的な内面が形成されやすいこと(エートス)が原因だという文化説をとる。しかし本書はそのどちらでもない。いくら社会システムやテクノロジーが洗練されたとしても、決められた時間に来ることが出来るひとと出来ないひとがいて、集団的に両者の傾向がはっきり分かれる以上、②文化説は否定できないのではないだろうか。また近代とは、近代的な自意識を持っているという絶対的な地点にいる(それが苦しみを生むのだが)という決定的な問題をどこまでも回避できないため、文化説に回帰してくるというのが予想なのだが…とにかくその意気や良しである。
皆無で、その代わりに食べるシーンがたくさん出てくる。『鯉魚』や『河明り』もそうだが『鮨』や『家霊』はまさに魚を食べる。食べるという行為は欲望のあり様を分かり易く象徴していて、性に比べて忌避されないので、読み易さにも貢献している。自立も描かなかったため政治性が前面に出ていない。『混沌未分』の小初はもうひとりの男にも影響されている。父だ。自立して生きますといえる時代ではなかった中で、強い女としてではなく、かといって翻弄されずに生きていく魚のような生き方だ。時には捕まって食べられてしまうリアルさが描かれている。
える状況は今からすると考えられないが、鳥、菊比古もまた軍隊として朝鮮に送られることから逃げている。それを見ている私という複雑な構成をしていて、焦点がいまいち合わない。合わない不完全さに力が宿る。モラリスティックな解釈の可能な作品に比べて『ブラジル風のポルトガル語』は個人の思想や活動の可能性に見切りをつけ、集団的な深層意識へ可能性を見出すその後の展開を予告している。森の窪地の集落全員が突如消える。単にホラーとして読むことで十分だ。東京で発見した村人は明確な理由について何も言わない。それが良い。
な日米関係の問題を指摘している。資料の整理や事実関係の指摘が多く、飛ばせば意外と早く読める。関係者の証言が皆無なのが気になる。日本側の責任者は政治家ではなく、外務省をはじめとした行政組織であり、問題を国民に訴えて改善することをしない。更に問題は米側のカウンターパートは米軍だということだ。占領によって米大使館設置以前に食い込んだ米軍の権益として継続しているからだ。著者は安保体制と憲法体制の矛盾を指摘しているが、むしろ憲法9条は世界最大の暴力装置である米軍が実現を担保しているという意味で共依存なのではないか。
で、レドリックが収監された間の第3章だけ、ヌーナンが話者になる。後半の会話において設定の全体が明らかになるのは、決してレドリックの妄想などではなく、科学的な背景を明らかにすることで、本作がSFだということが明確になる。しかし、よく分からないものに魅入られて、惹き込まれるというのはまさにホラーであり、フェティシズムの行き着く先を批判した寓意にもみえる。忌み嫌われる存在を主人公にしたのも、科学技術の礼賛でないことは明らかだ。冒頭の引用にこうある。「きみは悪から善をつくるべきだ、それ以外に方法がないのだから。」
はないか。外国語は言語の可能性と、使用の困難さによる不可能性との間にある。書類結婚とは、性愛関係をつくらずに婚姻関係をつくるという関係と無関係との間にある。『三人関係』三角関係は性愛関係だが、性愛関係のようにどこに「熱」(焦点)があるか分からないようにわざと書かれている。物語を立ち上げるのは予測可能なストーリーではなく、聞いた話を語る第三者の機能だけあれば小説は生まれる。谷崎潤一郎『吉野葛』、丸谷才一『樹影譚』と同じ試みにみえる。他方で、作者の意識的な態度が気に入らないという読者は一定数いるのではないか。
ホモ・セクシャルは当時と現在で社会のとらえ方が最も変わった。「いまかれにとって友人という言葉が正当に喚起する実体は死んだ少年と、いまも雑踏のなかを孤独な痴漢として彷徨しているはずの老人だけのように思われた。」『セヴンティーン』自涜の罪悪感から解放されたが、彼は何かに囚われている。日本は戦後に解放されたと思ったが、アメリカに囚われていた。父と兄が家父長的でなく(アメリカ民主主義)、姉(自衛隊)がその代わりを果たす。主人公と社会の鬱屈がシンクロしている。主人公の個人的な問題を、今度は政治的に解決しようとする。
