読書メーター KADOKAWA Group

2024年10月の読書メーターまとめ

ぐうぐう
読んだ本
35
読んだページ
7978ページ
感想・レビュー
35
ナイス
1338ナイス

2024年10月に読んだ本
35

2024年10月にナイスが最も多かった感想・レビュー

ぐうぐう
ホラーだからこそ、リアリティを大事にしないといけないことを作者は心得ている。そしてリアリティとは、背景(大正時代)であったり、言葉(大阪弁)であったり、そして当然のことながら人物造形(エリマキ!)であったりするのだが、その基本が充分な強度を保っていて、新人とは思えぬ文体の確かさも相まって、怖さを生み出すことに成功している。しかし作者は、それだけでは足りないことも重々承知だ。このホラー小説には、ユーモアがある。そのスパイスこそが作者がこの先、さらに傑作を書くだろうことを予告しているのだ。
が「ナイス!」と言っています。

2024年10月の感想・レビュー一覧
35

ぐうぐう
連合赤軍事件において事件を語る声は、残された者達の声にならざるを得ない。死者は語れないのだから。残された者とは(積極的、消極的の違いはあれど)同志殺害に加担した者のことだ。加害者の声からも見えてくるものはあるが、死者が語れない限り、その声はどうしても偏ってしまう。本書は、山岳ベースで殺害された大槻節子の大学の同期生である友人が、彼女の想いを、声を掬い取ろうとして綴られた一冊だ。党派に傾斜していく彼女の言動、彼女が好きだった詩や小説、そして彼女が残した日記から、著者は彼女が求めたもの、(つづく)
ぐうぐう
2024/10/31 20:39

「死なれた」から「死なせた」という自身への憤りへと変化していく。大槻節子のことを書くのに五〇年を有した事実が、著者の悔いの、憤りの重さを物語る。「生者は死者に託された言葉によって生かされている。「死なせた」という自覚は、死者との思い出の中にある死者から託された言葉に促されて、自分が生かされていることを意識することだ」また著者は旧約聖書「伝道の書」の「かつてあったことは、またあろう/かつてなされたことは、またなされよう/天が下に、およそ新しいことはない」という言葉を引用し、(つづく)

ぐうぐう
2024/10/31 20:40

「私たちが一九七二年に遭遇したことは、およそ新しいことではなく、かつてなされたことであり、またなされようとすることなのだ。だからこそ次の世代に語り伝えていかなければならない」という苦く重い自戒の言葉によって、締め括られる。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
映画とは何かと考えた際、濱口竜介はシンプルに「カメラとは現実を記録する機械である」という原点に立ち返る。そしてリュミエール兄弟のフィルムを鑑賞し、それを確認する。では、映画監督の仕事とは何なのか。濱口は師匠である黒沢清の答えを大いに参考にする。曰く「カメラをどこに置くか、を決めること」「カメラをいつ回し始め、いつ回し終わるか、を決めること」だ。その原初的な答えから映画監督を、そして映画を眺め直した結果、濱口は気付く。映画とは他なるものだ、と。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/30 20:32

ショットから、からだから、演技と演出から、映画を解読する濱口の手法は、観たはずの映画に新たな発見と感動をもたらせる。『牯嶺街少年殺人事件』の暗さと遠さ、『非情城市』の複数性、『東京物語』の同期・連動・反復等々。濱口のこの執拗な注意力による発見は、情報過多による散漫な現代社会へのまさしくアンチテーゼであるが、その注意力がフレーム外へ、あるいは偶然がもたらす想像へと導かれていく時、そこに映画の可能性が見えてくる。黒沢清は「映画はドラマを語るということに最も向かないメディアだ」と言う。(つづく)

ぐうぐう
2024/10/30 20:32

「映画はそもそも破綻したメディアだ」とさえ言う。しかし、そんな黒沢は現在も映画を撮り続けている。濱口もまたそうだ。カメラが機械だからこそ、映画が他なるものであるからこそ、そこに未来を見ているからだ。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
本棚紹介本は山のように存在するが、積ん読に特化したものはかなりめずらしいのではないか。だからこそ、興味深い証言がどんどん出てきて、実に刺激的で、かつ楽しい。それは、積ん読に対する姿勢が人それぞれであることで生まれる。本棚に入れてしまっては積ん読じゃないという柳下毅一郎、一時的に滞在している本で自分専用の図書館を作っている柴崎友香、ベランダに積ん読している強者・小川哲、本は知識のインデックスなのだから積まなくてどうすると考える山本貴光などなど、読んでいると積ん読への罪悪感がスーッと消えていく。(つづく)
T-top
2024/10/29 21:57

先日、注文しました!これは積まずに読もうと思います、楽しみです

ぐうぐう
2024/10/29 23:40

そうですね、これを積まずに読むことで、他の本を安心して積むことができます(笑)。面白かったですよ。ぜひぜひ!

