ぼくらの頭のなかには「知ってるけどわからない」みたいな領域がある。下手すると「わかってる」よりぜんぜんでかい。だが「知る」から「わかる」に移行するにはいったい何が起こらなければならないのか。自分の体験を反省してみた。 知ったかぶりぼくら/てれまこし https://note.com/telemachus/n/n9af52a808e8e
誰でもやることだから大した罪に思えないんだが、真面目な漱石はそういう自分が赦せなかったらしい。なんとなれば、自分は他人のそういう不誠実さを赦さない。漱石は、他人の事を書くときは気を遣う、だから自分の事を書く方が楽だと書いてる(三十九)。だが、他人に気を遣うことがことが、自分に対しても気を遣うことを赦すことにつながる。他人の事をとやかく言うには(そして、たぶん漱石はこれをやりたい)、まず自分への遠慮を取っ払わないとならない。
著者はディアス体制を守るために殉職した職業軍人の子だが、革命軍側に身を投じてサパタやビジャの片腕になってるから、理想主義的な若者であったらしい。革命後に自ら政治家になって、二度の亡命を余儀なくされてる。農民や労働者のために闘った闘士たちが、権力の座について私財を蓄え、野心のために互いに争う。そうした現実に革命の理想が裏切られるのを目の当たりにしながら、なんとか理想を維持しようという文人政治家アスカナーに、おそらく著者の姿が投影されてる。
日本も平安期に中国型国家を建設しようとしたが失敗した。で、鎌倉以降の封建制になって、武士階級が文化エリートになった。日本の近代化が成功したのも、この武士的合理主義があったがため。そこが中国とちがう。日本は西洋により近い。そう考えられてきたんだけど、話はそう単純じゃなさそうだ。ウェーバーにとっての「中国」とは、罪の意識に苛まれなくなった知識人と彼らに支配される社会がどうなってしまうかという範例でもある。自分を苦しめ苛んできたプロテスタント的デーモンの他者。
西洋の合理的社会は彼のようなデーモンに憑かれた人間によって作られた。そういう人間がいなければ、中国みたいになった。そう言い聞かせることで、自分の苦しみを正当化してる。近代学問もまた合理化の一種であるし、自分たちが罪深い生き物であることを説く説教師の末裔でもあるから、ぼくらにとっての「中国」もまた、ぼくらみたいな人間がいないとこうなりかねないという警告でもある。
常識的でわかりやすいんだけど、研究者や学生でないかぎりは、これを読んでもすぐ忘れてしまいそうな理論。実践的関心が稀薄だから、政治に関する理論だけど、政治的な理論じゃない。より正確には、ポピュリズムを支持するか否かという問いを回避して研究を進めたい学者の実践的関心が反映してる理論。ポピュリズムは本質的に民主的だけど、リベラル・デモクラシーとは相性が悪いというのは、自分の理解に近いんだけど、あんまり深掘りされてない。
漱石にとって恋愛が重要であることは直弟子の小宮豊隆なんかも指摘しているみたいだけど、恋愛自体はむしろ我執の表れとして最終的には乗り越えられる対象とされてる。漱石作品の両性のあいだにおける確執は、現実の夫婦関係が反映されてるということは広く認められてるみたいだけど、その意義についてはあまり突っ込まれてない。プライバシーの問題というのもあるだろうが、基本的には女は厄介なもので適当に「梶をさす」べきものという鷗外的な態度を男性評者たちも共有してるからとも見える。漱石はまさにそういう態度を問題化した。
宮本百合子はそれに近いところまで行ってるんだけど、女を邪にするのは男じゃなくて反封建的な社会のあり方であるという講座派的近代論に寄りかかってしまったがために、漱石が『行人』のあとの作品でなした努力を見れなかった。妻を邪にする夫という自分を自覚した漱石にとって、悪は「社会」とか「文明」のように外から個人を制約するものから、自らの内から他人を制約するものになった。「我執」は社会的なものになった。漱石にとって夫婦関係の緊張こそが、この社会的なものの一次資料となる切実な体験だったと思う。
事実とは過去に起きたこと。だから乗り越えることができないこと。どんな理想も何の力も及ぼせないこと。ジャックの理想主義はこの「事実」にぶつかった。それで、彼は歴史学者になる。そうやって過去の事実だけを掘り起こす。事実は事実で、そしてたいがい事実は醜い。だが、自分の愛する人たちに関する事実もまた掘り起こすべきなのか? それが自分の心の奥底に秘められた理想を打ち砕くとしてもか? ジャックは、過去の歴史を介して、醜い現実とは人間の理想がその弱さによって挫かれたものであることを知る。
ヘーゲル哲学に影響を受けたオックスフォードのベリオール・カレッジに拠ったグリーンは、多くの人に感化を与えて弟子たちの中からのちの社会政策の立役者たちを輩出した。それでグリーンが新リベラリズムの思想的源泉と解された。だが、実際は少数の知識人サークルの中心で、オックスフォードでさえ少数派だったらしい。自分も知らなかったけど、むしろJ・S・ミルと同時代人で、だけど彼ほどの影響力は有さなかった。興味深く思ったのは彼は国教徒広教会派で福音主義が彼の思想の一源泉。ヘーゲル哲学は神学に代わるものとして受容されたらしい。
「人民」は政治に先行しない。政治によって作られる。「ない」ことにされてるのに「ある」もの、ゆえに言い表せないものを指し示す名が空虚なシニフィアン。だが、そうやって閉じられていた社会の門戸が満たされない諸要求に門戸を開かされる。いかなる閉じられた体系も要求をすべて充足しえない。だから政治は「閉じる」ことと「こじ開ける」ことの繰り返し。その力を得るためには個別的な諸要求を束ねるものが必要で、その代理となるものに人々は感情投資を行う。だから概念や論理ではなくて、情念とかレトリックがないと民主的主体が構成されない
マルクス主義の限界を突破するために、ラクラウは言語論、精神分析、グラムシなんかを節合して、見事な理論を構築してる。「行政とは異なる」政治とは何かとか、政治における情念とレトリックの役割とか、秩序と変化の関係など、政治における知識人の役割など、自分が関心を抱いていたようなものが、一つの理論に収まっててびっくりした。しかし、理論は理論。これを現実に適用するとどうなるかちょっと不安。ラクラウの場合はアルゼンチンのキルチネル政権への協力という形をとったけど、どんなポピュリズムだったら支持する価値があるのか。
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常識的でわかりやすいんだけど、研究者や学生でないかぎりは、これを読んでもすぐ忘れてしまいそうな理論。実践的関心が稀薄だから、政治に関する理論だけど、政治的な理論じゃない。より正確には、ポピュリズムを支持するか否かという問いを回避して研究を進めたい学者の実践的関心が反映してる理論。ポピュリズムは本質的に民主的だけど、リベラル・デモクラシーとは相性が悪いというのは、自分の理解に近いんだけど、あんまり深掘りされてない。