のウクライナと重ねていて、このときに国際司法裁判所が設立されたことと、他民族の混住から民族ごとに住み分けのための隔離が行われたことを指摘している。戦争犯罪人となったプーチンは、果たして政治的な妥協をすることができるだろうか。後者の問題は難しい。多民族共生の平和が本物で、隔離の平和は偽物だといって良いのだろうか。ここはまず、偽物の平和について考えるべきではないか。真の理想は一歩間違うと危ない。人類はあえて「かのように」振舞うことによって社会をつくってきた。ここに平和ボケと通底する哲学的技巧が使われている。
書は12人の思想家を取り上げて、日本の近代化を胚胎していた江戸時代を描いている。熊沢蕃山、荻生徂徠、本居宣長と数人並べれば想像できそうなラインナップだ。同じ問題に取り組んだ丸山眞男の本が著者にあるが、本書の方がはるかに読み易い。江戸時代の学者のどこに注目するかというと、思想そのものではなく生き方である、というのが著者の考えだ。したがって、思想が難しく書いてあるというよりも、その人物の生涯が書かれている。当時は学問をする余裕など誰にもなく命がけだった。それでもなぜ彼らは学問をしたのかということに迫る。
れているので、強権的なパターナリズムになってしまうという整理がなされる。第6章の吉川浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』の読解が見事で、凄いことが書かれているのではないかともう一度、第5章から読み直した。この2つの類型を徹底的にテクノロジーで解決しようと試みているのが面白い。「市民社会」とは大澤真幸のいう第三者の審級であり、メタ合理性とは偶有性のことだと直感的するが、その言い方ではそれこそ西洋が上から押し付けているだけで、構造はレベルが異なるだけで万事が変わらず分かり合えないということに気付く。
から作者の目指したものは無限判断の存在論だったということが推測できるようになる。三輪高志にとって革命とは、他者に働きかけて社会を変えることではない。「存在の革命」と言っている通り、自らの存在が虚体であることを遡行的に見出すことであり、虚体を目指して何かを行うわけではない。登場人物がことごとく何もしない人たちだということにそろそろ気付いてくる。文体も同様に、言葉を連ねるが文章の終わりを先に引き延ばすような、それら文章の先にある結論めいたものも、文章を連ねることによってかえって遠ざけているような印象すらある。
て、むしろわざとパロディを演出しているのかと錯覚する。ドストエフスキーに影響を受けているのは明らかだが、ロシア人の長い名前に影響を受け、呼称がフルネームな表面上のことに留まっているくらいではないか。物語性が薄く、会話だけで成り立っている。三輪与志、首猛夫、黒川建吉たちの間の会話は作者の中の深夜の妄想そのものだ。男の子は同じ妄想を抱くため、イタいことに気付かない。世代の違う津田夫妻、三輪夫人との方が、中身が無いが会話が成立している。ヒステリーと簡単に女性を表象してしまうところに作者の限界をみた第1巻だった。
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的な内面が形成されやすいこと(エートス)が原因だという文化説をとる。しかし本書はそのどちらでもない。いくら社会システムやテクノロジーが洗練されたとしても、決められた時間に来ることが出来るひとと出来ないひとがいて、集団的に両者の傾向がはっきり分かれる以上、②文化説は否定できないのではないだろうか。また近代とは、近代的な自意識を持っているという絶対的な地点にいる(それが苦しみを生むのだが)という決定的な問題をどこまでも回避できないため、文化説に回帰してくるというのが予想なのだが…とにかくその意気や良しである。