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
物語はアイデアだけでは面白くはならない。そこに読者を納得させるリアリティという補強が必要になってくる。特にホラーというジャンルでは、あり得ない怪異に対するリアリティを補強してこそ怖さを感じることができるのだ。貴志祐介はそのことに自覚的であり、呪術を扱う本作は呪いのリアリティにこだわり、ひとつひとつのアイテムの背景を歴史を利用し詳細に説明することで物語の補強を図るのだ。しかし、その補強が行き過ぎている印象を受ける。読者の納得を導くための補強が、物語の躍動を阻害しているのだ。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/28 20:27

ホラー小説の読者は、納得したい以前に、怖がりたいはずだ。補強の行き過ぎが怖さを遠ざけてしまっては、本末転倒ではないか。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
Audible。読んで(聴いて)いると、どこに連れて行かれるかわからない不安に苛まれていく。それはつまり、世界を生きる実感としてこの小説があるということなのだろう。作者が何を描こうとしているのかわからない状態は、先を予期できない現実に私達がいることを改めて気付かされる。小説を読みながら、というよりかは、現実世界を生きながら、何を考え、何を望もうとしているか、それを問われているかのようだ。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
「猫と関わることで感覚のチューニングがズレることがあります」「人間の五感では触れられない世界への」「猫は扉のようなものなのかもしれません」確かに、猫といるとそのような感覚に陥ることがある。「鎌倉はあの世とこの世の境界があいまいな土地なんだ」確かに、鎌倉に行くとそのような感覚に陥ることがある。異界(鎌倉)への扉(猫)。つまり猫と鎌倉は、やっぱり相性が良いのだ。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
1980年代から90年代に発表された中編3作を収録。ポップな画風でありながら、泥臭いストーリーとマッチしているのは、吉田まゆみのタッチがいわゆる少女漫画らしくないからだ。その化学反応こそが、吉田まゆみオリジナルのスタイルを感じさせる。表題作が特にいい。母親に捨てられた少女を、自身も捨てられた経験を持つ主人公が妹として育てていく。ファンタジーに逃げない展開は、リアルな描写も手伝って説得力を持ち、それでいて重すぎない絶妙のバランスを保っている。この絶妙さは、吉田まゆみにしか描けないものだ。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
社外取締役となって、やや引いた立ち位置でビジネス、あるいは社内闘争に対峙していく島耕作のスタンスが、読んでいて心地いい。娘の彼氏への懸念も、一歩引いた助言で済ましているのも、現在の島の状況を物語っている。だから、半導体ビジネスに絡めて台湾有事の可能性を語る島の言葉は、島の、というよりかは、弘兼憲史の言葉になっていやしないか。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
『アイドルを探せ』40周年記念のMOOK。この事実にひたすら打ちのめされるわ。あれから40年⁉︎ 吉田まゆみが70歳⁉︎ マジか……。ロングインタビューも読み応えがあるけど、江口寿史との対談に収穫が多い。同世代の漫画家でファッショナブルな画風は、少年漫画と少女漫画というフィールドの違いはあっても、共感できる部分も多く、同志のような感覚でいたのだろう。当時のジーンズの描き方のエピソードなど、興味深い。あと、江口が「だからおれとまゆみさんはちば先生の息子と娘なんですよ」と言ってるのが印象的。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/24 20:59

そっか、『岸辺のアルバム』が現在のところ、吉田まゆみの最後の作品かぁ。新作、読みたいっす。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
シリーズが16作目ともなると、必然的にパターンが形成されてしまう。どんでん返しを売りにする本シリーズにおいて、犯人の罠に落ち、絶体絶命の窮地となる場面も、次のチャプターで無事が確認、危機を免れた理由が語られ、それがどんでん返しとなることを読者は心得ているのだ。結果、そこのハラハラドキドキはパターン化により薄れてしまうのだが、ディーヴァーが達者なのは、免れた理由を説得力と意外性(あるいは巧妙に張られたさりげない伏線)によって説明し、読者をハッとさせることを忘れないことだ。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/23 19:40

