形式:単行本
出版社:文藝春秋
形式:Kindle版
動くが金太郎飴でない、という考察が成り立ちうるならば驚くべきことです。移動する<今>が、時間的なあらゆる存在ともいえない何かを内部からつくり出して移動していく(このことを16章では「無内包という内包」と表現しています)。累進図おける左右の移動は可能だが、上下の移動はできないと繰り返しいっていたのは、ここで現在を、最上段を含めて池の飛び石のように「斜め」に駆けるためでした。ただし、気になるのは、<私>は許される思弁的な語りが、なぜか<今>の場合は許されない、ペテンすれすれに思えてしまう感覚です。
可能ものとの比較から現実のコレに思い至る道筋。それとは別にただただ現実のコレが何かという驚きから始まる道もある。個人的には永井さんの本を初めて読んでから長い間後者の驚きに囚われてしまい前者の味わいも味わい方もよくわからなかった模様
第0次内包と無内包の混同の話とそれがなぜ間違っているのかも今回初めてわかった気はした。
しかし、この「違いがあることは分かるが何が違うか、なぜ違うかが分からない」という態度は、端的な「私」とそれ以外(面倒なので「それ以外」という言葉に逃げる)の私の問題だけでなく、私にとっては日常的に起きていることである。それは自分と他人の考えや言語表現の違いに起因したものであったり、自分の中での峻別されていない考えについてのものであったりする。そういった違いをつぶさに明らめることが、私にとっては重要であったりする。
辞書の定義は、どこかで堂々巡りになります。「AとはBである」と書いてあるのでBをひくと「Aである」(笑)。私や今を何とか説明したくてもできず、岩盤につきあたったスコップのような。それが「語りえぬもの」の意味なのでしょう。……と、私は永井哲学から受け取りました。
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