読んだ本がちょうど500冊になりました。 2024年2月の読書メーター 読んだ本の数:25冊 読んだページ数:7489ページ ナイス数:870ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/623744/summary/monthly/2024/2
カール・シュミットはナチズムを肯定した危険思想の法学者として知られているが、ケルゼンはナチズムを批判した法学者として知られている。しかし、ケルゼンの法実証主義は「悪法も法なり」という言葉が示すように、権威主義的で民主主義を否定するような法であっても、民主主義的な方法で成立したのであれば、従わなければならないという弱点を持っている。しかし、多数者が自由と民主主義を手放すような、権威的な全体主義に賛成した場合、少数者や、全体主義に反対する人間の尊厳や意見が無視されてしまい、また弾圧されてしまうのではないのか。
ノリッジのジュリアンは、愛である神が存在していながら、「なぜ悪や罪もない人の苦しみが存在するのでしょうか」という、神を信じる人、またそうでない人問わず、誰もが直面する難問に対して、『神の恵みによって学んだことですが、わたしは信仰をしっかり守り、最後はすべてがよくなることを固く完全に信じなければなりません』と答え、神が愛であること、また、愛である神に信頼するようにと訴えている。
リジューのテレーズは、「神は愛」を自身の生涯と祈りで証明した聖女。彼女は、『今日は、一人も地獄に堕ちる者がないように』と神に祈り、すべての人々の救いを望んでいた。
「人が善く行為することのためには、理性が知的徳という習慣によって善く秩序づけられるだけではなく、欲求的なちからもまた倫理徳という習慣によって善く秩序づけられることが必要とされるのである」(P260)。
「信仰及び希望は、愛徳なしにも、たしかに或る意味では存在しうる。しかし、それらは愛徳なしには完全な徳たるの本質をそなえることはないのである……信仰の行為とは神を信じることであり、他方、信じるとは自らの意志でもって或る人に承認を与えることである……意志の正しい運動はすべて正しい愛から発出するものだからである」(P432〜P433)。
また、一言で古代エジプトの神話といっても、ヘリオポリス、メンフィス、ヘルモポリス等、地域によって様々なバリエーションがある事、ヒエログリフ文字や複雑な宗教観等、興味深い内容でした。
著者は、罪と悪は異なるとも考えていたようです。「罪はひっくり返せば救い」になる面があるが、悪は「下降する快感」であり、悪は救いや再生とは結び付かないと考えており、「罪ではなく、悪こそが、今日の私たちの最も大きな問題だと思われるからです」とも述べています。
「ころび切支丹」では、殉教者になれず、転んでしまった人間を一方的に切り捨てることは、教会はしてはいけなかったのではないかと述べています。また、このエッセイでは、著者の「沈黙」のロドリゴのモデル、ジュゼッペ・キアラが、自分はキリスト教徒であると「信心もどし」の嘆願書を何度も出したが、その度に奉行所に破り捨てられたという話を取り上げています。「信心もどし」を訴えていた元パードレがいた事を、私は初めて知りました。
「許しうるものを許す/それだけならどこに神の力が要るか/人間に許しがたきを許す/そこから先は神のためだと知らぬか」(P114)。「すべての/くるしみのこんげんは/むじょうけんに/むせいげんに/ひとをゆるすという/そのいちねんがきえうせたことだ」(P116)。
「物語に見る東洋と西洋」では、かくれキリシタン版の創世記である『天地始之事』に言及しています。唯一の神という考え方に惹かれていたものの、西方教会が伝えた「原罪」や贖罪論という考え方を理解できなかったから、『天地始之事』から「原罪」の思想が削除されたのではないかと述べられており、興味深いと思いました。本書は、宗教的心理や、日本人の「罪」の捉え方にも言及しているので、「こころ」の問題に興味がある人だけでなく、「日本とキリスト教」という問題に興味がある人にもおすすめです。
「神よ、何故私はここにいなければならぬのですか。満たされぬ情熱の青い実の私……何故私はここにいるのでしょうか、ああ、さまよえる魂たちの神、神々のうちの、さまよえる神よ」(「完璧なる世界」より)。
「ポリス的」を「政治的」とか「社会的」とか訳してしまいがちですが、Soraさんのように引用するのが一番適切だと思いますし、ご見識の高さが表れていると感じました。自分の経験で言うと、法律を味方にするためには、ネットで調べたり、色々な窓口に相談したりと自ら動くこと、学ぶことが大事だと思いますし、若い人の方がその点では素直で真面目、という印象ですね、ITリテラシーが高いせいもあるのでしょうが。
本書に収録されている文書を読む限りでは、いわゆる正統派のグループが危険視し、批判するのも当然と思いました。様々な比喩表現を通して、すべての物質は悪であり、至高神と自己は同一であるとしていますが、その思想は、既に成立していたキリスト教の思想や、ナザレのイエスが生きた意味、贖罪論を無にしてしまうのではと思いました。
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