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2024年10月の読書メーターまとめ

ゆとにー
読んだ本
16
読んだページ
3680ページ
感想・レビュー
13
ナイス
310ナイス

2024年10月に読んだ本
16

2024年10月のお気に入り登録
1

  • 磯良

2024年10月のお気に入られ登録
1

  • 内藤銀ねず

2024年10月にナイスが最も多かった感想・レビュー

ゆとにー
自分にもかつて娘であった時があったとしても、それはもはや過ぎ去ってしまった。共通項を持つとしても、だからと言って同じではなく、また世代も異なる他者になんと呼びかければよいのか。多くは起こらないが静かな動揺はある。託したい言葉は追憶のうちから身体に満ちてくる。
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2024年10月にナイスが最も多かったつぶやき

ゆとにー

Amazonで本買ったら追加で3割払ったらkindle版買えるサービスとかないのかな

ちち123
2024/10/02 22:59

アマゾンも今必死ですよね〜みんなアマゾン商法に飽きてきてますからね

ゆとにー
2024/10/03 13:14

kindle unlimitedとかもあるのですが、単品で欲しいものを落とせるようにしたいですね。お風呂とかで読むと進みがよくなったりするので。

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2024年10月の感想・レビュー一覧
13

ゆとにー
2010年代~2020年のコロナが流行した時期までのベテルモンドに収められた対談録や旅行記。事実として我々は一日一日死につつあるのだが、弱さに直面しないと意識されづらい。べてる関係の本を読むと人生のよい降り方もあるよと思い出させられる。
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ゆとにー
全集の監修や新訳を担当する研究者によるバルトの伝記。柔らかい語り口で主要著作について抑えている。バルトが好きでエクリチュールの問題にも自覚的な方の文章に思えた。絶版中の著作の文脈も示しており、隙間を埋めてもらえてありがたい。作者の回帰についてとか。それにしても邦訳文献の大部分をみすず書房が押さえていて、かつ売れ線以外大体絶版で、定価で既に高いのに中古で値上がりしてる状況どうにかなりませんかね。
ゆとにー
2024/10/23 04:11

『サド、フーリエ、ロヨラ』とか『テクストの出口』『批評をめぐる試み』とか読みたくても簡単に手に入らない。Kindleでスイユ社が原著出してるの買えば安上がり?フラ語が読めれば苦労しないよ。

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ゆとにー
設計した技術者のエッフェル本人は科学的実用性を謳うが、エッフェル塔にはその実、根本的には意味がない。空虚な記念碑である。外からは、すなわちパリの市中からは見られる事物であり、内からは塔に登ればパリを見渡させ、パノラマとして読み解かせる視線となるそれは、見る・見られるの両性を併せ持つ意味化作用の場となる。シニフィアンだけの存在として扱われ、あらゆる夢や死まで固定化されない多様なシニフィエが呼び込まれる。人が見る限りは読み取る行為も続くのだろう。近年の某アニメ映画では武器としても役に立ったりしている。
ゆとにー
2024/10/21 21:31

小品単発で本を構成しようとした結果、過剰な図版が本文左側を埋め、残る100ページあまりを基本線を抑えるが冗長な解説論文がひとつ、感想文まがいのものがひとつ、と紙幅を埋めているだけ感が強い。

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ゆとにー
生産者である作家から文学の発生を考察してもエクリチュールの惰性化は止められず、言説の本態を見極める脱神話化も神話化による意味の歪曲や通説化に飲み込まれる。優れた着想から分析方法を提示し新たな視界を垣間見せはするが、方法である事自体から限界がすぐに帰結してくる。袋小路の突破の試みは、方法そのものになる実践なのだろう。作者の言説を遡れば誰の言葉か不明な非人称的な領域がある。神話化に神話化を重ねたメタ言説ももう誰のものか分からないだろう。そこでは作者はもう無効なのだとするなら、読み手しかいないことになる。
ゆとにー
2024/10/22 00:13

理念的にしか表示しえないのが難点なテクスト理論だが、発想の転換はこの作者の向こうと読み手が接合する点にある。読み取りを幾重にも多層化していく営みは、『表徴の帝国』や『エッフェル塔』で扱われる空虚なシニフィアンに重なるのだろう。物語の構造分析を経て、『テクストの快楽』へと続く「作者の死」や「テクスト理論」の提示が行われる論文集。表題にもなる論文はどうせ捨て去るのでさておき、問題意識の遷移や転換の背景が知りたかった者としては「作者の死」「作品からテクストへ」などがあり関連著作の中でも読んで良かった本のひとつ。

