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存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

感想・レビュー
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袖崎いたる
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この本は2冊を購入し、それは結局読まないまま手元から離れていき、図書館で借りることによってようやく初読を果たす運びを迎えられるに至った。まー、むずい。途中で思考の体力が付いていけなくなる。類型化できない類いの問題のその類型化の拒絶のされ方の類型化であるという断りが最後の文として置かれているが、その拒絶のされ方の類型化を記述していくのにマクタガートの時間論が取り上げられている。そのマクタガートの時間論にしても永井均からすると物足りないというか不足があるのでこうしてああしてと見方を整えていくのが、まー、精緻。
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雪空55
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使っている言葉は難しくはないが、内容は難解だ。「私」の「存在」に驚愕するところから哲学は始まる。むきだしの生身の孤立している現実的な私と言葉で説明して了解している、コミュニケーションに関与している実在的な私。前者から出発し後者を通って再び前者に戻る働きは偶然である。また時間も絶体的な現在と相対的な現在があり時間という概念で後者を認識できた。この私と時間を巡って哲学的な考察が延々続く。哲学者とはこのような考察をするんだなと妙な感動がありわからないながらも断片的に感心する部分が多々あった。面白かった!
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脳疣沼
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再読して8割方分かった気になっている。読み直してみると、最初から同じことが言われていて、それをいろんな角度から考察していることが分かる。だから、どのページを開いても、今はとても楽しい。これから何度も読み返すことになるだろう。それぐらい楽しい本。とにかく素直に読まなければならない。自分のこれまでのものの見方を、そのまま当てはめるような読み方をしていると分からなくなる。その見方こそを考察しているのだから。
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脳疣沼
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前半はよく分かるが、時間論はなかなか難しい。マクタガートの本を読んでから、また読み直そうと思う。
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41semicolon
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図書館の貸し出し期間ではとてもじゃないが読み切れない。最初の数章で永井先生個人の哲学的問いを明晰に説明しており、そこだけは問題意識を理解できた。「叩かれたら痛いと感じる私」が物理的世界観では斉一的に複数存在しうるのに対し、それにも関わらず<私>という特権性を持ったモノがあるという驚き。そしてこのような<私>の存在への驚きが<今>に対しても当てはまる。この同型性を中心に時間に関して新しい形の問いも生まれる。云々。
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🍕
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いろいろぶっ飛んでて好き
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ナオヒ
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シェリーケーガンの「『死』とか何か」を読んで、これなら永井均のほうがいいんじゃないかと思い、15年ぶりくらいに永井均の新しいのを買って読んでみたのだが、やはり永井均は永井均だった。昔から一貫して「いま、ここに『在る』という不思議」、「『私』という特異点に対する驚き」について問うている。これには完全に同意するが、今回の本は後半がかなり難しく、ちょっとついていけない部分もあった。しかし終章の「『私』の死後、今とは不連続な『私』という特異点が再び立ち現れる可能性』」については、その通り!と我が意を得た思い。
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ころこ
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第1部は従来の議論をカント原理とライプニッツ原理に綺麗に分けて説明しています。65ページにあるデカルトの説明に今更ながら気付かされたことがありました。第1部で書かれていたことの要約は、9章にあるプラトンとアリストテレスの対立を探究のパラドックスという表現で第1部を締めくくっていることに集約されています。第2部の14章で行われた新たな議論とは、257ページのことのようです。<今>性を維持したまま<今>が動くということのようです。簡単に書けば身も蓋も無い議論ですが、少なくとも<私>は動かないので、<今>のまま
ころこ

動くが金太郎飴でない、という考察が成り立ちうるならば驚くべきことです。移動する<今>が、時間的なあらゆる存在ともいえない何かを内部からつくり出して移動していく(このことを16章では「無内包という内包」と表現しています)。累進図おける左右の移動は可能だが、上下の移動はできないと繰り返しいっていたのは、ここで現在を、最上段を含めて池の飛び石のように「斜め」に駆けるためでした。ただし、気になるのは、<私>は許される思弁的な語りが、なぜか<今>の場合は許されない、ペテンすれすれに思えてしまう感覚です。