そして何より、本作を味わい深い物語にしているのは、宿敵ウォッチメイカーの人間味を描いていることで、つまりどんでん返し以外の読みどころをきちんと用意している。その周到さこそが、今シリーズがここまで長く続いている理由でもあるのだろう。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
いかにも乱歩的な世界観で綴られる一編。模倣の論理も月光の影響力も、そこにロジックらしきものはあるものの、答えそのものでない点が、本作の怪しさを高めている。また、ポーの小説のような社会批評が、その怪しさに内包されていることで本作に深さをもたらせてもいる。つまり本作には、抗い難い重力があるということだ。それをまくらくらまの画は、しっかりと後押ししている。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
小説家デビュー30周年を記念したMOOK。インタビューや対談は再録ばかりだが、作品解説が実にしっかりとしていて読ませる。特に「百鬼夜行」シリーズを担当している千街晶之の解説は詳細に富み、ゆえに痒いところに手が届く申し分のない内容だ。シリーズを通しての登場人物の関係性など、熟読しているからこそ把握できているのだろう。読んでいて新たな発見がたくさんあるのが嬉しい。さらに他シリーズとの繋がりを解明していく章では(こちらの解説も千街晶之)、京極ユニバースとでも呼ぶべき壮大な構図が垣間見れ、痺れる。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/21 19:42

宮部みゆきが『鵼の碑』を「京極版アべンジャーズ」と称したことは記憶に新しいが、この先、リンクが増えれば増えるほど、宇宙は拡大し、緻密になっていくはずだ。つくづく京極夏彦とは自らを縛ることが好きな作家なのだなと実感させられるが、それを美学にまで昇華してしまえる才能には、ほとほと感心してしまう。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
Audible。なかなかに大胆な展開で読ませ(聴かせ)るシリーズ12作目。Pハウスの面々が物語に絡んでくるのもいい(映画好きの赤川次郎は、栗崎英子を書いている時が一番楽しそうだ)。仮釈放された明夫との関係がトントン進んでいくのはちょっとなぁと思わなくもないが、爽香のこの経験と決断が彼女を強くしたことが充分伝わってくる。あと、タイトルの藤色のカクテルドレスが最後の最後に登場する演出も効いている。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
「何度も何度もひき返して同じとこくり返してるのは 多分 この求められる最初のとこだけほしいから」人はなかなか変わらないものだ。年齢を重ねたおかげで客観性を手に入れた分、その変わらなさの理屈が理解できてしまうのが、滑稽で、またせつない。そうなのだ。人はいつまで経ってもエビ天を最後まで取っておく生き物なのであった。あ、「寿子に「パンティーテックス」をさせて一時的に怒りを抑えるフクちゃん」サイコー!
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
冒頭の「怪異の話」が本作のスタンスを象徴している。まさしく怪異を扱う本作だが、怪異を都合よく弄んでいるわけではない。「子は怪力乱神を語らず」の論語で例える高村は、不思議な話を求めながらも怪異には慎重な姿勢でいる。そのうえで「どんなに調べて証明して不思議を明かして行っても説明のつかないものは残る それが怪異だろう」と語るのだ(消失したと思われた一銭が壚染さんの尻の下にあったという何気ない描写も、それに倣っている)。怪異に対して慎重だが否定していないスタンスで、ゆるさを伴い描かれているのが、本作の美点だ。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
ホラーだからこそ、リアリティを大事にしないといけないことを作者は心得ている。そしてリアリティとは、背景(大正時代)であったり、言葉(大阪弁)であったり、そして当然のことながら人物造形(エリマキ!)であったりするのだが、その基本が充分な強度を保っていて、新人とは思えぬ文体の確かさも相まって、怖さを生み出すことに成功している。しかし作者は、それだけでは足りないことも重々承知だ。このホラー小説には、ユーモアがある。そのスパイスこそが作者がこの先、さらに傑作を書くだろうことを予告しているのだ。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
本書がユニークなのは、三島自身が書いた政治論文と自決から間もない時期に書かれた識者による三島論、そして50年を経ての現在の視点から現在の識者によって書かれた考察とが収録されている点だ。事件に至るまでの三島の考えに対して冷めた批判をしつつも、自決という衝撃からは吉本隆明や鶴見俊輔でさえ逃れることができずにその動揺を吐露している。対し、50年という時間が優位な立ち位置となっている現在の識者の論考は、特に古川日出男や佐藤究といった小説家の考察に共感を抱いてしまうのだ。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/17 20:32

