「死なれた」から「死なせた」という自身への憤りへと変化していく。大槻節子のことを書くのに五〇年を有した事実が、著者の悔いの、憤りの重さを物語る。「生者は死者に託された言葉によって生かされている。「死なせた」という自覚は、死者との思い出の中にある死者から託された言葉に促されて、自分が生かされていることを意識することだ」また著者は旧約聖書「伝道の書」の「かつてあったことは、またあろう/かつてなされたことは、またなされよう/天が下に、およそ新しいことはない」という言葉を引用し、(つづく)
「私たちが一九七二年に遭遇したことは、およそ新しいことではなく、かつてなされたことであり、またなされようとすることなのだ。だからこそ次の世代に語り伝えていかなければならない」という苦く重い自戒の言葉によって、締め括られる。
ショットから、からだから、演技と演出から、映画を解読する濱口の手法は、観たはずの映画に新たな発見と感動をもたらせる。『牯嶺街少年殺人事件』の暗さと遠さ、『非情城市』の複数性、『東京物語』の同期・連動・反復等々。濱口のこの執拗な注意力による発見は、情報過多による散漫な現代社会へのまさしくアンチテーゼであるが、その注意力がフレーム外へ、あるいは偶然がもたらす想像へと導かれていく時、そこに映画の可能性が見えてくる。黒沢清は「映画はドラマを語るということに最も向かないメディアだ」と言う。(つづく)
「映画はそもそも破綻したメディアだ」とさえ言う。しかし、そんな黒沢は現在も映画を撮り続けている。濱口もまたそうだ。カメラが機械だからこそ、映画が他なるものであるからこそ、そこに未来を見ているからだ。
そして何より、本作を味わい深い物語にしているのは、宿敵ウォッチメイカーの人間味を描いていることで、つまりどんでん返し以外の読みどころをきちんと用意している。その周到さこそが、今シリーズがここまで長く続いている理由でもあるのだろう。
宮部みゆきが『鵼の碑』を「京極版アべンジャーズ」と称したことは記憶に新しいが、この先、リンクが増えれば増えるほど、宇宙は拡大し、緻密になっていくはずだ。つくづく京極夏彦とは自らを縛ることが好きな作家なのだなと実感させられるが、それを美学にまで昇華してしまえる才能には、ほとほと感心してしまう。
過去の事件を作中作として書くことで三重の構造となっていて、ミステリ小説批評の視点がこれまで以上に強くなっているのも印象的だ(例の如く、ある名作ミステリのイメージをそこかしこに散りばめながら、それを終盤でひっくり返す手腕は見事と言うほかない)。さらに、横溝正史や島田荘司の作品への言及があったり、日本のミステリファンを喜ばせる余裕もあり、抜かりない。
それがギャグのためであれ、そこに息衝いていることが素晴らしい。そして仮定法が日常としてある漫画が、ひょっとしたら、見ようによっては、現実世界にだって起こり得るかも、という仮定法を抑えられない力があることこそが、何より素敵だ。
中でも、特殊メイクアップアーティストの江川悦子がメイク技術の映画への貢献として「私が長年かけて試みているのは、メイク時間をいかに短くするかなんですよね」という言葉が印象的だった。
大江の文学の素晴らしさは、それが時代を限定して描きながらも同時代性を獲得している点だ。ゆえに60年以上前に書かれた初期作品群は、まるで古びず、瑞々しい小説として私達の前にいつも現れるのだ。とはいえ、発表当時にリアルタイムで大江のこれら小説を読んだ学生達は、その影響力から逃れることなど不可避だったろう。
楽観すら感じさせる(それもまた、探偵小説の未来を信じていたからこそだ)。対談で目を引くのが、幸田文や小林秀雄、佐藤春夫といったミステリ界以外の分野の作家・評論家と、実に楽しげにミステリ論を交わしている点だ(幸田文との対談では、文の父・露伴が探偵小説好きであったという話で大いに盛り上がる)。中でも、稲垣足穂との対談がインパクト大だ。なにせ、古今東西の同性愛を扱った作品について語るのだから。稲垣をして「江戸川さんは新プラトニズムとグノーシス派の匂いがする。(つづく)
石ノ森は、連載後にパズルのように組み替え、最終的に単行本でまとめ上げることを想定していたと告白している)。その後、完結編をまずは小説で書き上げることにしたのも、観念的で抽象的だと読者に捉えられたことをきちんと受け止め、論理的に進行させるための手段だったのではないか(本書には、「神々との闘い編」中断から約2年後にファンクラブ機関誌に発表された小説版の「神々との闘い編」の一部が収録されている)。(つづく)
刑務所から出所した元夫の登場により、物語は予想だにしない展開を見せる。なんなんだ、これは?と思いながらも闇に引き摺り込まれ、答えのないままページを閉じたあと、私達は終わったはずの物語に佇むしか術をなくしてしまう。だが、そこにこそマッカラーズの意図があるのだ。佇むことで私達は、三人のことを今一度考えざるを得なくなる。感じざるを得なくなる。単に愛と、単に憎しみと、単に孤独と、単に繋がりと呼ぶにはためらいのある、複雑で、でもシンプルな魂の姿が少しずつ見えてくる。(つづく)
人の話に耳を傾け、何気ない光景に目をやりながら、点と点を結んでいく。いや、それこそが探偵の所業ではないか。長屋を舞台に、軽快かつテンポのいい会話で進んでいく、謎めいた、けれど滑稽な物語は落語のそれであり、あえて同じパターンを踏むのも落語を意識してのことだろう。だからいつしか、「虫ですね」との棠庵のセリフを待っている自分に気付かされるのだ。
俺も『TO-Y』は夢中になって読んでました。画のこだわりからか、段々と寡作になっていったのですが、ここ数年、まったく作品を発表していないのでどうしてるのかなと思っていたら、どうやら活動の場を個展に移しているようです。画集でこれだけ魅了されるのだから、個展で生で観られたら、さぞかし凄いんだろうなって思います。
明智というキャラを確立させていくと同時に、ミステリとしての強度にもそれを利用しているのが頼もしい。さらに言えば、ミステリ愛好会の部長である明智のミステリへの偏愛を根拠とする推理作法が現実世界でへし折られそうになる時、「つまりだな、ミステリの名探偵には“物語の全容を知る作者”という無敵の神が味方にいる」だとか、「立てた仮説があり得るかそうでないかは、手元に揃った情報しだいで変わる。そして創作ならぬ現実に生きる我々には、手の中の情報が十分なものか判断できない」といったメタ的言及があり、(つづく)
本が好きです。
映画やお芝居、寄席にも足を運びます。
本は漫画をベースに、小説、評論、ノンフィクション、エッセイなど、節操なく渡り歩く日々。
読書は基本、近所のスタバでラテを飲みながら。
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