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近代西洋音楽ではオクターヴを6全音と2半音に分割した。これでも不完全なんだが複数の音のあいだの調和を容易にするだけの合理性を備えてた。どうしてそれができたかというと、一つのは合理的記譜法の発明(ちょうど資本主義経済と近代的簿記法の関係に相当する)と楽器の発達が挙げられてるけど、根本的には「歌手」のメロディ中心の間隔的原理に対して、多数の声を組み合わせる「作曲家」のハーモニー原理が勝利したことによる。個別の実践的結果を無視して全体を調和させる視座を頭の中で構想してそれを実現しようとする人たちの勝利。
てれまこしさん、日本でも合理的な音楽、すなわち能楽の謡などは現れているという認識です。能の謡って節といわれる一定のメロディがあるんですが、個々で声の質が異なる(殊に、近年は女性能楽師の進出により、多様化が進んでいる)ため、自ずとハーモニーにならざるをえないという計算があるわけです。
今日、プーチンがDSを国民的英雄として持ち上げるだけの素地があるわけなんだが、その陰謀論めいた政治評論の根底には、大地主化して大地や民衆から自らを切り離して、農民の肩におぶさりながら「ヨーロッパになり切れないロシアは終わってる」などと愚痴ることしかしらない知識人階級への反発がある。近代化に耐えうるくらいの民衆の主体性を見るところは柳田国男なんかに近い立場。しかし、民俗学的なものへの関心は高いけど、それが柳田のような人類学・人間学的広がりをもたない。贖罪のため放浪する漂泊者をロシア固有の現象と思ってる。
著者はポーランド出身のラビ(トーラー学者)であるが、小説家でもあり画家でもある。おそらく、主人公のように二つの伝統に挟まれつつも、どちらかも切り捨てなかった。主人公もまたユダヤ教徒であることを捨てない。世界の苦しみや悲しみを色や形を用いて表現することもまた真理の追求である。その才能もまた神が授けてくれたものである。そう信じたい。
著者は政治的代表の枠を越えて日常で用いられるrepresenation の意味の解析に広げて多義的だけど無限定ではない意味を画定する。「代表とは代表されるものとは独立にそれに代って行為するもの」と「代表とは代表されるものの言いなりになるだけの代理人」という二つの極が考えるられるけど、ぼくらが通常「代表」というときには、代表するものと代表されるもののあいだのズレが前提とされてる。政治家が有権者を「代表する」のは、有権者たちをそのままそっくり再現するのでないし、かといってその意向を全く無視するわけでもない。
日本語だと同じ語根をもっていても文脈によって「代表」「表現」「模範的」「典型的」とか訳し分けられてしまうから、かえって統一性が見えにくい。re-presentとは文字通りには「再現」という意だけど、「今ここににないものを、今ここにあらしめる」という意で用いられるようになったらしい。「ないもの」を「あるもの」にするから代表という行為には主体性が含意される。なぜこんな語が必要とされたか理解に苦しむけど、推論するに勇気とか知恵みたいなイデーがあって、それが誰かの表情なんかに現れるのを指したんじゃないかと思う。
だが、それは近代的な精神をもつ柔軟な進歩派であるからじゃない。外国から何度も侵略され支配層が変わったシチリアは、経済社会のレベルにおいては太古から何も変わってないし、これからも変わらない。自分たち一族の地位はそうしたシチリア的宇宙の秩序の一部。そう信じてる。だから革命とも新興階級とも鷹揚に妥協しえた。こういうプロテスタンティズムなんかとは正反対の世界観をもった人々がいたんだな。南伊は特に経済格差が大きいところだが、どうやらこうした不平等がクローチェのような自律的な知性を育てたんだ。
そうした貴族階級の末裔の一人である無名の作家が書いた懐旧的で反動的とも言えそうな小説が、彼の死後に出版され、戦後のイタリアで人気を博し、ヴィスコンティによって映画化された(ヴィスコンティ自身が貴族出身だ)。1980年代にはイタリアの一番好きな小説の第一の座も獲得してる。不思議な現象だが、民主化というのはイタリアでもちょっと胡散臭いもの、多分貴族に代わって俗物が支配するようになっただけという感覚が民衆のあいだにもあった。加えて中産階級も成熟すると、その娘息子たちの間に貴族趣味に惹かれる者が出てくる。
