
彼自身が西欧近代の洗礼を受けた文人であり分裂した自己を抱えている。「宗教的人間」も彼ならば「非宗教的人間」もまた彼。生涯何度も経験する精神的危機はおそらくこの内部分裂に起因している。であるから、彼の宗教学には、そこでは直接語られない実存的不安がある。歴史性、相対性に汚染された近代社会は彼にとって「混沌(カオス)」である。生きていくために何らかの方向性を与えてくれる「宇宙(コスモス)」を彼は必要としている。それは彼個人の問題ではなく、人間(非宗教的人間も含めて)に固有の問題である。これが語られない中心。
推し活には宗教的要素が色濃く見られる。そんなことを言うとどっちからも嫌われるんだが、宗教に対する偏見を捨てて見ると、推し活の意味というものがより明確に見えてこないだろうかな。 推し活考|てれまこし https://note.com/telemachus/n/n3b925c21b70f
宗教的世界は人間が自ら客体化することにより作り出したもので、またその正当化機能を通じて人間を社会化する強力な手段。しかし、政治経済の近代化によってその信憑構造は不安定となっている。その意味で彼は近代化論者であり、宗教の未来には悲観的である。独占が崩れた宗教市場に適応するか、それとも頑固に自分の世界を守るために社会から孤立を選ぶか、という冷たい選択を迫る。しかし、そこに官僚制化を不可避だとしながらもそれに抵抗する理論を考え続けたヴェーバーに通ずる葛藤があるかもしれない。
後の宗教の世界的な復活を目にした者には、本書で提出されたようなバーガーの理論は、宗教の力を軽視する近代化論的な偏見から免れていなかったように見える。しかし、彼自身は近年の宗教の復讐みたいな現象も彼の理論で包摂できると考えたのではないかと思える。宗教原理主義と呼ばれるようなものもまた宗教の市場化、個人化の一面がある。エリアーデ的な人間のカオスへの恐怖、コスモスへの渇望が市場という回路を通じるとああいうものが出てくる。そういう説明も可能であるようにも見える。晩年の彼はどんなことを言ってたんだろうかな。
その代償は、ラカンとかハイデガーのような存在論的なレベルではない小さな裂け目がパフォーマンスの「前面」と「背面」の間に生じる。多くのことが隠されないとならないし、観客もその共犯者になる。分かりやすい例を挙げると、恋人とか夫婦にしたい相手に自分の望む印象を与えるためにぼくらは裏でいろいろ企むけど、それを相手には見せられない(し、たぶん相手もそれを望まない)。でも、そうすることによって、そうしないと成立しない関係が成り立つ。だから、この裂け目に留まって耐えることが必要になる。あることを知りつつないふりする。
スポーツ選手のように演技そのものがその人の与える価値を示してくれれば、演技しながらも誠実でいられる。だけども、演技で与えたい印象とその演技の遂行に必要とされる裏方の努力との間に乖離があると、隠さないとならないことが出てくる。これが暴かれてしまうと関係性が壊れるから、通常は観衆もその秘密を守る共犯者になる。問題は、ひとは演じている間にそれが演技であることを見失う(あるいは学ぶ機会を奪われる)。そうなると建前だけで社会を語るようになって裂け目の存在も否定されてしまう。裂け目を可視化する勇気もまた必要になる。
それゆえに、焦点は聖なる力が実在するか否かという神学的問題ではなく、彼のいうところの宗教の本質が本当に宗教の多様性を包摂しうるのかという点に移る。正当化できない過剰な一般化、恣意的なデータ選択、極右的イデオロギー偏向という批判がここから出てくる。「宗教的人間」とは何を隠そうエリアーデ自身のことであり、彼自身の神学に学問の装いを着せてるだけという疑いがかけられてる。経験科学として見ればこれらはもっともな批判なんだが、他者を鏡として自己の狭い体験をより一般的な概念に拡げていくという人間学的な営みともとれる。
彼自身が西欧近代の洗礼を受けた文人であり分裂した自己を抱えている。「宗教的人間」も彼ならば「非宗教的人間」もまた彼。生涯何度も経験する精神的危機はおそらくこの内部分裂に起因している。であるから、彼の宗教学には、そこでは直接語られない実存的不安がある。歴史性、相対性に汚染された近代社会は彼にとって「混沌(カオス)」である。生きていくために何らかの方向性を与えてくれる「宇宙(コスモス)」を彼は必要としている。それは彼個人の問題ではなく、人間(非宗教的人間も含めて)に固有の問題である。これが語られない中心。
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それゆえに、焦点は聖なる力が実在するか否かという神学的問題ではなく、彼のいうところの宗教の本質が本当に宗教の多様性を包摂しうるのかという点に移る。正当化できない過剰な一般化、恣意的なデータ選択、極右的イデオロギー偏向という批判がここから出てくる。「宗教的人間」とは何を隠そうエリアーデ自身のことであり、彼自身の神学に学問の装いを着せてるだけという疑いがかけられてる。経験科学として見ればこれらはもっともな批判なんだが、他者を鏡として自己の狭い体験をより一般的な概念に拡げていくという人間学的な営みともとれる。