2024年6月の読書メーター 読んだ本の数:24冊 読んだページ数:6939ページ ナイス数:481ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/623744/summary/monthly/2024/6
アッシジのフランシスコの平和の祈りにあるように、「憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を」もたらせるようにするのが、キリスト教の目指すべき理想であるのに、原理主義や保守主義に近づけば近づくほど、ナザレのイエスの精神から遠ざかっているように感じます。
自分を「神」とするのではなく、自分を超える「絶対無」と出会うこと。「絶対無」とは、「何もない」という意味での「無」ではなく、言語や思考を超えた存在、「常に全てのものの根底にあって、存在と生を支える」存在という意味であり、個人がその「無」と出会うときに「人格神」としての「神」と出会う。そういう意味では偽ディオニュシオス・アレオパギテスの『神秘神学』で表現されている、「光を超えた闇に隠れて」いる三一の神と類似した考え方なのかもしれない。
第六章では、イエスがなぜ十字架にかけられ死んだのかを説明する理論をいくつか述べている。その中でイエスは私たちの罪を背負ったのだとする「身代わり理論」と、イエスの死によって奴隷の状態から「贖い出され」、正しい関係に戻ったとする「贖い理論」を説明している。しかし、その二つの理論は日本人にはわかりにくいとして、「初穂理論」を紹介している。その理論は、「死んだ者の中から、神がイエスをご自分の御手のうちに初穂として迎え」たことによって、「私たち人類全体が神に迎えられた」のだとする。
「あとがき」によると、フィルのモデルはいないものの、様々な独裁者のカリカチュアであり、「自分たちの敵をモノに貶めておいてから大手を振って抹殺しようとする人類の習性の象徴」として描いたのだそう。独裁者フィルは、私たちの心の中にいるという事実が恐ろしいと感じる読書になった。
「せめて、ひと言だけ。せめて、ひとつのお願いだけ。せめて、空気の動きだけ。せめて、あなたがまだ生きていて、待ってくれているという証拠だけ。いや、お願いはいらない。せめて、息づかいだけ。いや、息づかいもいらない。せめて、心の準備だけ。いや、心の準備もいらない。せめて、思うだけ。いや、思いもいらない。せめて、やすらかな眠りを」(P115「せめて」より)。
また付録として、イスラーム教のグランド・イマーム(指導者)アフマド・アル・タイーブとの共同文書も収録。対立や戦争は宗教が認めるものでは決してなく、宗教心を政治利用しようとする思想への糾弾も含んだ内容。
また、「亡命者」とは信仰の世界へ逃避した者ではなく、「あちら」(信仰の領域)に回帰した者だということだが、今私たちが生きている現実を軽視しているのではないか、また現実を軽蔑し、「あちら」の世界に帰るという思想は、グノーシス主義に一歩近づいているのではと感じた。
また訳者によると、アンティゴネーの亡き兄への思いは家族愛を超えている可能性があるとのこと。もしそうだとすれば、この物語はオイディプス王から始まる業の悲劇とも受け取れるのかもしれない。
スコービーの妻、ルイーズは常識的で貞潔な人。模範的なカトリックの信徒。だからこそ、不倫というスコービーの裏切りを許すことができず、裏切りを暴くため、秘跡を利用するという涜聖の罪を犯してしまう。「模範的」だからこそ自分で命を絶つという罪を犯したスコービーに救いはないと断罪する。しかし、本書の中でランク神父が述べているように、神の慈悲の限界について私達は知る事ができず、また、「一人の人間の心のなかで起こっている事については教会も知らぬ」し、私達の誰一人として知る事はできない。ただ神のみがそれを知る事ができる。
スコービーは確かにいくつもの罪を犯した。しかし、「罪人はキリスト教の核心にいる……罪人ほど教える力をもつものはいない、聖者をのぞいては」という、エピグラフとして引用されたペギーの言葉の通り、私たちはスコービーという罪人の生涯を通じて、罪と救いについて学ぶことができるのだ。
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「せめて、ひと言だけ。せめて、ひとつのお願いだけ。せめて、空気の動きだけ。せめて、あなたがまだ生きていて、待ってくれているという証拠だけ。いや、お願いはいらない。せめて、息づかいだけ。いや、息づかいもいらない。せめて、心の準備だけ。いや、心の準備もいらない。せめて、思うだけ。いや、思いもいらない。せめて、やすらかな眠りを」(P115「せめて」より)。