ゆとにー
2024/10/22 00:29

作者が死んだというのもすっかり定説化して独り歩きもしているように感じ、とにかく死ねばよいのかと思えるし、教科書的な書き方ではよくわからないので、実際のところ多少当たれてまあまあ納得。テクスト理論は物語論に影響があるとのことなので、そのあたりから言説の波及先を追いたい。あと他の著書も。みすずは高い本絶版で止めるのやめてKindleででも売ってくれ(欲を言えばついでに安くしてくれ)。それにしても神話作用もそうだけど、バルトは個物の分析をしている方が生き生きしている感じがある。だから方法に憧れるのだろうか。

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ゆとにー
自分にもかつて娘であった時があったとしても、それはもはや過ぎ去ってしまった。共通項を持つとしても、だからと言って同じではなく、また世代も異なる他者になんと呼びかければよいのか。多くは起こらないが静かな動揺はある。託したい言葉は追憶のうちから身体に満ちてくる。
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ゆとにー
一時輝きを放ってはまた全体に飲み込まれる太陽のプロミネンスのように、手垢の付いた言語をもって自らの文学となし世界に対峙するとしても、引き継いできた言語に潜む他者性にいずれ覆われるのがエクリチュールの宿命。ブルジョワイデオロギーの絶対性が揺らいで以降分析可能となった概念で、解説によればサルトルのアンガージュマンの文学を補完し更に推進するそうだが、その先もまた袋小路であることを確認した。正直訳は意味が通らないのではと思う箇所多々あり、拾い読みになる。みすず書房の『零度のエクリチュール』の方が読みやすかった。
ゆとにー
2024/10/14 04:21

「エクリチュールと沈黙」あたりから突然読みやすくなったけど、この訳で読むならもう少しお金出してみすず版を買った方が良いのでは…。みすず版を通読した上で学生時代に買って挫折した心残りから本書に戻ってみたけどやはり意味が通らない。ブランショの小論と解説は理解の助けにはなった。

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ゆとにー
言説の歪曲の暴露と記号学的分析。ソシュール記号学の道具立てに古典的記号観を当てはめる(ムーナンらの批判もこれか)ためにシニフィエやシニフィアンの分離が起きて階層的な意味化作用の図ができるようで、それはメタ言語ではなくメタメタ言語ではと思う一方、メタ記号において意味が動態的に生じる様を示したのは功績か。しかし、言語が言説を構成する以上神話化は免れ得ず、常に意味と形式のいずれかにアリバイとして逃げ道を残し、解釈を歪曲させるブルジョワイデオロギーに回収される袋小路が待ち構える。脱神話化言説ですらも例外ではない。
ゆとにー
2024/10/21 22:20

・言語の零度として詩のエクリチュールがデビュー作から再登場してくるが、いずれ「詩らしさ」の象徴によって塗り込められるのでは。神話化をさらに神話化しても、その応酬が続くだけ。ただこの原点と無限点への延長はテクスト理論を呼び込む契機である気もする。 ・バルトは方法論へのフェチというか憧れが強いですね。 ・暴露や看破もバズと同じく、賞味期限付きであるからして先行きの見えた話で、同時代での受け止め方を見ないとそのインパクトが読み取れない。

ゆとにー
2024/10/21 22:21

・これも現代思潮新社訳なのか。読みにくいのは時代のせいか訳者のせいか。みすずの『現代社会の神話』が手に入るならこちらで読みたい。セミオロジーが意味論やシーニュが意味表象は今ではよくわからない。

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ゆとにー
「~した」「~だった」と淡々と語られていく想起や回想の物語。思い出す今と、カットアップされた十代の記憶の、複数の時間軸が境を接している。手法は『あらゆることは今起こる』を読むと単に恣意的なだけでなく、著者の時間感覚が現れているものらしい。 呼び出されるのは90年代の大阪の錆びついた工業地帯の、淀んだ川の船溜まりや沈んだ自転車に浮く気泡であったり、受け流そうとしても記憶に留まり続ける学校での暴力の記憶やその後味である。薄汚れた街景には疎外感があるが、団地や空き地で爆竹を鳴らし反響を楽しむ自由も感じてはいた。
ゆとにー
2024/10/10 22:22

