もし人間が生まれながらに多元的思考が可能で、あらゆる論理の型を自在に操れるなら、特定の文化圏で特定の思考法が発展する必然性はないはず。むしろ、人類共通の普遍的な思考法が形成されていただろう。独自の思考法が生まれたということは、人間の認知能力には限界があり、すべての論理の型を同時に扱うことは難しいということを示唆している。特定の思考法に特化することで、その文化圏における効率的なコミュニケーションや問題解決が可能になったと考えられる。
さらに、多元的思考を重視しすぎると、それぞれの思考法の持つ深みや精緻さを失ってしまう危険性も考えられる。例えば、日本の場を読み共感を寄せ合う文化は、言葉で表現されない繊細なニュアンスを理解する能力を育んできた。しかし、多元的思考の名の下に、この暗黙知を軽視し、すべてを明文化しようとすれば、文化的な奥行きが失われてしまうかもしれない。それぞれの思考法の限界や弱点も認識しておく必要は確かにあるだろうが、特定の思考法に特化することの価値も認め合うことも重要なのではないか。
「人の心というものはまず定見があると、往々にしてそれに合う事実だけを信ずるものです。陛下の心にまず定見を植えつけ、重要なところをねじ曲げて伝えれば陛下が自然に残りの物語を組み立ててくれます。難しいことではありません」本書はこれでもかというくらい荒唐無稽な因果が満ちている。病仏敵という異名をもつ梁興甫の戦いの目的もそう。敬愛する鉄鉉の旧臣であるはずの男が、比類なき忠誠心に導かれて、鉄鉉の息子である呉定縁を殺そうと追い回す。
あるいは朱瞻基は、自らを仇と思っている呉定縁や蘇荊渓に命を救われ、京城まで送ってもらっていたというのもそうだ。これなど例えて言えば『西遊記』で知られる三蔵法師が、苦楽を共にし、道中に散々命を救ってくれた孫悟空や猪八戒から、天竺に着いた途端に「お前は絶対に許さぬ仇だ」と罵倒されるようなもの。天の定めとはいえ、宿縁の因果とは恐ろしい。「まるで闇の中で不可視の巨手が数十年をかけてゆっくりと動き、次々に衝突が連鎖して今日の皮肉にして荒唐な場面を作りだしたようだ。まことに業には必ず因があり、必ず果をまねくものだ」
いつも「これ以上面倒事には関わらぬ」と宣言しているのに、あれよあれよと騒動の渦の中心へ流される。于謙は小臣にも関わらず、デカい声で太子を罵り叱咤もする熱血な直言居士の人。仲間の中で一番自分は貢献できていないと悲観的だが、実は有能な能吏らしく文書の謎はすべて看破する。ただ一番推理のキレが凄まじいのが、蘇荊渓という名の女医だろう。刺繍の図柄から失踪の事件性の度合いを測るなんてのから、何気ない会話の端々から相手の心理の裏読みまでやってのける。毒薬を繊細に調合し、宿年の恨みを晴らす必殺仕掛人でもある。
太子・朱瞻基は本書で一番評価が一変する人物。蟋蟀遊びにうつつを抜かす典型的な暗愚かと思いきや、決死行の途中から、先の帝から続く遷都の問題を真剣に捉え、いかに政をすべきかに頭を悩ませる聡明さも見せつける。都が北にある事で叶えられる辺境への備えと運河の活用も、国都が南に遷れば漕運は止まる。安寧や苦役は減り、経済的なメリットは大きいはずだが、国境だけでなく国の根本も危うくする。遷すべきか残すべきかの間で右往左往逡巡する様はハムレットだが、国を統べる者も避けて通れぬ仕事でもある。
なおかつ自律神経のトータルパワーのピークは、10代後半がピーク。あとは年を重ねるほどに目減りして、40歳で50%、60歳で25%と落ちてしまう。総量を増やすことを考えないと、疲れは常態化する一方だ。バランスの良い食事は休養学の基本だが、同時に「食べないこと」「食事の量を減らす」ことも重視している。腹八分を心がけ、むしゃくしゃするからスイーツなどやけ食いするなどもってのほか。甘いもの摂取することで、かえって興奮状態になり、自律神経のバランスも乱し、逆効果となるのだ。
電車で居眠りする横の人に寄りかかられた経験は誰でもあるだろう。不思議と大抵の人は、眠ったままでも姿勢を維持していて、倒れかかってくることなんてまずない。これは深い睡眠に入るまでにある程度時間がかかるためだが、もしレム睡眠に入っちゃったら、いっさいの体の力が抜けてしまって、全体重がこちらにかかってくる。ひょっとしたら、その場で転倒しちゃうかもしれない。でもたまーに、電池が抜けたようにストンと倒れこんでる人も見たことがあるような...。
「左に傾きすぎた左翼は、極右とほとんど区別がつかなくなるように、何らかの価値観にあわせて個人を改善する遺伝的強化は、集団を改善する優生学に接近せざるを得ない」。人間の進化的改良という目的自体が不適切なのだ。優生学も、人間は進化の産物であるという科学的事実から導かれたこの目的のために、集団が達成すべき目標を「善・悪」や「良・不良」に据え、生物学的な「適・不適」で決定づけられた。
