→バイロン的な悪魔的悪の擬人化ではない。彼らの個人的経験と彼らの行為のもつ恐ろしさとのあいだのギャップは、途方もなく大きい。」「われわれの内面生活からくる経験、自分のしていることを説明するためにわれわれが自分に向って語る自分自身の物語は、基本的には嘘である。真実は外側に、われわれのなすことのなかにあるのだ。」というジジェク(『暴力 6つの斜めからの省察』)の言葉を思い出してしまって最後まで座りの悪い椅子に座っているような気分で読んでしまい、もうちょっと違う切り口もあったのではないかと思わないでもない……。
ベンヤミン、バラード、リョサ、そしてタコの本が面白かったです。先日北海道に行った親戚が水ダコをくれてそれを食べながらこの本の話を妹にしていたら、彼女に「姉は本当にそういうところあるよね」と言われました。うん、そうなのよ……。今月もよろしくお願いします。2024年9月の読書メーター 読んだ本の数:8冊 読んだページ数:2703ページ ナイス数:1346ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/596110/summary/monthly/2024/9
何年もかかって『カラマーゾフ』、『罪と罰』、『悪霊』と読んできましたが、毎回へとへとになってしまうので一つ読むと次まで間をかなりあけてしまいます。この『白痴』もずっと気になっていて「そろそろ読まなあかんな~」と思いつつ手が出せません。shayoriさんのレビューでまた興味が湧いてきましたが、こちらもやはり…なかなか手強そうですね。
こぞのしおりさん、こんにちは。ドストエフスキーはあのテンションで引っ張りまわされると確かに疲れますし、手ごわいのは手ごわいのですが、なんだかんだいって(理解度はともかく)読んでいて楽しいのでぜひぜひ。本当に初回はドストの社交界が私が思っていた(プルースト的な)社交界じゃないと思って見込み違いを痛感しましたが(笑)、今回は大変楽しく読めました。
⇔ロンドンで暮らし、両親は再度中国(多分上海へ戻っています)。軍事学校とか医学部で学んでも、あの上海の人体(遺体)は深く心に残ったようで、それ以後の小説に痕跡を残したようですが、私は伊藤計劃的な世界も読もうとしたまま、それきりでバラードのその後の作品も読んでいません。「上海租界」はとても刺激が強かったです。お子さんにも恵まれた幸せな結婚だったらしいので一安心した次第です。
mituさん、今晩は。両親と別れ別れになりはしなかったというのはこの本の後書きにも書いてありました。本書には、狭い部屋や川など短編集や先日読んだ『結晶世界』で見たモチーフが様々にちりばめられていたので、上海の体験は本当に深く心に残ったのだろうなととても思いました。でもその後の人生が幸せならよかったです。情報ありがとうございます。
「とどの詰まり、私の場合から単純に判断するならば、私たちにできるのは、他の民族のパターンに抗して私たち自身を読み取ることくらいのことなのだが、そのパターンが私たち自身のものではない以上(たとえ私たちがその御指名にあずかった敵であるにせよ)、私たちはその結果・正誤表・反物語として姿を現わすのである。私たちが自分自身を物語ろうと努める際には必ず、私たちは、彼らの言説の中の場違いな断層として登場するわけだ」「彼らが話しているのは、結局、権力の言語であり、彼らの声明が、とりわけ合衆国において、つまりイスラエルが→
→他のいかなる国に対するよりも依存の度合いを深めている国において大量に流されるにつれて、あなたが認識する(略)のは、権力のある感覚(意味)が孕む並外れた危険性である」/「イスラエル人だけが悪いのではない。私たちは皆、罪を負っているのである。私自身にしてもそうだ。パレスチナ人の運命など忘れてしまおうと30年間も努めつづけていながら、その口実といえば、パレスチナの最も極端な急進派が行なう暴挙の数々は決して正当化され得るものではない、という程度のいい加減なものだったからである」(ジャン・モア=スイス人写真家)
「法の措定は権力の措定であり、そのかぎりで、暴力の直接的宣言の一幕にほかならない。正義が、あらゆる神的な目的設定の原理であり、権力が、あらゆる神話的な法措定の原理である」/ヴァイマル体制はご存じのとおりナチスの台頭で終わるわけなのですが。ちなみに入らなかったので省きましたが、(神話的)暴力の機能として、法の措定だけでなく法の維持も挙げられています。刑罰とかそういうものとして。とりあえず「ベルリンの幼年時代」はちゃんと読もうと思いました。
