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2024年5月の読書メーターまとめ

ころこ
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感想・レビュー
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2024年5月に読んだ本
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2024年5月にナイスが最も多かった感想・レビュー

ころこ
本作の読み易さは主人公の視点だけでつくられている単純さにある。その単純さが退屈させないのは、主人公のアパレル販売員としての人間観察力が優れているからだ。そしてこの描写力が自分に向けられることの屈折が本作の胆となっている。帰国した元恋人のふたりの仲を疑っているのは、ふたりと主人公の間に英語と文化の壁が立ちふさがっているからだと思っていた。ところが、主人公の「私」の中に標準語と関西弁の間の言語の壁が葛藤を生み、取り繕った「私」と地金の〈私〉に解離していたことに気付く。言語がかわることで描写の対象が周囲から「私
ころこ
2024/05/24 21:14

」と〈私〉にかわっていく。最後の場面で〈私〉は怒り狂っている。対して冷静な「私」がウソかというとそんなことはない。タイトルの「かわいそうだね?」は途中からアキヨに対してではなく、主人公自身に向けられている言葉になる。では自分に向けられている「かわいそうだね?」は私の中でどちらからどちらに向けられたのだろうか。恐らく〈私〉から「私」だろう。そうはいっても世の中は本音では生きられないからだ。この諦念、割り切りのニュアンスと「本当の私」などないという洞察が見事だ。女性が言う「がんばれわたし」はこれに近いと思う。

が「ナイス!」と言っています。

2024年5月の感想・レビュー一覧
22

ころこ
著者による宮本の本は一般の読者にも手に取り易く、講談社現代新書のが薄く読み易い。本書はそれよりも一般に開かれている。神話的で大きな物語(柳田)に対して話者が具体的で多様な形式の小さな物語(宮本)と、全編にわたって柳田民俗学との比較がなされている。集合的な私ではなく、主語が大きくなく等身大で、アレゴリカルな教訓もないのが宮本の特徴だという。著者からすると宮本民俗学という看板も相応しくないと言うだろう。石牟礼道子との接点を紹介し、柳田よりも石牟礼による聞き書きの方が宮本の仕事に近いのではないかと提起している。
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ころこ
人間は対象の時空間を俯瞰しているようでいて、じつはその一部しか分からない。健全な精神と呼ばれるものは、認識できるところから全体を推測してナラティヴをつくる。しかし、見えないところを見えないと言ったり、見えるものを見えると言ったり、部分的に強調されたり、その均衡が崩れたりした場合はどうなるのだろうか。ホラーとは、「おばけ」が出るわけではない。むしろ出てはいけないジャンルだ。人間の均衡が崩れたことをホラーだというのをちゃんと作品にしていて、読者はこれらをどう読んだら良いか試されるようなところがある。破綻の背後
ころこ
2024/05/30 20:41

に謎が隠れていると読者が感じれば、それはミステリーとなる。『ピエタとトランジ』評価が高いのは、探偵小説としての潜在力があるからだと思う。ミステリーに鞍替えしても面白いかも、と思わせる展開と推理の筋の良さに引き込まれる。欲望されるセクシャリティを免れている表象が戦闘美少女を思わせる。後年に長編にしたマンガ?が出版されているようだ。『ホームパーティーはこれから』上記のホラーの定義にぴったりで、オチもない。終盤2作品『ハイパーリアリズム点描画派の挑戦』と『ある遅読患者の手記』は呼応しあっている。