02/16 23:40
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弥生
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◆二部構成なのだが、二部の時間についての考察は僕には理解不能。というか、一部にしたって、三分の一も理解できたか怪しい。◆存在と時間は似てる。そう気付かせてくれただけで有難い。◆何故、数ある意識の中で僕だけが「私」なのだろう。何故、数ある時間の中で今だけが「現在」なのだろう。そして、それらはどうやっても捉えられないのではないか。どこにも点を打てないのではないか。目眩がする。
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ナハチガル
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「ある種の読者を念頭においてスタートしたにもかかわらず、途中から読者のことなどまったく考えない『孤独な闘い』に陥った。読み取ってくれた方が一人でもいたなら有難いというほかはない」この「途中から」というのがはっきり分かるくらい、途中から訳が分からなくなってしまったが、歯を食いしばってなんとか最後まで読んだ。こういう本に出会い、僅かとはいえ著者の考えているらしきことを読み取ることが出来た(?)のは、望外の喜びだ。私が私として今を生きている、これは本当に驚くべきことだ。父さん母さん、産んでくれてありがとう!S。
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hakootoko
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13章まで
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の箱
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この本の論述で、初めて<今>の問題がわかりかけ始めた感じがします。(可能な現在と現実の現在は分かってた気がしますが今回わかりかけたのは)移動する現在と端的な現在の対立という点。(今を針化して捉えることで事象の内部的な連なりを時計盤や年表として見ることを可能にし、それを模した時計が成立し、そして端的な現在もある面では時計の世界に閉じ込められる、そしてそれこそが時間の成立)
の箱

可能ものとの比較から現実のコレに思い至る道筋。それとは別にただただ現実のコレが何かという驚きから始まる道もある。個人的には永井さんの本を初めて読んでから長い間後者の驚きに囚われてしまい前者の味わいも味わい方もよくわからなかった模様

09/16 07:59
の箱

第0次内包と無内包の混同の話とそれがなぜ間違っているのかも今回初めてわかった気はした。

09/16 08:08
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たかひろ
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本書冒頭で哲学の役割は「自分が自分の人生や経験のみで編み出した驚きをいわゆる科学が扱うような、他の誰にも理解でき得るような形に整えること」というようなことを言っていたと解釈したが、この本はまさしく永井さんの疑問を「ああ、確かに自分もそんなことを考えたことがあるなあ」と錯覚できる本だった。 風間くんの、「なぜこいつが私なのか」と考える主体と端的な「私」とはやはり別の存在、疑問であると自分も思う。しかしそれを証明することはできない。その言葉を持っていない。ただそうであることが端的な「私」には分かるだけであろう
たかひろ

しかし、この「違いがあることは分かるが何が違うか、なぜ違うかが分からない」という態度は、端的な「私」とそれ以外(面倒なので「それ以外」という言葉に逃げる)の私の問題だけでなく、私にとっては日常的に起きていることである。それは自分と他人の考えや言語表現の違いに起因したものであったり、自分の中での峻別されていない考えについてのものであったりする。そういった違いをつぶさに明らめることが、私にとっては重要であったりする。

