつつあり、能動態と受動態ではどうにもなず自然を受け入れる思想が求められる。それはもともと自然は中動態であって、あとから能動態(外に求める動作)と受動態に分けられていったという。その中動態が求められるのは、ベケットのあるがままの状態なのかも。
ここでのギリシャ語は古代ギリシャ語でそれはプラトン時代のもので今では古語になっている。そのなかに能動態でも受動態でもなく、中動態という動詞の状態があり、それが失われたのはローマのストア派のカトリックの教義であるようだ。プラトンのイデア論はオカルト(グノーシス)的なものもあるし、ギリシャの哲学が運命論であり悲劇なのだ。そこに光を見出すのは、祈りの形態なのかもしれない。
ガザの詩以外では多和田葉子「わたしだけの本棚」が面白かった。架空の本の背表紙のタイトルを並べただけの詩なのだが、真似したくなる。詩は対話だから、創造力を刺激する詩が好きだった。
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そして壺が修道女と共にスペインに行くのだった。そのスペインで高名な先生が宋時代の青磁の骨董を発見したと日本に持って帰るのだが、風邪をこじらせ肺炎になりながらどうしようもないガイド(役立たずの若者)のせいとしながらもその壺の為に死ねないと戻って来る。そして陶芸家はかつて自分の作った壺と再会するのだった。青い壺は本来の目的で使われるのではなく美術品として価値を増大させていくのだが、それと対比させながらの昭和世代の人々の暮らしぶりが感じられる文学になっている。短編集の悲喜劇で面白く読めた。