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手でさえ誰でも良かったのだろう。選択の結果、イライラになるのは主人公の幼稚さのあらわれだ。友人と女が多数登場するが、その人物に個性が無いのは主人公にとって自分以外に興味が無いからだ。二番目の子供が生まれた直後、外出の汽車に子供と乗った主人公は遅れてきた妻が動き出した汽車に乗ろうとした時に「危ないからよせ。もう帰れ!」と言って突き飛ばし、妻は汽車から転げ落ちる。固有性を突き詰めたところに普遍性が生まれるのが文学だが、主人公の態度は自分が人並みに社会の仕組みに乗れないのはなぜだろうかという地点に留まっている。
美代は妊娠することで、杉本家から脱出する。王、王妃(悦子)、王子(三郎)、王女(美代)だが、王が良輔からその父・弥吉に入れ替わっている。この入れ替わりに、三島だから敗戦を想起してしまう。象徴的な父(戦前の天皇)からニセの父(戦後の象徴天皇)に替わった。唾棄すべき社会、そんなことは分かり切っている。ユルユルと抜け出していく人間がいる一方で、自分はどうしてもそこから抜け出すことができない。最後の場面、殺す相手は鍬を持った弥吉でも論理的におかしくない。実際には未来を殺して脱出するのは、三島の最後を暗示している。
へ戻るときに六条御息所の斎宮を養女に迎え、入内させることで焼け太りのように源氏の政治力は高まる。そもそもなぜ源氏は殺されないのだろうか。世界中で近代以前、民主主義が無かった時代に敵は殲滅された。では当時の日本は民主主義だったのかといえば違う。敵を殺せば穢れ、怨霊として自らに跳ね返ってくる保身のために、日本では相手を最後まで追い詰めない。源氏の力を支えていたのは容姿とコミュ力、和歌の力つまり言霊だ。敵が生き残ると物語は複雑になる。古に複雑な物語をつくり得たのは、これら日本的な禁忌の作用だったのではないか。
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手でさえ誰でも良かったのだろう。選択の結果、イライラになるのは主人公の幼稚さのあらわれだ。友人と女が多数登場するが、その人物に個性が無いのは主人公にとって自分以外に興味が無いからだ。二番目の子供が生まれた直後、外出の汽車に子供と乗った主人公は遅れてきた妻が動き出した汽車に乗ろうとした時に「危ないからよせ。もう帰れ!」と言って突き飛ばし、妻は汽車から転げ落ちる。固有性を突き詰めたところに普遍性が生まれるのが文学だが、主人公の態度は自分が人並みに社会の仕組みに乗れないのはなぜだろうかという地点に留まっている。