また、保阪正康の「森田の引力に、三島が引っ張られた。だから、森田がいなければ、三島事件は起こっていないと僕は思ってるんです」という見方には大いに納得した。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
連作としての『悪霊物語』。その第一部を担当した江戸川乱歩の部分を収録。よって結末はないのだが、それがかえって余韻を深めている。乱歩はおどろおどろしく描写してはいるものの、この物語を楽しんで書いているのがわかる(それが連作というスタイルによるものかどうかはわからない)。とはいえ、本書の一番の驚きは「乙女の本棚」初登場となる粟木こぼねのイラスト画だろう。精緻でありながら、どこかで余白を残すその画は、何より美しく、ゆえに魅せられる。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
シリーズ5作目は、これまでとは異なるスタイルで描かれている。まず、別シリーズである『カササギ殺人事件』のような作中作の構成を取っていること。そしてそれがホロヴィッツの一人称ではなく三人称で書かれていること。何より、ホーソーンの関わった過去の事件を扱っている点が大きく異なる。それは、このシリーズがホーソーンという人物の謎を解き明かしていくことを事件の裏主題にしていることと関わっている。また、作中でシリーズを書くホロヴィッツという二重構造に加え、(つづく)
ぐうぐう
2024/10/15 21:20

過去の事件を作中作として書くことで三重の構造となっていて、ミステリ小説批評の視点がこれまで以上に強くなっているのも印象的だ(例の如く、ある名作ミステリのイメージをそこかしこに散りばめながら、それを終盤でひっくり返す手腕は見事と言うほかない)。さらに、横溝正史や島田荘司の作品への言及があったり、日本のミステリファンを喜ばせる余裕もあり、抜かりない。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
時代の流れによって、祭りの在り方も少しずつ変化を強いられる。時代とは人が作ったものであり、要は人の価値観の変化が祭りをそうさせるのだ。人は変わるものだ。大人になるにつれ、家族の意味を知り、故郷の意味を知る。それは開放であり、呪縛でもある。それでも人は知りたいと思う。理解したいと思う。変化の中で、それでも変わらないものの大切さに気付きながらも、変化が導く優しさを信じて、人は変わる。変わろうとする。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
Audible。自分が自身である限り、自分を俯瞰して眺めることなどできない。あくまで主観からは逃れられないのだ。ならば、客観とのギャップに常に苛まれることになる。佐藤正午の小説はいつも摩訶不思議だが、この最新作も例に漏れず奇妙だ。主人公が出来事に翻弄されるように、読者も翻弄されっぱなしになる。けれど、この小説の重力は強く、何より魅力的で、ゆえに読み(聴き)始めるとのめり込まざるを得なくなる。そんな効用もまた佐藤正午の小説ならではだ。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
それが真実だから秘密になる。しかし、秘密だからといって、それが真実かどうかはわからない。「水じゃないか!」「おお 君にはそう感じられたか 特別な薬だと聞いて 甘く感じる者も 苦く感じる者も 変わらないのは 皆それに価値を付けようと必死になるんだ」だとすれば、「今更真実なんて 誰が救われるの?」秘密が解かれる時、それが真実であれ、偽りであれ、人は救われる以上に傷付くのだろう。それでも人は、秘密を抱え、それが解かれる日を待ち望む。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
「仮定法というのは起こり得ないことを仮定するときに使います」と初田先生は言う。とはいえ『女の園の星』における仮定法は、そのほとんどが日常にしっかりと息衝いている。つまり、起こり得ることとしてあるのだ。メガネな皆さんが同日同時刻にメガネ屋に集結する奇跡や、おにぎりやちんすこうを手に卒アルを撮られるというシュールな設定や、あるいはLINEのメッセージにツキノワグマが混入することだって、普通に起こり得る。仮定法が日常に溢れているからこそ、この漫画は面白く、愛おしい。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/12 09:04

