に謎が隠れていると読者が感じれば、それはミステリーとなる。『ピエタとトランジ』評価が高いのは、探偵小説としての潜在力があるからだと思う。ミステリーに鞍替えしても面白いかも、と思わせる展開と推理の筋の良さに引き込まれる。欲望されるセクシャリティを免れている表象が戦闘美少女を思わせる。後年に長編にしたマンガ?が出版されているようだ。『ホームパーティーはこれから』上記のホラーの定義にぴったりで、オチもない。終盤2作品『ハイパーリアリズム点描画派の挑戦』と『ある遅読患者の手記』は呼応しあっている。
」と〈私〉にかわっていく。最後の場面で〈私〉は怒り狂っている。対して冷静な「私」がウソかというとそんなことはない。タイトルの「かわいそうだね?」は途中からアキヨに対してではなく、主人公自身に向けられている言葉になる。では自分に向けられている「かわいそうだね?」は私の中でどちらからどちらに向けられたのだろうか。恐らく〈私〉から「私」だろう。そうはいっても世の中は本音では生きられないからだ。この諦念、割り切りのニュアンスと「本当の私」などないという洞察が見事だ。女性が言う「がんばれわたし」はこれに近いと思う。
切迫していなかったことがうかがえる。五・一五事件の後に奈良武官長が定年で本庄武官長に替わる。ここで軍と天皇のコミュニケーションに齟齬が生まれる。天皇機関説の問題も本庄武官長がもう少し上手く立ち回っていたら違ったのではないかという視点で描かれる。相沢事件が詳述されている。恐ろしい事件だ。「革新」ムードの中で善悪がつくられ、事件が肯定されて二・二六事件への流れができる。流れを断ち切った天皇の二・二六事件の評価は、本庄武官長との対立の中であぶり出される。本庄武官長は娘婿が事件に関与したとして事件後に辞任する。
との関係を追いかけてみたい。戸田の師が冨田恭彦らしく、関連はある。第3章は非常に時間を掛けて読んだ。カント三批判書だけでかなりの分量を割いている。『純粋理性批判』と『実践理性批判』は御子柴が解説書を出版していて、『判断力批判』は小田部胤久『美学』を当たれということだと思う。第4章はヘーゲルだが、大河内はフィヒテ、シェリングの流れを重視する。フィヒテ、シェリングと比較することでヘーゲルが分かり易くなる。山本、吉川の特別章は重くならないようバランスをとるために設けられている。あくまでも射程の長い入門書だ。
して積極的関与ができない、つまり未来に責任が持てないのは、過去の死者につながっていないからだ。未来の他者に対する想像力は我々の死者から脱落すること、しかしその前提として我々の死者を棄却しつつ回復するサイクルがそもそも失われてしまっていることにあるという。この歴史的、時間的な想像力が社会学とフィールドに落ちているので、本書は十分に読み応えがあり、説得させられるのだが、太宰治『トカトントン』からはじまり村上春樹『ねじまき鳥~』といった共通体験がないと読めないところが、今や文芸批評の困難となってしまっている。
はなく、航平にこそ欲望を抱いてしまっている。家族だが肉親ではない。性的関係を潜在させているアンビバレントな気持ちに気付かない振りをしたい。その空虚さを埋める代替として食欲はある。吉田の欲望は、はじめ隠されているが、交通事故によって主人公に知れることになる。電話だったり報道だったり、間接的な回路によって真実を知るという仕掛けがある。が、手紙によって吉田の真実を知る辺りから話の収拾つかなくなる印象がある。最後の短編には新しい人物は登場していないようにみえる。しかし、航平に再び出会うというオチで終幕している。
者には、著者のスタンスと二重写しになる。純粋主義がかえってその対象を引き寄せるようなドイツ人の純粋さと、同時に「ドイツでは~」と持ち上げるサヨクも揶揄する。これは生き生きした言説の裏にあるエクリチュールを批判する『デリダの遺言』以来のテーマと同じ構造を持っている。著者はスローターダイクの著作を翻訳もしている。前半の3、4人を過ぎてからやや失速気味で、9人目のラカンに至っては、ラカンを論じているのかすら怪しくなってきた読後感を締める構成になっている。何せ、自分自身を論じるのと同じことをしているのだから。
アメリカでは地方分権と自治によって行われていることが論じられている。地方分権は外敵のいない地理的特徴から選択可能な政治形態だ。他方でアメリカにおいて自治は良いものとされ、良くも悪くも自治からアメリカっぽい特徴は導出されている。他方で、日本で自治は一部の利害を代表するものとして民主主義に逆行していると理解されているのではないか。クレームを地方公務員に入れる市民、PTAの廃止など、自治に関して日本でどの様に考えるかは一筋縄ではいかない。当時のアメリカでは陪審制度に限らず、司法が自治行為として運営されている。
番しっくりいかない。問題を起こしたのはダーネイ本人ではないので、個人を裁く近代法の原則からすると、無罪ではないか。現在の我々の感覚からすると不思議で、今まで本作がどのように解釈されているかは知らない。一度死んだ神によって不安な個人が生まれるが、神の復活(倫理の成立)によって、近代を通って本来的な生を取り戻すと考えると、ロマン主義の成立にも通じるところがある。有罪の件は個人と集団の位相の違いとして解釈することは可能だ。終盤は神の復活であり、カートンの行為は現実離れではない崇高な利他性と解釈することができる。
を模索している。例外主義で最も成功した事例は紛れもなく日本だ。また、現在の日本の平和主義を守っているのはアメリカの例外主義だともいえる。軍事力で解決しようとするアメリカの傲慢さを「巻き込まれる」と批判するが、いざ軍事的な危機が起こった時にはこの例外主義に頼ることになるのではないだろうか。表面上アメリカの安全保障戦略が理詰めで練られたものだとしても、彼らの深層心理が宗教的な熱狂のようなものによって駆動されているというのは興味深い。我々はこういうレベルの議論を踏まえてアメリカとの関係を考えてきただろうか。
☆ 横レス失礼します。非常に現実的でクレバーな考察だと感じました。視点が日米関係まで拡がっているところなどとても鋭いです。駄文失礼。
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」と〈私〉にかわっていく。最後の場面で〈私〉は怒り狂っている。対して冷静な「私」がウソかというとそんなことはない。タイトルの「かわいそうだね?」は途中からアキヨに対してではなく、主人公自身に向けられている言葉になる。では自分に向けられている「かわいそうだね?」は私の中でどちらからどちらに向けられたのだろうか。恐らく〈私〉から「私」だろう。そうはいっても世の中は本音では生きられないからだ。この諦念、割り切りのニュアンスと「本当の私」などないという洞察が見事だ。女性が言う「がんばれわたし」はこれに近いと思う。