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ころこ
サブタイトルの通り、カント入門書として優れている。かといってレーベルの意図も汲んでいる。『実践理性批判』が中心に構成されていることで、人生の問題に接続されて若い読者向けの本となっている。第2章が『純粋理性批判』、第3章が『実践理性批判』、第4章が『判断力批判』、第3章の定言命法に基づく最高善を受けて、第5章で『永遠平和のために』が論じられる。あまりにもきれいすぎる構成と著者のメッセージでまともに受け止め辛いが、『実践』を改めて受け止めてみるには十分に読む価値がある。
が「ナイス!」と言っています。
ころこ
「昭和天皇は死に、高松宮が即位する」という霊感による島津大逆事件は松本清張『神々の乱心』の元ネタになっている。二・二六事件が昭和天皇個人に対する思慕でなく、皇祖皇宗に対する君側の奸コンプレックスだとすれば、島津治子が持つ時代の空気は二・二六事件から一直線につながっている。盧溝橋事件が起こり、日中戦争に突入する。大陸の動静とそれを制御できない内閣の交代が相次ぐ。拡大か和平か、双方の勢力が内輪の論理と各々の地位の維持に腐心していて、この対立を止めるのがテロやクーデターという隘路に陥る。
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ころこ
多くの読者がデモクラシーの範型を見出したいのだろうが、アメリカならではの民主主義が成り立つ条件ばかりだ。アメリカのような自治は、他方で銃規制や陪審制、懲罰的損害賠償のような批判の対象となるような制度と共存している。悪い制度を直そうとは考えず、それらが表裏一体でしか存立しないことが分かっているのではないかとすら思えてくる。日本における地方衰退、少子化を90年代に流行った地方分権の問題のとらえ直しとして考えると、本書を読み替えることもできる。道州制の発案者には、アメリカの州が念頭にあったのではないだろうか。
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ころこ
本作の読み易さは主人公の視点だけでつくられている単純さにある。その単純さが退屈させないのは、主人公のアパレル販売員としての人間観察力が優れているからだ。そしてこの描写力が自分に向けられることの屈折が本作の胆となっている。帰国した元恋人のふたりの仲を疑っているのは、ふたりと主人公の間に英語と文化の壁が立ちふさがっているからだと思っていた。ところが、主人公の「私」の中に標準語と関西弁の間の言語の壁が葛藤を生み、取り繕った「私」と地金の〈私〉に解離していたことに気付く。言語がかわることで描写の対象が周囲から「私
ころこ
2024/05/24 21:14

」と〈私〉にかわっていく。最後の場面で〈私〉は怒り狂っている。対して冷静な「私」がウソかというとそんなことはない。タイトルの「かわいそうだね?」は途中からアキヨに対してではなく、主人公自身に向けられている言葉になる。では自分に向けられている「かわいそうだね?」は私の中でどちらからどちらに向けられたのだろうか。恐らく〈私〉から「私」だろう。そうはいっても世の中は本音では生きられないからだ。この諦念、割り切りのニュアンスと「本当の私」などないという洞察が見事だ。女性が言う「がんばれわたし」はこれに近いと思う。

が「ナイス!」と言っています。
ころこ
5年後に書かれた第2部は章立てが細かく、バランスよくまとまっている。しかしアメリカに対する観察よりも、観念的で英米仏の比較に重心が移っているようにみえる。民主主義とは平等に基づく制度であり、権力の分散が時として政治の不安定を引き起こす。アメリカでは、なぜそのバランスが保たれているかというのを第2部で再論している。民主主義は個人を孤立させる。個人が無力になる代わりに政府を強くするのは間違いだ。個人は結社をつくり、結社が活発に活動することによって政治と権力のバランスがとれるというのが本書の最も重要な主張だ。
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ころこ
直訴、テロ、クーデターが未遂、既遂、失敗を含めてたくさんの事件が起きる。虎の門事件、朴烈事件、桜田門事件、浜口雄幸遭難事件、三月事件、十月事件、陸軍士官学校事件、相沢事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件、本巻だけでこれだけ起こっている。各事件の規模、事態の推移、特に幸徳秋水以後の大逆事件の裁判や関係者がどのような処罰をされたかが興味深い。天皇を直接狙ったテロの警備は薄い。近年の首相経験者や現役首相へのテロを想起させるが、昔から人々と接したがる政治的な習慣は天皇も政治家も変わらず、当局の危機感が元々
ころこ
2024/05/21 16:34

切迫していなかったことがうかがえる。五・一五事件の後に奈良武官長が定年で本庄武官長に替わる。ここで軍と天皇のコミュニケーションに齟齬が生まれる。天皇機関説の問題も本庄武官長がもう少し上手く立ち回っていたら違ったのではないかという視点で描かれる。相沢事件が詳述されている。恐ろしい事件だ。「革新」ムードの中で善悪がつくられ、事件が肯定されて二・二六事件への流れができる。流れを断ち切った天皇の二・二六事件の評価は、本庄武官長との対立の中であぶり出される。本庄武官長は娘婿が事件に関与したとして事件後に辞任する。

