負い、健忘症のような、無気力状態に陥っている。そんな時に出会ったマティアスは、自分を警戒し全然なついてくれないのだが、彼のハンディキャップを目にすることで自分の存在意義を見出したのではないか。この子は他所でこの先、嘲られ見くびられるかもしれないが、知識だけは遅れを取らないようにできるのではないか。絵画や読書など、この子の知育教育に母親以上に貢献できるのは自分なのでないか。リュカとマティアスにとって悲劇的なのは、そうした審美眼を鍛え、冴えた目を持つことが必ずしも人を幸福にしないこと。
見えすぎた目は、千倍万倍の愛の言葉より、内なる一つの疑心によって、絶望に転じてしまう。先の先まで見通し、深いところで足を取られる。「母親といっしょに行かせてやるべきだった。ぼくは致命的な誤りを犯しましたよ、ペテール。是が非でも子供を手放すまいとしたんです」。リュカの悔恨に対しペテールが言った一言が強く心に残る。「われわれは皆、それぞれの人生のなかでひとつの致命的な誤りを犯すのさ。そして、そのことに気づくのは、取り返しのつかないことがすでに起こってしまってからなんだ」
しかしコモディティのデフレは消費者物価には連動せず、逆にインフレとなり上昇していく。なぜなら、中国が西側諸国のサプライチェーンから外されるため、これまで通り安い製品を供給できなくなり、製品の製造コストが上昇するためだ。 「中国とのデカップリングが実現した場合、西側資本主義諸国にもマイナスの影響が生じてくる。それがインフレだ。中国という世界の工場、デフレ輸出マシーンから離れれば、今までのように安い労働コストで製品をつくることができなくなる。西側資本主義諸国は構造的なインフレ要因を抱えることになるだろう」
さらに追い打ちをかけているのが、西側諸国がコロナ禍で採った政策だ。政府がお金を刷りまくり積み上がった借金により、インフレは不可避となった。インフレは作り出すのは簡単でも、制御は極めて難しい。日本の借金はもはや返済不可能な水準に達しており、更なる高インフレが襲ったとしても、あえて政府はインフレ抑制の政策を講じないのではないか。著者はその根拠を、これまでの借金踏み倒しの歴史から類推しているが、「黄金期」という独自予測がいかに薄氷の上に成り立ったものかよくわかるだろう。
論理的な解釈を与えていく。子供の日記の断片からからおじさんの家の間取り図を描いていく様などその最たるものだろう。普通の小説ならこういう謎の呈示の仕方はしないし、解明パートで合いの手のように適宜ノートや証言の引用が付されることもないだろう。欠点とも思えるが、広く読者を集めているところを見ると、こうした体裁に心地よさを感じるのかも。袋小路の廊下や、扉のない隠し部屋など、説明のつかない間取りの謎の答えとして、本書は大別すると2種類の答えを用意している。
ひとつは窓のない部屋を監禁部屋と、謎の部屋を殺人を行なうための通路と解釈するような合理的な説明と、因習やシキタリ、宗教・祭祀的な意味合いの説明だ。これらでもまぁ面白いのだけれど、少し殺伐とし過ぎている。それより深謀遠慮に基づく、深い慈愛や願望からの間取りであるという説明も読んでみたい気がする。本書はクライマックスで何回転か推理の反転が行なわれるのだが、どれも余計に思えた。全体の構図をひっくり返すのは最近の定番だが、何度くるくる回っても、着地も決まらず余韻を損ねてしまった。
特に興醒めなのは、何度も紹介されるマジックハンドでポケットティッシュを配る方法。コロナ禍という特定の状況下とはいえ、あまりにおぞましく、とても誘引性があると思えない。第一こんなの受け取り損ねて、ティッシュを地面に落とす人が続出しそうだ。より非衛生になり考えられない。あと、効果の検証がほんと微妙。真実の口だと、次第に飽きられて利用率が減ったけど、併設している従来のスプレーの利用率は増えてるから効果があったと評価する。
達成率自体も微妙な結果が多く、じきに飽きられ景観にそぐわぬモニュメントと化しそうなのも多い。想定した目的を超えた副次的な効果も評価の対象になっているが、きちんとデータの裏付けができているのか怪しい。ほとんどがゼミ生と行なった実証実験なので、研究の材料としては有効だし、なかなか楽しそうなゼミになりそうだが、その割に驚くほどアイデアが貧弱なのも気になった。
「慰めが生傷の上にそっと巻かれた包帯のように、優しく泰介の心を包み込む」、「勇ましいまでの決意は、栄養を絶たれた真冬の向日葵の如く、いつしか完全に萎れていた」などちょっと平静ではいられないだろう。形容の仕方がとにかく漫画的で、「全身の毛穴から粘り気のある汗がどろりと滲み出す」というのも、読んでて話の筋を忘れそうになるほど現実感が薄い。
本書も登場人物の言葉の使い方から嫌疑を晴らすという展開になるため、日本語には相当に注意が払われているはずなのに、トリック云々以外のところで気になる文章が多かった。また前作のようなインタビュー形式の独白という会話文のスタイルに戻れば、違和感が薄まるのかもしれないが。
