その他、材木商の話や黒人社会において労働力を得る話、象が食料を食べてしまうことなど、興味深いアフリカの話題が語られる。最も興味深かったのは、黒人は決して怠惰ではないが、あまり働かないという話だ。要するに、彼らは食べるのに必要な金が手に入ると、それ以上働こうとしない。そこで白人たちは税金をとったり、酒やタバコや化粧品などを持ち込むことにより、金を必需品にして黒人を労働者にさせようとする。資本主義の成立に立ち会っているような話である。
また、アフリカにいて自分を正しく維持するためには、精神的に「真面目な本」を読むなど、教養が大切であるという話は含蓄が深い。アフリカの生活は「散文のよう」であるという言い回しはなるほどと思う。白人商人がベーメの『アウローラ』を読んでいるなど、アフリカだからこそ向き合える本もあるのだろう。
フランスのディセルタシオンでは、弁証法的な形で対立の調整を目指す。双方の主張を統合し、より大きな問題へとつなげ、説得よりも合意に繋げていくことに力点がある。イランのエンシャーでは、自分で結論を出すのではなく、聖句などで結ぶのが定番となる。日本の入試などではしばしば心情を問う問題が出題されるが、これは「綴方」や感想文という伝統から作られる。
家永三郎は教育勅語の中にある種の近代性を見出し、その点を高く評価していた。教育勅語に書かれている「國體」は、会沢正志斎をはじめとする水戸学系の國體とはニュアンスが異なる。和辻は欧米にも通じる普遍的な倫理学を作ろうとしたが、海外では残念ながら日本の倫理学として受け止められている。
後半は議論の型についての説明が主題になる。議論は「問題・解決・説明」の型で考えることで、自分の立場や好みから中立的に議論の良し悪しを判断することができる。本筋と関係ないところで、「常識・繰り返し・強調」なども使われることはあるが、まずは論理の骨組みを見つけることが大切である。このようにしていくと、中沢新一はチベットの神秘について語っているようで、伝統的なヨーロッパの実存主義を引きずっているし、大江健三郎の議論には共感はできても納得できないというようなことがわかってくる。やっぱり、小論文のための本だな。
ビジネス書や自己啓発本が売れる一方で、日本人の読書離れが叫ばれはじめる。筆者は自己啓発書はノイズがない本であると指摘する。政治や戦争のような社会は変えられない一方で、自分の部屋は片付けられる。このような「コントロール可能なもの」だけを扱うのが自己啓発本の特徴であるという。同様に、インターネットも求める情報だけをノイズなく伝える手段である。このようなノイズのない情報群は、過去の蓄積を必要としないという点で、教養や知識と区別される。
読書とは、そうした意味でのノイズも含めて摂取することである。ところが、現代の労働は自己実現なども組み込んだ全身全霊を求め、社会全体のことを必ずしも求めてこない。ひとつのことに全身全霊でコミットメントするのではなく、ほどよく色々なノイズを摂取しながら生きていく社会こそが、働きながら本が読める社会である。
学校での使用は、授業による利用はもちろんのこと、学習指導要領に書かれている範囲内であれば基本的に著作権法の例外となる(著作権法第35条)。ただし、「いつか役に立つかもしれない」という理由でのコピーは禁止である。また、部活動などの課外活動では非営利の活動ということで、一部制限を免れることができる(第38条)。コロナ禍に定められた第35条の例外規定は、あくまで授業利用に限るため、注意が必要。
良い本は「良い」と誉め、悪い本は「悪い」と徹底的に批判する。これによって日本の出版文化がもっと豊かになれば、と考えています。
もちろん、個人的な傾向性(好み)はあります。文学ならばあっさり話が進んでいくものより、物語の構造や思想がはっきりと現れているものが好きです。評論なら、事例ばかりを並べるものより、それらを分析し、総合する理論を内包しているものが好きです。なので、時々いじわるな感想を言いすぎてしまうこともあるのですが、気になるところがあれば、反論をお待ちしています。
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ビジネス書や自己啓発本が売れる一方で、日本人の読書離れが叫ばれはじめる。筆者は自己啓発書はノイズがない本であると指摘する。政治や戦争のような社会は変えられない一方で、自分の部屋は片付けられる。このような「コントロール可能なもの」だけを扱うのが自己啓発本の特徴であるという。同様に、インターネットも求める情報だけをノイズなく伝える手段である。このようなノイズのない情報群は、過去の蓄積を必要としないという点で、教養や知識と区別される。
読書とは、そうした意味でのノイズも含めて摂取することである。ところが、現代の労働は自己実現なども組み込んだ全身全霊を求め、社会全体のことを必ずしも求めてこない。ひとつのことに全身全霊でコミットメントするのではなく、ほどよく色々なノイズを摂取しながら生きていく社会こそが、働きながら本が読める社会である。