Amazonで本買ったら追加で3割払ったらkindle版買えるサービスとかないのかな
『サド、フーリエ、ロヨラ』とか『テクストの出口』『批評をめぐる試み』とか読みたくても簡単に手に入らない。Kindleでスイユ社が原著出してるの買えば安上がり?フラ語が読めれば苦労しないよ。
小品単発で本を構成しようとした結果、過剰な図版が本文左側を埋め、残る100ページあまりを基本線を抑えるが冗長な解説論文がひとつ、感想文まがいのものがひとつ、と紙幅を埋めているだけ感が強い。
理念的にしか表示しえないのが難点なテクスト理論だが、発想の転換はこの作者の向こうと読み手が接合する点にある。読み取りを幾重にも多層化していく営みは、『表徴の帝国』や『エッフェル塔』で扱われる空虚なシニフィアンに重なるのだろう。物語の構造分析を経て、『テクストの快楽』へと続く「作者の死」や「テクスト理論」の提示が行われる論文集。表題にもなる論文はどうせ捨て去るのでさておき、問題意識の遷移や転換の背景が知りたかった者としては「作者の死」「作品からテクストへ」などがあり関連著作の中でも読んで良かった本のひとつ。
作者が死んだというのもすっかり定説化して独り歩きもしているように感じ、とにかく死ねばよいのかと思えるし、教科書的な書き方ではよくわからないので、実際のところ多少当たれてまあまあ納得。テクスト理論は物語論に影響があるとのことなので、そのあたりから言説の波及先を追いたい。あと他の著書も。みすずは高い本絶版で止めるのやめてKindleででも売ってくれ(欲を言えばついでに安くしてくれ)。それにしても神話作用もそうだけど、バルトは個物の分析をしている方が生き生きしている感じがある。だから方法に憧れるのだろうか。
「エクリチュールと沈黙」あたりから突然読みやすくなったけど、この訳で読むならもう少しお金出してみすず版を買った方が良いのでは…。みすず版を通読した上で学生時代に買って挫折した心残りから本書に戻ってみたけどやはり意味が通らない。ブランショの小論と解説は理解の助けにはなった。
・言語の零度として詩のエクリチュールがデビュー作から再登場してくるが、いずれ「詩らしさ」の象徴によって塗り込められるのでは。神話化をさらに神話化しても、その応酬が続くだけ。ただこの原点と無限点への延長はテクスト理論を呼び込む契機である気もする。 ・バルトは方法論へのフェチというか憧れが強いですね。 ・暴露や看破もバズと同じく、賞味期限付きであるからして先行きの見えた話で、同時代での受け止め方を見ないとそのインパクトが読み取れない。
・これも現代思潮新社訳なのか。読みにくいのは時代のせいか訳者のせいか。みすずの『現代社会の神話』が手に入るならこちらで読みたい。セミオロジーが意味論やシーニュが意味表象は今ではよくわからない。
しかし、変だ。会話文を除けば地の文は執拗に過去形を重ねるが、コテコテの大阪弁を話すマドンナなど往年の映画・音楽のスターも同じ調子の過去形で登場している。一方、過去形からたまに外れる瞬間がある。一瞬の描写なのだが、こちらの方が今にも届いて鮮烈に残る記憶なのではないか。倫理の問題文も、善く生きるとは、どういうことですか?と文体からはみ出て地の文で問う。目に涙が浮かぶのはその時である。では過去形の記述は何なのか。思い出すことで生成される記憶だろうか。言語によってこうであったと彫琢され、並列化された記憶なのか。
結局は分からないがしかし、並列化といえば「十歳だったから、小学校へ行った。」と普通は書かない。こう書かれると接続助詞は論理的に帰結を読み出してくると同時に想起ともなり、また小学校へ行くことは単に無理やり繋げられた約束事でしかなくなり、事物に拘らない距離感が出てくる。順接がすべてこの感覚で書かれた文章だと見ると、世界経験にある種の浮遊感が立ち上がってくる。そこからなら自分だけ周りに取り残されている気がするのも頷けるし、「十一歳だったわたしは十七歳だった」ような同時並列的な事態も飲み込めそうではある。
政治的エクリチュールは常に悪は悪であるという同語反復的な警察的イデオロギーにならざるをえず、小説のエクリチュールは虚構性を明示することで真実らしさを獲得するという両義性を持つが、ブルジョワジーはそれを普遍的なものとみなし神話化してしまう、など分析が面白い。後者は『現代社会の神話』につながる部分か。マラルメ的な語の絶対性が支配する詩のエクリチュールや、カミュの中性的なエクリチュールに零度のエクリチュールを見出す。 「詩のエクリチュール」の章では零度のエクリチュールの一つの姿を、
古典的記号観をサルトル的な投企概念によって乗り越えた先にあるものとして描いていた。でもそれはモダニズムの陥った隘路と同じ道行きだったのかもしれない。詩のエクリチュールであれ中性的なエクリチュールであれ、文学は持続を持つものでもあるがゆえに、いずれも歴史化されることで初期の輝きが漸減してしまうならば、作家は常に態度更新を迫るものとなってしまう。その先の言語のユートピアを目指してもそれは字義通りたどり着けない場所だろう。ソシュール記号学の吸収や受け手側が見直されるテクスト論もここへの反省から来たりするのか。
「最後の審判」の木版画が当時の聖史劇の場面をそのまま取り入れているなどの指摘は面白かった。またその時々に影響を与えた発想源の多様さと変遷がわかりキリスト教美術理解の助けになった。一方読みにくさは色々気になったかも。例えば修辞が単調すぎる点。「〇〇ほど□□でないものはない」構文が多すぎて笑ってしまった。また別のものとして実証性を強く意識した書き方ではない点があるが、これは時代的な制約なのだろう。あとは抄出して再構成された文章である点。それでも知らないところにぼーっとしながらでも連れて行ってもらえるのは助かる
・この方も部屋を片付けられないタイプで片付いている度合いの認識が周りとだいぶ異なるそうだが、実は家は片付けなくても汚くても大丈夫なのですよ、という片付け論があれば聞きたい。現代の部屋は家事をする前提でデザインされていると思うけど、片付けして当たり前な人々に強固に根付く衛生観念を揺るがすような話、どこかに落ちてないかな。あるいは片付けられない人との共生方法とか。
ほか印象的だった点。他の人が物事をどのように経験するか知りたいというのが原動力にあるとのことで、それは他の人とどうやら違うようだと気づいていたからなのだろう。読みたい文脈が揃ってくると忘れがちになるけど大事だなと思うとともに、それってひとつの倫理的な姿勢であるなと感じ、やはり今ケアをひらくシリーズ読んでると再実感。あと言葉の簒奪が起こりやすいことについても触れていてよかった、オープンダイアローグとか当事者研究も簡単に問題解決できるお手軽新自由主義メソッドにすり替えられていくのだろうな。
体力がないので、何がしたいのか分からない。
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大学を出て、ようやく気になるテーマができはじめた。あと5年早くやるべきだった。
読みたい分野:
当事者研究/障害学・ケア・精神医療/美術史・美学/哲学/文学
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