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ころこ
登場人物が行うのは性愛ではない。人間だがヘビの様な異類の身体性を持つ。注目したいのは、同時に人間だけが持つ俯瞰の感覚も失っていることだ。いま自分が何者で、何処に居場所を見つけ、生きていくかという時空の感覚を人間は持つ。しかしここに描かれる登場人物は行き当たりばったりで、今を生きている。それゆえに動物をみるように健気で、彼ら彼女らはいとしい。発表当時はそんな感覚なかっただろうが、今だったら発達障害的な会話の間の抜け方と、再帰的なリスク社会のアンチテーゼといわれそうな世界観が読者の気持ちを少し軽くしてくれる。
が「ナイス!」と言っています。
ころこ
シリーズ2冊目、編者斉藤にとって最高傑作ではないだろうか。1冊目と少し異なる読み応えがあり、新たな発見が多々あった。相変わらず応じてくれた学者の方は当代随一で驚く。第1章はデカルト、ホッブス、スピノザ、ライプニッツを上野が比較対照する。まずデカルトのイメージが変わった。身体の機械論であるデカルトと比較する全てが機械論だとするスピノザも非常に見通しが良くなった。スピノザの政治論は、今度はホッブスと比較することでマルチチュードが明快になる。第2章はイギリス経験論だが、ここは改めてアメリカ・プラグマティズム哲学
ころこ
2024/05/18 19:44

との関係を追いかけてみたい。戸田の師が冨田恭彦らしく、関連はある。第3章は非常に時間を掛けて読んだ。カント三批判書だけでかなりの分量を割いている。『純粋理性批判』と『実践理性批判』は御子柴が解説書を出版していて、『判断力批判』は小田部胤久『美学』を当たれということだと思う。第4章はヘーゲルだが、大河内はフィヒテ、シェリングの流れを重視する。フィヒテ、シェリングと比較することでヘーゲルが分かり易くなる。山本、吉川の特別章は重くならないようバランスをとるために設けられている。あくまでも射程の長い入門書だ。

が「ナイス!」と言っています。
ころこ
あまり映画は観ないので、論じられている映画が既観だったら嬉しいが、大半の映画は未観のまま文章だけ読むことになる。とすれば、良く分からない対象について論じられているのだろうか。論じられている対象がコンテンツだとすればそうかも知れない。こういった論集を読むコツは、対象がそこに映り込む作者自身やそれを論じる論者自身だと思うことだ。恐らく、ほぼ全ての読者がそうした構造を織り込んで無意識のうちに読んでいる。読書は単に情報を得る手段とは限らない。文字と向き合うことにより、作者、論者、読者自身と向き合う時間であるのだ。
が「ナイス!」と言っています。
ころこ
著者は社会学者だが、本書は文芸批評であり、その上での社会批評だ。文芸批評はエビデンスがないと言われ、説得力に欠けるというのが、読まれていない理由だと思う。著者は以前から加藤典洋『敗戦後論』の仕事を評価している。加藤の論は複雑で、論理を文学の力で乗り越えるところがあった。著者はこれを整理して、日本の戦争の死者たちに対して、あなたたちを裏切ることになると哀悼を示し、次いでアジアの犠牲者に対して謝罪するという、加藤が直接言っていない論として更新した。ではなぜこれが現在の我々に関係があるのか。日本が世界の問題に対
ころこ
2024/05/15 15:21

して積極的関与ができない、つまり未来に責任が持てないのは、過去の死者につながっていないからだ。未来の他者に対する想像力は我々の死者から脱落すること、しかしその前提として我々の死者を棄却しつつ回復するサイクルがそもそも失われてしまっていることにあるという。この歴史的、時間的な想像力が社会学とフィールドに落ちているので、本書は十分に読み応えがあり、説得させられるのだが、太宰治『トカトントン』からはじまり村上春樹『ねじまき鳥~』といった共通体験がないと読めないところが、今や文芸批評の困難となってしまっている。

が「ナイス!」と言っています。
ころこ
本当に現実にあるエロマンガ島にエロ漫画を読むというゲーム雑誌の企画で訪れる3人。エロ漫画というドメスティックな文脈と、2回トランジットして最後はプロペラ機で辿り着いた秘境という対照をエロマンガという字面に載せている。しかし日置が片道切符だったことを告白したように、表層から滓のように沈殿した3人の人間模様が漂う。3人は実際にエロ漫画を読んだのだろうか。その予感はエロマンガ島のホスト的存在ジョン・ジョンの5人の娘たち、並行して進行する佐藤の恋人・鈴江のNTR未遂に裏テーマとしてあったというのがこの話のオチだ。
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ころこ
短編の連作で、ひとつのストーリーで構成されている。制約は短編ごとに一人ずつ登場人物が増えていくことと、食べる描写があるということにある。この二つに関連はあるのか。航平と吉田、この二人の男をめぐって展開される。航平は腹違の病気によって身長の伸びなくなった弟。吉田は不能の恋人。名字で呼んでいる通り、吉田と親近感があるとは言い難い隙間がある。肉体関係もない。では、なぜ主人公はそんな吉田と恋人関係にあるのか。吉田の欲望の在り様が隠されているのが、主人公との共犯関係になっているからだ、と思う。主人公も吉田に対してで
ころこ
2024/05/13 19:52