それがギャグのためであれ、そこに息衝いていることが素晴らしい。そして仮定法が日常としてある漫画が、ひょっとしたら、見ようによっては、現実世界にだって起こり得るかも、という仮定法を抑えられない力があることこそが、何より素敵だ。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
当たりの巻。収録作3編、どれもが面白い。「悲しき星の下に」は、辛すぎるエンディングが悲しみを誘うが、1969年の学生運動時に出会った二人という設定が、ラストの苦さに説得力をもたらせている。時々登場する寓話としてのエピソードで読ませる「星春の蹉跌」は、因果応報の展開のその先を照らすことで意外な明るさを抱かせる。「星寂の館」も意外な結末で驚かされるが、男女の恋情だけに終わらず、父と子の確執をも解すという懐の深い内容となっているのがいい。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
意外な一冊だ。旧作の邦画について論じてきた春日太一が、現在の日本映画を対象にする。しかも、裏方である職人にスポットを当てるのだ。さらに裏方といっても、人物デザイナーやデジタルリマスター、撮影美術制作でも鉄道具を取り上げるなど、なんとも渋いチョイスがたまらない。また、アニメーションならではの音響効果の苦労を語る柴崎憲治、CGに関して「ツールが変わっただけ」でそこには昔ながらの職人魂があるという白石哲也など、なるほどと思わせられる証言を春日は引き出している。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/10 21:24

中でも、特殊メイクアップアーティストの江川悦子がメイク技術の映画への貢献として「私が長年かけて試みているのは、メイク時間をいかに短くするかなんですよね」という言葉が印象的だった。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
反復としての小説。バイト、死としての物体、動物殺し、隔離、支配、情人、米兵、等々。ただし、反復は完全ではない。そこには確かなズレがあり、新たなアイテムや主題が登場し、よって広がっていく。それはまさしく世界を知る行為としての反復であり、ズレなのだ。やがて小説は、性や政治が占める割合を多くするものの、世界であることに違いはなく、であるからこそ、切実さからは逃れられない。大江健三郎の、小説を書くことで世界を理解していく試みを通して読者は、同じく世界を知ることになる。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/09 20:38

大江の文学の素晴らしさは、それが時代を限定して描きながらも同時代性を獲得している点だ。ゆえに60年以上前に書かれた初期作品群は、まるで古びず、瑞々しい小説として私達の前にいつも現れるのだ。とはいえ、発表当時にリアルタイムで大江のこれら小説を読んだ学生達は、その影響力から逃れることなど不可避だったろう。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
「血縁というものは呪いだな」なぜなら、どうあがいてもそ血の繋がりからは逃れられないから。とする時、「家族になるか、家族であるか」という惹句の持つ意味は、深く重い。ただ、深く重い意味から照らされるのは、呪いからの解放だろう。複雑になりつつある物語の中において、光にも似たその願いだけは、シンプルに揺らぎなく輝くはずだ。
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
人嫌いとして知られた江戸川乱歩が、戦後になってこんなにも多くの、そして多様なテーマと多彩なゲストを迎えた座談・対談をしていたのには、乱歩の探偵小説への強い思いがあってこそだろう。巻頭に配置された戦前に催された2本の座談においては、どこか斜に構えて、あるいは自作への自虐もあって、そのスタンスは控えめだが(とはいえ、『黒死館殺人事件』への高い評価と小栗虫太郎への強い擁護は、探偵小説への未来を見たからだろう)、戦後になってからの発言は、積極的であり、(つづく)
ぐうぐう
2024/10/07 21:43

楽観すら感じさせる(それもまた、探偵小説の未来を信じていたからこそだ)。対談で目を引くのが、幸田文や小林秀雄、佐藤春夫といったミステリ界以外の分野の作家・評論家と、実に楽しげにミステリ論を交わしている点だ(幸田文との対談では、文の父・露伴が探偵小説好きであったという話で大いに盛り上がる)。中でも、稲垣足穂との対談がインパクト大だ。なにせ、古今東西の同性愛を扱った作品について語るのだから。稲垣をして「江戸川さんは新プラトニズムとグノーシス派の匂いがする。(つづく)