しかし、変だ。会話文を除けば地の文は執拗に過去形を重ねるが、コテコテの大阪弁を話すマドンナなど往年の映画・音楽のスターも同じ調子の過去形で登場している。一方、過去形からたまに外れる瞬間がある。一瞬の描写なのだが、こちらの方が今にも届いて鮮烈に残る記憶なのではないか。倫理の問題文も、善く生きるとは、どういうことですか?と文体からはみ出て地の文で問う。目に涙が浮かぶのはその時である。では過去形の記述は何なのか。思い出すことで生成される記憶だろうか。言語によってこうであったと彫琢され、並列化された記憶なのか。

ゆとにー
2024/10/10 22:57

結局は分からないがしかし、並列化といえば「十歳だったから、小学校へ行った。」と普通は書かない。こう書かれると接続助詞は論理的に帰結を読み出してくると同時に想起ともなり、また小学校へ行くことは単に無理やり繋げられた約束事でしかなくなり、事物に拘らない距離感が出てくる。順接がすべてこの感覚で書かれた文章だと見ると、世界経験にある種の浮遊感が立ち上がってくる。そこからなら自分だけ周りに取り残されている気がするのも頷けるし、「十一歳だったわたしは十七歳だった」ような同時並列的な事態も飲み込めそうではある。

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ゆとにー
エクリチュール概念はこのデビュー作以降もずっと変遷を続けるからよく分からないのかと思ったが、ここではサルトルの社会参加を色濃く反映したものということで一旦納得した。社会・歴史に対して作家がどのように書くか、書くときに選び取るその形式のことであると認識した。文体とは似て非なる概念として挙げられており、文体は個人性の発露だとしているが、実はバルト自身も当時は両者を整理しきっているわけではないことが、付属の新聞発表の論文との比較で分かる。
ゆとにー
2024/10/07 23:52

政治的エクリチュールは常に悪は悪であるという同語反復的な警察的イデオロギーにならざるをえず、小説のエクリチュールは虚構性を明示することで真実らしさを獲得するという両義性を持つが、ブルジョワジーはそれを普遍的なものとみなし神話化してしまう、など分析が面白い。後者は『現代社会の神話』につながる部分か。マラルメ的な語の絶対性が支配する詩のエクリチュールや、カミュの中性的なエクリチュールに零度のエクリチュールを見出す。 「詩のエクリチュール」の章では零度のエクリチュールの一つの姿を、

ゆとにー
2024/10/07 23:52

古典的記号観をサルトル的な投企概念によって乗り越えた先にあるものとして描いていた。でもそれはモダニズムの陥った隘路と同じ道行きだったのかもしれない。詩のエクリチュールであれ中性的なエクリチュールであれ、文学は持続を持つものでもあるがゆえに、いずれも歴史化されることで初期の輝きが漸減してしまうならば、作家は常に態度更新を迫るものとなってしまう。その先の言語のユートピアを目指してもそれは字義通りたどり着けない場所だろう。ソシュール記号学の吸収や受け手側が見直されるテクスト論もここへの反省から来たりするのか。

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ゆとにー
下巻で触れる14世紀以降では、表現が激情的になっていく。中世では死は復活を待つ平静なものとして表現されていたが、その末期にはペストを経て骸骨やミイラ化した屍体などの直接的なイメージが「死の舞踏」などで描かれるようになった。またルネサンス以降は宗教改革へのカウンターとして、聖母信仰や殉教聖人が図像化された。殉教や法悦の場面なども教会分離による信仰の危機に応じて取り入れられた。フランス人としての自国よいしょが散見されたり、中世志向の強さがあるなど偏りはあるが、それでも一読する価値はあるなと。
ゆとにー
2024/10/07 23:02

「最後の審判」の木版画が当時の聖史劇の場面をそのまま取り入れているなどの指摘は面白かった。またその時々に影響を与えた発想源の多様さと変遷がわかりキリスト教美術理解の助けになった。一方読みにくさは色々気になったかも。例えば修辞が単調すぎる点。「〇〇ほど□□でないものはない」構文が多すぎて笑ってしまった。また別のものとして実証性を強く意識した書き方ではない点があるが、これは時代的な制約なのだろう。あとは抄出して再構成された文章である点。それでも知らないところにぼーっとしながらでも連れて行ってもらえるのは助かる