はなく、航平にこそ欲望を抱いてしまっている。家族だが肉親ではない。性的関係を潜在させているアンビバレントな気持ちに気付かない振りをしたい。その空虚さを埋める代替として食欲はある。吉田の欲望は、はじめ隠されているが、交通事故によって主人公に知れることになる。電話だったり報道だったり、間接的な回路によって真実を知るという仕掛けがある。が、手紙によって吉田の真実を知る辺りから話の収拾つかなくなる印象がある。最後の短編には新しい人物は登場していないようにみえる。しかし、航平に再び出会うというオチで終幕している。

が「ナイス!」と言っています。
ころこ
アメリカ社会の特徴をヨーロッパとの比較から分析すると、スマートな熟議とは別のものが見出される。ある種の喧騒に巻き込まれ、至るところで喧々諤々の声が上がる。巧妙なレトリックではない、不格好でも各々の生活実感からの無数の声が同時に、その一つ一つが何らかの社会的要求を訴えている。これらの声は熟議でイメージされるように収斂していかない。何らかの決定がなされ、権力の行使が行われてもこれらの声が止みはしない。いずれ権力の交代が起こり、別の権力行使によってその声が掬い取られる。これがアメリカにおける民主主義の形だろう。
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ころこ
現代思想の10人を軽妙に論じている。10人中、7人がドイツ(アドルノ、ベンヤミン、アーレント、ニーチェ、マルクス、ハイデガー、スローターダイク)と、フランスの3人(デリダ、フーコー、ラカン)を上回っているのは著者がドイツ語圏の研究者だからだろう。この中で最後のスローターダイクだけがややマイナーだ。この思想家の考えは、イデオロギー批判を徹底することで、人びとを理想の社会へ導くことができると信じて突き進んできた啓蒙的理性をシニカルに批判する。この10人の中で著者に最も考え方が近いどころか、ここまで読んで来た読
ころこ
2024/05/10 20:33

者には、著者のスタンスと二重写しになる。純粋主義がかえってその対象を引き寄せるようなドイツ人の純粋さと、同時に「ドイツでは~」と持ち上げるサヨクも揶揄する。これは生き生きした言説の裏にあるエクリチュールを批判する『デリダの遺言』以来のテーマと同じ構造を持っている。著者はスローターダイクの著作を翻訳もしている。前半の3、4人を過ぎてからやや失速気味で、9人目のラカンに至っては、ラカンを論じているのかすら怪しくなってきた読後感を締める構成になっている。何せ、自分自身を論じるのと同じことをしているのだから。

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ころこ
文学といったときに、ジャンルとしての文学と、効果としての〈文学〉がある。東や大塚の功績はマンガやアニメ、ラノベに〈文学〉を論じる文脈をつくったことにある。本書は同時期の『ゲーム的リアリズムの誕生』、更に後年の『セカイからもっと近くに』と同じ問題設定になっている。後者は本書の第1章とほぼ同じタイトルになっていて、文学からサブカルへの接近を試みている。今は語られることは無くなったが、東のこの分野の全体像をみるのに参考になる。対談者との接点が無くなり、戻ってくる可能性は低いが、東の個人的な欲望の在り処が分かる。
が「ナイス!」と言っています。
ころこ
アメリカ思想に宗教色が強いのは、米大統領選を通じて日本人の知ることとなった。以前は理性的で熟議が行われ民主主義のお手本とされてきたが、最近は首を傾げることが多い。トランプ現象がその元凶だというのが日本での見方だが、果たしてそれだけなのか。古典に立ち戻ることで、アメリカで何が行われているか理解するのに役立つかも知れない。本巻では、まず著者がピルグリム・ファーザーズと同じ目線で自然をみて、思索を巡らす。後年に展開されるアメリカ思想が自然と宗教から生まれてきたことに対する直観はさすがという他ない。第2章からは、
ころこ
2024/05/08 11:33