ぐうぐう
2024/10/07 21:44

「一寸法師」や「黄金仮面」や「陰獣」を媒介にして、古代ギリシャの理想を恢復しよとしているようだ」と言わしめるのだから驚きだ。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
Audible。バルサの若かりし頃を描いた外伝短編集。とはいえ、どの短編にも老いが描かれているのが印象的だ。終わりがあれば始まりもある。そんな人生の、あるいは世界の理を描かんとする上橋菜穂子のこだわりを感じる。「(略)バルサは小さな声で、タンダの祖父にたずねた。「……お墓に立っているトルチャ〈面影〉が、何年か経つと〈里の守り〉さまになるんですか」タンダの祖父はほほえんだ。「トルチャ〈面影〉から面影が消えたらな、〈里の守り〉さまになるんさ。そんで、ずうっと、子孫たちを守ってくださるんさ」」
が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
そもそも『さよならミニスカート』は、複雑な物語だった。アイドルがスカートを捨てる、というわかりやすい設定を利用しながらも、ジェンダーの問題をステレオタイプで語ろうとはしない志の高さが、結果として複雑な物語を形成していた。そしてそのことこそが、本作の魅力であったはずだ。5年ぶりの新刊において、性被害が虚言だったなどの捻りはあるものの、それによって導かれるのが既成の論の枠を超えないものであれば、そこには失望しかない。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/06 09:01

ただし、物語はまだ半ばだ。読者のこのような失望もまた、作者の企みであるとする可能性も捨てきれない。そのための5年間の休載だと信じたい。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
未完である「天使編」と「神々との闘い編」2作の完結編を一冊にまとめた合本で再読。サイボーグ戦士達の最後の戦いの相手として人類の創造主を選んだ石ノ森章太郎は「天使編」を開始するも、その壮大な構想ゆえに仕切り直しを迫られ、連載休止を決断する。4ヶ月後、新たな構想のもとに「神々との闘い編」の連載を始めるが、回を重ねるごとに抽象的な表現が目立つようになり(「COM」という掲載誌がそれを許容してしまった側面もある)、読者からの批判が相次ぎ、こちらも休止へと追い込まれる。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/05 18:50

石ノ森は、連載後にパズルのように組み替え、最終的に単行本でまとめ上げることを想定していたと告白している)。その後、完結編をまずは小説で書き上げることにしたのも、観念的で抽象的だと読者に捉えられたことをきちんと受け止め、論理的に進行させるための手段だったのではないか(本書には、「神々との闘い編」中断から約2年後にファンクラブ機関誌に発表された小説版の「神々との闘い編」の一部が収録されている)。(つづく)

ぐうぐう
2024/10/05 18:50

ともあれ、連続して未完となった要因は、主題の巨大さが理由というよりかは、早過ぎた表現方法に読者が付いていけなかったことと考えるほうが納得できそうだ。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
とても奇妙で歪な小説だ。それでいて、ひたすら真っ直ぐな小説のようにも思えてくる。一人でいることを好む男勝りのミス・アミーリアは、町にやってきたせむしのカズン・ライモンと出会い、惹かれ合い、同居を始め、一緒にカフェを営むようになる。それぞれ闇を抱えた二人の邂逅は、カーソン・マッカラーズの小説を読んできた読者にとって、小さな希望の灯火だと信じられる。しかし、本作におけるマッカラーズはそうではない。その灯をためらいもせず、吹き消してしまうのだ。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/04 19:11

刑務所から出所した元夫の登場により、物語は予想だにしない展開を見せる。なんなんだ、これは?と思いながらも闇に引き摺り込まれ、答えのないままページを閉じたあと、私達は終わったはずの物語に佇むしか術をなくしてしまう。だが、そこにこそマッカラーズの意図があるのだ。佇むことで私達は、三人のことを今一度考えざるを得なくなる。感じざるを得なくなる。単に愛と、単に憎しみと、単に孤独と、単に繋がりと呼ぶにはためらいのある、複雑で、でもシンプルな魂の姿が少しずつ見えてくる。(つづく)