つまり、京都とは距離を取ろうという勢力と、貨幣経済の観点から財政基盤を無視して東国に政権を置くわけにはいかないという立場の対立だったのだ。京都を押さえるということは、商品流通を押さえることであり、経済の中枢を押さえることでもあった。このように尊氏と直義の対立には、根本的な国家観・政権観の違いがあった。面白いのはここから。
尊氏と直義といったトップ同士には明確な思想・路線の違いがあっても、家来レベルではそこまで明瞭な違いはなく、単純に「あいつが気に食わねえ」「許せん」といった気持ちだけで対立が継承されていったと言う点。時代が経るごとに思想や理念は失われ、応仁の乱の頃にはただ代々引き継がれてきた「憎き細川」「憎き山名」という恨みのみで、両陣営分かれて戦さとなっていたということ。そんなものだろうと思う。
線引きも曖昧なまま、地域や親族間で包摂し物事をまるく治めていた時代はすでに去り、外部の警察や児童相談所の介入が当然視され、医者にも注意欠陥障害だ発達障害だとの過剰診断を求めてレッテル貼りに安堵する。自堕落なダメ親とされた瞳は、一人息子が寄越した絵葉書のみを大事に抱える孤独な存在として扱われ、物語後半からは綺麗に消し去られている。この場合の「存在のすべて」とは「見たいものすべて」ではないかと鼻白んだ。
☆ 横レス失礼します。作品には厳しいが,自分にはなかった視点からのご感想で非常に勉強になりました。作品テーマの解読など見事のひとことに尽きます。駄文失礼。
音だけに偏重し過ぎるのも危ういだろう。優しい言葉をかけながら目が怒っている人もいるしなぁ。あと発する音の長さの問題もある。フェロモンを出すより音は、即応性は高くタイムラグは少ないかもしれないが、相手に届いたのか不確かだし、相手を選別できない。匂いの痕跡は道標のように次に来る者など対象は限定される。とりあえずその場にいる誰でもなのか、音の長さや強弱も使い分けてるのか。 著者がアリの音声コミュニケーション研究で考えているのは、音を活用して防除などに貢献できないかということ。
警戒時に発せられる音はわかっているので、「こっちに来ないでね」とのメッセージとして利用したり、「こっちの雑草も刈ってちょうだい」など労働力として活用したりと、夢は長大だ。彼自身がかなりチャレンジ精神に溢れていて、2021年のJAXAの宇宙飛行士募集に応募している。同じ東研究室門下の後輩である堀川さんがクマムシの宇宙空間での耐性に関する研究でNASAの特別研究員の地位を射止めたのも発奮材料になっているのだろう。結果は0次試験で不合格となり夢は果せなかったが、次の宇宙飛行士試験を目指して勉強に余念がない。
これからはニュースで、強盗にあったが端金だったり何も盗まれなかったとかいう事件を耳にしても、裏では実はと勘ぐってしまいそう。他にもATM機で一日におろせる限度額は50万円までと思っていたが、いまは生体認証取引のATMだと限度額は1千万円だというのは知らなかった。Nシステムの裏をかく方法も凄まじい。赤外線避けのカバーをプレートに貼る手法は知っていたが、システムに数字の相似を認識する機能はないことを逆手に取って、数字を部分的に細工する手法はおもわず膝を打った。
著者は、画家も小説家も新人とベテランの差は省略だと語る。不安からついつい書き込んでしまいたくなるが、読者は行間を読んでくれると信頼し、徹底的に余分を削いでいく。著者お得意の軽妙な掛け合いのしゃべくりも、念頭にあるのは漫才ではなく落語。例えば、玉川と舘野の2人が情報屋に合いに行くシーン。「彫甚。和彫りや」「気難しいですか」「よう喋る。鶏ガラみたいな男や」「痩せてるんですか」「痩せてはないな。肥えとる」「鶏ガラいうのは」「喋ったことから出汁がとれる」「それはいいですね」
意識すなわち世界の成立には引き算が必要だというのは意外かもしれないが、実は古来より日本文化において重視されてきた要素でもある。日本人はもともとイマジネーションを表現する時に、そこに「何かがない」ということでイメージを喚起する。和歌にしても能にしてもそう、存在ではなく欠如によって、足し算ではなく引き算によって、あってほしいものを暗示する。
「浜辺に花や紅葉がないなんて当たり前なのに、花も紅葉も”ない"という引き算を見せることによって、荒涼たる風景の中に花と紅葉を一瞬だけれども見せる」藤原定家の一首もそうなら、床に一輪の白玉椿があるだけの茶室もそう。何か足りない、何かないという何かを差っ引く編集が、最も日本的な想像力の見せ方なのだ。
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線引きも曖昧なまま、地域や親族間で包摂し物事をまるく治めていた時代はすでに去り、外部の警察や児童相談所の介入が当然視され、医者にも注意欠陥障害だ発達障害だとの過剰診断を求めてレッテル貼りに安堵する。自堕落なダメ親とされた瞳は、一人息子が寄越した絵葉書のみを大事に抱える孤独な存在として扱われ、物語後半からは綺麗に消し去られている。この場合の「存在のすべて」とは「見たいものすべて」ではないかと鼻白んだ。
☆ 横レス失礼します。作品には厳しいが,自分にはなかった視点からのご感想で非常に勉強になりました。作品テーマの解読など見事のひとことに尽きます。駄文失礼。