アメリカでは地方分権と自治によって行われていることが論じられている。地方分権は外敵のいない地理的特徴から選択可能な政治形態だ。他方でアメリカにおいて自治は良いものとされ、良くも悪くも自治からアメリカっぽい特徴は導出されている。他方で、日本で自治は一部の利害を代表するものとして民主主義に逆行していると理解されているのではないか。クレームを地方公務員に入れる市民、PTAの廃止など、自治に関して日本でどの様に考えるかは一筋縄ではいかない。当時のアメリカでは陪審制度に限らず、司法が自治行為として運営されている。

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ころこ
市民革命の前提には「私=自我」の絶対的な中心点がある。並行してもう一つの革命である科学革命によって、人間は神にとって代わられる存在にもなる。同時に、人間は必然的に死すべき身体を持っていて、「私」の死後、世界がどうなるかという観念が「私」を支配する。この不安に苛まれる存在が、近代人と呼ばれることになる。他方で、市民革命が結実するもう一つの中心点は、人間が倫理をつくったことにもある。倫理によってダーネイはロンドンで問題とされなかったことが、パリでは亡命貴族の裏切り者として裁かれることになる。このことは本作で一
ころこ
2024/05/07 10:50

番しっくりいかない。問題を起こしたのはダーネイ本人ではないので、個人を裁く近代法の原則からすると、無罪ではないか。現在の我々の感覚からすると不思議で、今まで本作がどのように解釈されているかは知らない。一度死んだ神によって不安な個人が生まれるが、神の復活(倫理の成立)によって、近代を通って本来的な生を取り戻すと考えると、ロマン主義の成立にも通じるところがある。有罪の件は個人と集団の位相の違いとして解釈することは可能だ。終盤は神の復活であり、カートンの行為は現実離れではない崇高な利他性と解釈することができる。

が「ナイス!」と言っています。
ころこ
色々なものが対になっている。二都市間の時間と空間が離れているために謎が残り、それが伏線となっている。瓜二つのダーネイとカートンが対なのは言うまでもないが、カートンとストライヴァ―もBL的な対にみえる。蝶番のように重なっているカートンのキャラが際立っているが、上巻はルーシーとダーネイの結婚までしか進まない。
が「ナイス!」と言っています。
ころこ
タイトルのために世代論に寄せている。しかし、論旨はトランプ現象をはじめとした日本からみると「なぜそうなるの?」と首を傾げざるを得ないアメリカ社会の分断について、事象を踏まえて平易に論じている。しかし、本書の慧眼は第1章にあると思う。ここで議論されている「アメリカ例外主義」とは、アメリカは堕落したヨーロッパと違い特別な責務を負っていて、それ故に他国に優越しており、人類史を進歩に導かねばらない使命感のことだ。例外主義は一時のことであり、トランプだけでなく、バイデンもまたイラク、アフガニスタンと失敗から路線変更
ころこ
2024/05/03 08:07

を模索している。例外主義で最も成功した事例は紛れもなく日本だ。また、現在の日本の平和主義を守っているのはアメリカの例外主義だともいえる。軍事力で解決しようとするアメリカの傲慢さを「巻き込まれる」と批判するが、いざ軍事的な危機が起こった時にはこの例外主義に頼ることになるのではないだろうか。表面上アメリカの安全保障戦略が理詰めで練られたものだとしても、彼らの深層心理が宗教的な熱狂のようなものによって駆動されているというのは興味深い。我々はこういうレベルの議論を踏まえてアメリカとの関係を考えてきただろうか。

本読むおっさん(Lester_the_Nightfly)
2024/05/03 11:08

☆ 横レス失礼します。非常に現実的でクレバーな考察だと感じました。視点が日米関係まで拡がっているところなどとても鋭いです。駄文失礼。

が「ナイス!」と言っています。
ころこ
東工大で同僚だった著者の西田と編者の池上、全く売れていないのは池上が前面に出ていないことと、抽象的な議論の第1章にある。政治の定義を「ある決定を他人に強いること」とすると、政治は我々が想定しているよりも広い。選挙や国会での議論だけでなく、元々あるような社会制度、メディアの論調を含めてかなりの範囲を政治として論じているのが本書の特徴だ。社会学者の西田らしいアプローチで、ここが最も興味深かったのだが、掴みとしては分かり難い。第4章の政策議論や第5章の政治社会の問題を自分の考えと照らし合わせて読むと面白いかも。
が「ナイス!」と言っています。

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2016/03/01(3038日経過)
記録初日
2016/03/01(3038日経過)
読んだ本
2587冊(1日平均0.85冊)
読んだページ
760317ページ(1日平均250ページ)
感想・レビュー
2335件(投稿率90.3%)
本棚
9棚
性別
現住所
東京都
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