ぐうぐう
2024/10/04 19:12

『結婚式のメンバー』「心は孤独な狩人』に続く村上春樹訳によるマッカラーズの三作目だが、本作に一番胸を抉られた。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
人は安心したい生き物だ。解けない物事に対して、そこに納得のいく存在を介することで安心を得ようとする。例えばそれは妖怪であり、本作でいうところの虫である。『前巷説百物語』に登場した久瀬棠庵が事件を虫として解釈し、解決していく。百鬼夜行シリーズの憑き物落としと同じ手法だが、棠庵はもっと正直なのだ。馬鹿正直と言ってもいい。虫のせいにするのを方便だと溢してしまうのだから。そして己れを病葉だとさえ診断する。探偵のような立ち位置でありながら、実のところ棠庵は観察者なのである。(つづく)
ぐうぐう
2024/10/03 20:50

人の話に耳を傾け、何気ない光景に目をやりながら、点と点を結んでいく。いや、それこそが探偵の所業ではないか。長屋を舞台に、軽快かつテンポのいい会話で進んでいく、謎めいた、けれど滑稽な物語は落語のそれであり、あえて同じパターンを踏むのも落語を意識してのことだろう。だからいつしか、「虫ですね」との棠庵のセリフを待っている自分に気付かされるのだ。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
江口寿史は漫画よりもイラストの仕事が多くなってから俄然、絵が上手くなった印象を受ける。それは当然だろう。ストーリーではなく、絵だけで表現しないといけないのだから。同じことが上條淳士にも言えるのかもしれない。近年は個展を中心に作品を発表している上條の最近の絵は、間違いなく漫画の絵とは迫力、繊細さ、あるいはオーラのようなものが高まっている。鉛筆画でフィニッシュした画をデジタルで仕上げる手法は、鉛筆が持つ勢いと柔らかさ、しなやかさ、(つづく)
dubonnet
2024/10/02 22:56

「トーイ」とか当時も子供心に「こんな綺麗な線の絵の漫画見たことない…」とか感動してましたが…。最近はもっと繊細さが増しているのですね。

ぐうぐう
2024/10/03 09:02

俺も『TO-Y』は夢中になって読んでました。画のこだわりからか、段々と寡作になっていったのですが、ここ数年、まったく作品を発表していないのでどうしてるのかなと思っていたら、どうやら活動の場を個展に移しているようです。画集でこれだけ魅了されるのだから、個展で生で観られたら、さぞかし凄いんだろうなって思います。

が「ナイス!」と言っています。
ぐうぐう
死したキャラを復活させる方法はいくつか存在する。掟破りに近い「実は死んでいなかった」や、開き直って「幽霊として登場する」、SFを導入して「クローン、もしくはAIとして復活する」等々。しかし、一番無難でしっくりと来るのが「語られなかった空白の期間を振り返る」というものだ。『屍人荘の殺人』で、アレがコレしてソウなった明智恭介の再登場も、そのパターンだ。屍人荘の事件以前の5つのエピソードがここでは語られる。どれもささやかな事件だが(そうならざるを得ない)、今村昌弘は名作ミステリを引用し、(つづく)
ぐうぐう
2024/10/01 21:23

明智というキャラを確立させていくと同時に、ミステリとしての強度にもそれを利用しているのが頼もしい。さらに言えば、ミステリ愛好会の部長である明智のミステリへの偏愛を根拠とする推理作法が現実世界でへし折られそうになる時、「つまりだな、ミステリの名探偵には“物語の全容を知る作者”という無敵の神が味方にいる」だとか、「立てた仮説があり得るかそうでないかは、手元に揃った情報しだいで変わる。そして創作ならぬ現実に生きる我々には、手の中の情報が十分なものか判断できない」といったメタ的言及があり、(つづく)

ぐうぐう
2024/10/01 21:23

それがつまり探偵小説論にも繋がっているのだ。何より、明智恭介の語られざる事件をまた読みたいと思わせる力が、本書にはある。

が「ナイス!」と言っています。

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2008/10/03(5901日経過)
記録初日
2008/10/01(5903日経過)
読んだ本
8224冊(1日平均1.39冊)
読んだページ
1981581ページ(1日平均335ページ)
感想・レビュー
8220件(投稿率100.0%)
本棚
29棚
性別
血液型
O型
現住所
奈良県
自己紹介

本が好きです。
映画やお芝居、寄席にも足を運びます。
本は漫画をベースに、小説、評論、ノンフィクション、エッセイなど、節操なく渡り歩く日々。
読書は基本、近所のスタバでラテを飲みながら。

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