07/06 01:30
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illsign
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10章くらいまでは、いままで読んできた本の知識で賄えるので、理解できているはず。心脳問題でソリテスパラドクスを使うというのは、昔永井さんの本を読んだ際に自分で考えたつもりだったが、当人もしていたのだな。まぁ俺が思いつくことくらいすでに考えているのは当たり前なのですが。時間に対する洞察はよく分からないところが多い。あとがきで混乱しているかもといわれて、なぜか安心した。あと講談社新書3冊の中では、圧倒的に「これがニーチェだ」が面白いと思います。何かを理解できるようになる喜びは、ほかの本にはありません。
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Amano Ryota
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問われていることは常に同じだ。個人的には、端的な現在と動く現実の現在の区別が上手くできていないこと、もしかすると、第一基準と第二基準を混同している恐れがあることが分かって良かった。立ち止まっている暇はない。まだ読んでいない永井さんの本がたくさんある。「私の問いと私でない永井さんの問いは、あらゆる意味でまったく同じ問いであるとともに、ある決定的な点でまったく違う問いである。なぜ言葉を使ってその差異を問うことができるのか。なぜ、神が現実に存在する(しない)ことを、存在論的証明の正しさを超えて、語りうるのか。」
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テツ
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噛み砕き咀嚼し少しずつ読み進めたけれど難しかった。『私』と『今』という小学生でも知っている言葉なのにその意味を説明しろと言われたら大抵の大人が挫折すると思う。難しいけれど理解はしている(と信じてしまっている)ことを言語化する途中で、理解していた筈の事柄が淡雪のように溶けて消えていってしまう感覚。そして疑うことすらなかった既存の概念への疑問と新しい驚き。世界は知ろうとすればするほどに深く広くなっていく。近いうちに再読したいです。
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naoan
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ひとまず通読終了。対談を読んだ後に再読したいな。 連載をまとめた本ということで、前段の話が繰り返されるのでわかりやすいが、内容は直感しにくい。 <私>・<今>という今まで誰も見つけることの出来なかった(らしい)問題をずっと取り上げている。<私>は初等的だが、<今>の方は少し込み入っている。
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mooroom7
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この日付は正しいのかどうか。 取り敢えず、とぎれとぎれの通読。読みながら感じたことは、永井先生はダグラス・ハーディングとその一連の「頭の無い方法」等の実験等のことはご存知なのかなあ、ということでした。とにかく、似たものを感じました。 永井哲学を勉強することはアドヴァイタ的悟りに側面から接近することにもなるような感触をもったものです。<私>というのは全てのバックグラウンドとしての意識とも言い換えられるのでは。あと、二三回は読みたいのですが。<私>はどうなることやら。
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けんた
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〈私〉と〈今〉の問題について徹底的に議論されています。いい加減にしろ!と言いたくなるぐらいです。2015年に書かれた原稿だそうでまだ新しいですが、何年かしたら世界的にもこの手の本の決定版になってたりするんじゃなかろうか?と思ったりします。
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ユ-スケ
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ひじょうに複雑で、途中から議論についていけズ・・ ただ、「今」と「私」の共通性、そして読むほどにそれらの存在の不確かさに飲み込まれていくようだ 永井さんの「私」の捉え方をもっと多くの人がするようになれば、世界はきっと変わるはず
へくとぱすかる

辞書の定義は、どこかで堂々巡りになります。「AとはBである」と書いてあるのでBをひくと「Aである」(笑)。私や今を何とか説明したくてもできず、岩盤につきあたったスコップのような。それが「語りえぬもの」の意味なのでしょう。……と、私は永井哲学から受け取りました。

07/26 22:39
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こぐま
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「しっかりと読んでいただければ必ず理解できるように細部まで心を砕いた」と前書きに書いてあるようにじっくり付き合う覚悟があれば「驚き」がやってきます
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へくとぱすかる
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時間がかかった。しかし読了! 誰しも一度くらいは考えそうな、しかし青山氏の言う通り、やはり世界で初めての論考じゃないだろうか。似たような話を知らない。「語り得ぬもの」を無理に語っている感じが濃厚だが、「私」といい「今」といい、なぜか端的にこれがただひとつあるのに、語ろうとすれば汎化されてしまう。それでいて、その端的さは消えない。それこそ出発点なのに終着点でもあるんだなぁ。
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Klllly
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ネタバレ第1章 私の意識しか実在しないという実在論ではなく、なぜ多数ある意識の中で私は私なのか、という筆者の懐疑。 中島氏の見解 どの身体に精神がやどっても自分と認識できる(輪廻転成は成立) × 筆者の見解 どの精神に宿っても自分だと認識できるべき(身体と比較はしていない) 精神に身体がやどりかわることは、宿られる側が精神なので認識不可能。 私(原点)の移動→精神なので認識できない 過去から今への移動→認識できる なぜ?
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Klllly
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第1章 私の意識しか実在しないという実在論ではなく、なぜ多数ある意識の中で私は私なのか、という筆者の懐疑。 中島氏の見解 どの身体に精神がやどっても自分と認識できる(輪廻転成は成立) × 筆者の見解 どの精神に宿っても自分だと認識できるべき(身体と比較はしていない) 精神に身体がやどりかわることは、宿られる側が精神なので認識不可能。 私(原点)の移動→精神なので認識できない 過去から今への移動→認識できる なぜ?
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