が「ナイス!」と言っています。
ゆとにー
上下巻でぼちぼちの分量だが、実は著者本人が1898-1932の間に書いた四部作を再構成したもの。上巻は12・13世紀の中世美術をまとめる。20世紀の美術史学の大家だが、現在の研究状況を知らないのでどこまで鵜呑みにしてよいものか、と身構えるが読んでみればやはり楽しい。12世紀が主題を用意し、13世紀がそれを発展させる。ティンパヌムの彫刻の「栄光のキリスト」像に影響を与えた「黙示録」はベアトゥスの写本である。サン・ドゥニのスゲリウスが「イェッセの樹」のステンドグラス図像を考案し、シャルトル大聖堂にも影響する。
ゆとにー
2024/10/07 22:32

などなどトピックが盛り沢山で面白い。元の本は国書刊行会で出ているらしいがなかなか手が出ない。

が「ナイス!」と言っています。
ゆとにー
タブッキみたいなドライさと甘さが同居する幻想的な詩かと思ってたけど蓋を開けてみれば、語が強く立つ、イメージとリズムのぶつかり合う世界だった。読んだことないけどマラルメ的なのか。ならそれこそバルトが「詩のエクリチュール」として、サルトルを踏まえながら書く「垂直な投企」では。語の絶対性による関係の切断、休止は語を言語の自生地に向かわせる。私は振動の間の休止的なことはパスも書いたと思うが、ここで重なるのか。詩作の上で引き継ぐ言語、そのうちに見つかる他者や歴史に向き合った結果エクリチュールとして選び取られた、と。
ゆとにー
2024/10/07 20:55

でもじゃあオクタビオ・パスらしさってなんだ。地域性とかコスモポリタン的なとか?駆け足で通読しただけでは何とも言いようがないか。

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ゆとにー
ADHDの診断を得た当事者視点での世界体験記。ADHD由来と思われる困りごとの出方は千差万別で、症状自体(あるとすれば)の度合いや個人の生活史によって異なる。ひとつのラベルのもとに情報を縮減してはならない。著者は作家だからということもあってか、「発達障害」について自分が書くことで、代表性を獲得してしまったり、一面的な理解を助長するを危惧し、常に自説を相対化しつつ慎重に書く。コラム的な文章を積み重ねるためか、複数の時間が境なく隣り合わせになる時間経験をするという話が、深堀りしたいと思う間に終わってしまった。
ゆとにー
2024/10/07 19:36

・この方も部屋を片付けられないタイプで片付いている度合いの認識が周りとだいぶ異なるそうだが、実は家は片付けなくても汚くても大丈夫なのですよ、という片付け論があれば聞きたい。現代の部屋は家事をする前提でデザインされていると思うけど、片付けして当たり前な人々に強固に根付く衛生観念を揺るがすような話、どこかに落ちてないかな。あるいは片付けられない人との共生方法とか。

ゆとにー
2024/10/07 21:27

ほか印象的だった点。他の人が物事をどのように経験するか知りたいというのが原動力にあるとのことで、それは他の人とどうやら違うようだと気づいていたからなのだろう。読みたい文脈が揃ってくると忘れがちになるけど大事だなと思うとともに、それってひとつの倫理的な姿勢であるなと感じ、やはり今ケアをひらくシリーズ読んでると再実感。あと言葉の簒奪が起こりやすいことについても触れていてよかった、オープンダイアローグとか当事者研究も簡単に問題解決できるお手軽新自由主義メソッドにすり替えられていくのだろうな。

が「ナイス!」と言っています。

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2010/09/07(5217日経過)
記録初日
2010/09/07(5217日経過)
読んだ本
696冊(1日平均0.13冊)
読んだページ
175270ページ(1日平均33ページ)
感想・レビュー
270件(投稿率38.8%)
本棚
7棚
性別
自己紹介

体力がないので、何がしたいのか分からない。

ーー
大学を出て、ようやく気になるテーマができはじめた。あと5年早くやるべきだった。
読みたい分野:
当事者研究/障害学・ケア・精神医療/美術史・美学/哲学/文学

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