「渦中さいる本人だちは大変なんだろうげっと、わたしがら見っと素晴らしいとしか思わね。大恋愛な」/お借りした本。ありがとうございます。カバーがかかっていたので知らなかったのですがこんな表紙だったのか……。どうでもいいのですが、架くんは真実ちゃんの立場や過去を見て彼女を選ぶわけですが、真実ちゃんの方は結局自分を反省はしても、結局架くんの新車の外車に乗ってるところとかおしゃな店に連れて行ってくれるところとかで選んだということくらいしか分からなかったので、結局金と顔なのか、という突っ込みは入れたくなりました。
「どんなに他人と親しくなり、その人のことをわかったつもりになっても、結局その他人とは自分の中に生きているその人にすぎない。その人本人ではない。だから想像したそんな死の瞬間、落ちていく最後に想い描いたふたりの顔が、ほんとうに悲しんでいて心配している目が一瞬のうちに浮かんできたなら、私の案かの愛情こそがちゃんと機能していることになる。彼らではないのだ、実際は。この世はそんな幻影でできているのだ。幻影と幻影のあいだに、ほのかに温かい空間があって、人と人はそこでしか出会えないのだ。」
「そして、本気で自分の死を、この風の中で、美しい景色の中で、こんもりした緑にダイブして人生の最後の瞬間を見るときを観想したときに、一瞬だけ見える彼らの顔の心配な表情が本物であれば、それがどんな占いよりも自分を確かに支えるということ。」/お借りした本。吉本ばなな経験値が上がりつつあります。ありがたい……!
人種主義は最初の生物的・科学的な分類を基にしたもの(頭蓋の容量等)を第二次大戦後にユネスコがそれを否定したことから、言語、宗教、習慣によってあるグループを差異化・序列化する文化的人種主義や、アメリカの公民権運動を背景にした、「人種平等とはこれから実現する「人種は平等であるべき」という理念であるのに、人種主義に基づいて歴史的に作られてきた社会的制度や構造を根本的に変革せずに「人種は平等である」という現実と見なす」人種なき人種主義が登場したこと、この人種なき人種主義は日本では戦後に定着した「単一民族神話」が→
→日本には「日本人しかいない」という方向で人種を見えにくくすることになっていて、さらに「日本人」の意味に民族概念が関わっているにもかかわらずそれを脱政治化したりすることなどでそれが不可視化されて民族がかかわる人種主義についても見えにくくなってしまっていることなどが指摘されていて、その部分もとても興味深かったです。あと、差別が起こるプロセスには差別者と被差別者、同調者の三者がかかわる、差別者とそれに同調する者がいることで被差別者が排除されるというのは覚えておきたいと思いました。同調は無意識にやってそう。
お借りした本、ありがとうございます。しかし、祖父母の身になると、突然匿名で誘拐されて行方不明の孫の様子を知らせる手紙をもらっても、どこまで信じていいのか、遠回しの脅迫なのかとか思ってしまうのではないかと思い、個人的には結構アウト気味。あと「被害者も加害者も皆人間です」「人には事情がある」とか言われると、「(スターリンや、ベリヤ、マレンコフの子どもたちの回想録では)それぞれ父親を優しい父親、おもいやりのある指導者として描いた。」「ハンナ・アレントが正しく指摘したように、こうした人物は、崇高で→
→バイロン的な悪魔的悪の擬人化ではない。彼らの個人的経験と彼らの行為のもつ恐ろしさとのあいだのギャップは、途方もなく大きい。」「われわれの内面生活からくる経験、自分のしていることを説明するためにわれわれが自分に向って語る自分自身の物語は、基本的には嘘である。真実は外側に、われわれのなすことのなかにあるのだ。」というジジェク(『暴力 6つの斜めからの省察』)の言葉を思い出してしまって最後まで座りの悪い椅子に座っているような気分で読んでしまい、もうちょっと違う切り口もあったのではないかと思わないでもない……。
読む本を選ぶときに、こちらの感想を参考にすることが多かったので、私の感想もだれかの本選びの一助になればと登録しました。多分外国文学が多いです。
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お借りした本、ありがとうございます。しかし、祖父母の身になると、突然匿名で誘拐されて行方不明の孫の様子を知らせる手紙をもらっても、どこまで信じていいのか、遠回しの脅迫なのかとか思ってしまうのではないかと思い、個人的には結構アウト気味。あと「被害者も加害者も皆人間です」「人には事情がある」とか言われると、「(スターリンや、ベリヤ、マレンコフの子どもたちの回想録では)それぞれ父親を優しい父親、おもいやりのある指導者として描いた。」「ハンナ・アレントが正しく指摘したように、こうした人物は、崇高で→