この時期は手紙も挨拶や事務的なものが多くなって、あまり長い手紙を書かなくなってる。自分の作品を他人にわかってもらうために言葉を尽くそうとしない。小説は半分は仕事、もう半分は自分の修業のために書いてる。漱石の「自己本位」はまずは文壇の評判とか読者の興味に左右されないということ。弟子たちとのやりとりも突き離すような発言が多くなってる。最晩年には久米正雄や芥川のようなまだ文壇ズレしてない若手文士に親切な助言をしてるが、それ以上に漱石にとって意味があったのは神戸の祥福寺というところ若い禅僧の二人との文通。
人格とは神性と人間性という二つの本性を束ねる単一で統一された個的実体。実体とは他に依存せずに自身において存在する単一かつ統一された存在だから、どうやらこれが近代個人主義の「個人」へとつながっていく。人格概念の歴史も、広い意味でギリシャ・ローマの伝統とキリスト教の伝統の混淆の一事例で、一つの領域における語彙の意味の転移が他の領域まで波及していったものらしい。西欧言語でもかなり多義的な語なんだが、日本語体系(少なくとも日常離される日本語)においては意味確定が未完成だ。だから慣用句以上には使いこなせない。
神学上の人格論は自分にはチンプンカンプンなんだが、これを理解しないと近代の個人主義も理解できないし、「自我」とか「教養」なんていう言葉も理解できないのかもしれない。著者はカントの人格主義から出発した人で、どうもぼくらの(人格主義的)人格観の直接のご先祖はカントやヘーゲルあたりみたいだな。自分にとってはあんまり難しいからうんざりさせられる分野なんだが、まずそこから勉強し直さんといかんらしい。
混沌、無秩序の自然に人間の精神を刻印しその内容を実現したのが文明。これをするのが理性だが、理性を受け入れる者はごく少数の選ばれた者だけ。あとは救いようがないし、救えなくても救えない。勤勉、節約、慎慮といったプロテスタント的禁欲派、ニーチェ的な生命主義で緩和されて、生の喜びも肯定されてる。だけども、彼らの恋愛は妙に潔癖。チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』みたいに、自分の愛する女でも嫉妬なしに他人に譲る。同じだけの価値をもつ者同士がそれを交換するの愛で、これがつり合わないとどちらかが依存する関係になる
ちなみに全体主義の衝撃から生まれたディストピア小説であるが、他のディストピアものとちがって、山上のユートピアも準備されてる。だけどもこのユートピアはそんなに遠い理想ではない、かなり世俗的なもの。国家がな市場だけの社会で、金本位制を採用していて、「$」が国章。要するにニューディール前のアメリカ。清教徒の末裔(と移民。著者自身も移民)の多くにとっても、全体主義に包まれていく世界において、アメリカは世界で唯一まだ完全に堕落してない特別な丘の上の御国だった。
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近代西洋音楽ではオクターヴを6全音と2半音に分割した。これでも不完全なんだが複数の音のあいだの調和を容易にするだけの合理性を備えてた。どうしてそれができたかというと、一つのは合理的記譜法の発明(ちょうど資本主義経済と近代的簿記法の関係に相当する)と楽器の発達が挙げられてるけど、根本的には「歌手」のメロディ中心の間隔的原理に対して、多数の声を組み合わせる「作曲家」のハーモニー原理が勝利したことによる。個別の実践的結果を無視して全体を調和させる視座を頭の中で構想してそれを実現しようとする人たちの勝利。
てれまこしさん、日本でも合理的な音楽、すなわち能楽の謡などは現れているという認識です。能の謡って節といわれる一定のメロディがあるんですが、個々で声の質が異なる(殊に、近年は女性能楽師の進出により、多様化が進んでいる)ため、自ずとハーモニーにならざるをえないという計算があるわけです。