「国民であれ民族であれ、進むべき集団の進化の方向を生物学的に決めれば、必然的に個体は生得的と見なされた性質で優劣が付き、何らかの尺度で序列化する。集団が目指す方向(善)とずれた生得的性質は差別され、不要とされ、有害とされ、学習による向上と修正の努力は否定される。これを生物学的な事実から『そうあるべきだ』と規範化する結果、存在と出生の否定が正当化される。人間が持つ性質の何が正常で、何が優れ、何が異常で何が劣るかは、価値観の問題でしかないにもかかわらず、である」
中国人は綺麗に死ぬよりも、惨めに生きたほうがマシと考える。日本人とは真逆。心の底では共産主義を嫌っていても、生き残るためにはどんな酷い帝王でも従う。這いつくばってでも生きようとするのが中国人だと語る服部。毛沢東が大号令をかけ始まった大躍進運動とその後の文化大革命を当事者として生きた日本人。人類史に残るほどの餓死者を出した狂気と茶番の時代を、「日本鬼子」と差別され続け、中国時代は思い出したくもないと唾棄するほど嫌い抜いているのに、自分が知らず知らず彼らのように行動してしまっていることに気づき愕然とする。
「洗脳教育は、脳みそに中国共産党というシワを刻み込むようなものだった」と語るほど、自分の行動様式に染み付いてしまっていた。他と交わらず、自分のみを恃みとし、夜な夜な政府高官や幹部を接待するだけでなく、他メーカーとも平気で情報高官を交わした。陰口を叩かれる服部のやり口は、起死回生の秘策を成就する力ともなったが、習近平による汚職撲滅政策により、終の住処としようとした中国からも追い出される遠因ともなった。
人間の寿命は大幅に伸びそうな気がするが。そうなると多少アホになるかもしれないな。ただこのアホというか、進化を順調に重ねていくのではなく、置いてけぼりであることのメリットについては深く考えさせられた。ダチョウの抗体が他のものとどう違うか。速くて安いだけではない。抗体を作り出す免疫グロブリンと呼ばれるタンパク質のY字の形状に違いがある。進化した哺乳類は、Y字の先がある程度固定されていて、特定のウイルスには適しているが、それ以外や未知の異物には対応できない。
対して、恐竜から鳥への進化のドロップアウト組であるダチョウのそれは、Y字の先端が長すぎるし、揺らぎがある。そのため、いろんなものに引っついて、ものすごい種類の抗体を大量に作り出すことができるのだ。設計通りに細かくピンポイントで狙い撃ちするのと、ファジーというか成り行きで遊びを残しておくという生存戦略の違い。戦略でもないか。スボラにしてたら、身についたというべきか。
クラウスの視点から振り返ると、これがまた切ない。父親が突然家を出て行き、逆上した母親がその父を撃ち殺す。跳弾がリュカに当たってしまい生き別れ、その後何十年と再会できずじまい。母親はその悔恨で精神を病み、傷つけたリュカを絶対視し、クラウスを陰に陽に傷つける。さらに父の不倫の原因を作った愛人の元で育てられ、そこで出会った娘と許されぬ恋心を募らせるが成就しない。一方では、リュカの行方を必死に探しながら、リュカといまの精神状態の母親を合わせてしまうと大変なことになると恐れてもいる。
自殺したリュカの葬儀を終え、また四人が一緒になれる日も近いなと夢想するクラウスの最後の言葉、「列車。いい考えだな」も印象的だ。映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の最後に、ロバート・デ・ニーロ演じるヌードルスが浮かべる微笑みを想起させる。現世では決して叶わぬ、永遠に失われた関係性が、夢の中、あるいは来世で、そして創作においてなら実現できるのではないかという儚い思い。人生もまさにこんなものなのかもしれないが。
柴咲は「人は真実性とは無関係に、差し出した犠牲によって物事の真偽を測る生き物」なのだと語り、犠牲を差し出さない言動ほど空虚なものはないと嘯く。そこで犯罪に対しては裁きによって、それに見合った量刑が下され罰せられるのであるから、先に罰を受け入れてしまえば復習しても許されるはずだと主張する。強行犯係の立花班長が、湯村に語りかける言葉が印象的だ。
「良くも悪くも我々は、縁でつながった他人とともに生きていくしかないんです。愛情も憎しみも、嫌っていうほど絡まってくるんです。法律は、それを調停する知恵ですが、誰かを幸せにしたり不幸にするのはどこまでいっても人間なんです。犯罪と罰は、等価じゃない。それはまったく、等価じゃないんです」 前作も良かったが本作も期待に違わぬ出来だった。惜しむらくは、スズキタゴサクのお喋りが中断してしまうことくらい。それくらい彼の言葉は、造形も含め、読者を引きつけて離さない強烈さがある。
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