形式:単行本
出版社:左右社
そして私には、このように『源氏物語』が聖書やジェーン・オースティンとの共通点があると知るのは「世界って案外近いな」と思えるのです。私は歌のやり取りなどは、源氏物語の貴族、中世ヨーロッパ騎士たち、それぞれ国も風習違っても人間のやることの近さを感じたこともあります。『源氏物語』が欧米の読者の心を捉えたのは、ヒーローのゲンジは戦わないし強くないし恋愛でグジグジ言うばっかりでこれだけの大作ができるのか!ってことのようですね。
私も授業で習ったころは「勝手なことばっかり言ったりやったりしてるしイライラする奴らだなあヽ(`Д´)ノ」などと思っていたのですが(そしてその感想は今も変わらない箇所もありますが)、改めて読んでみると、ただただ恋愛に現を抜かしているような人たちでこれだけの大作を、そして線年経っても変わらない人の心というものを感じることができました。 …ただし、王朝文学好きの友人に「こんな翻訳になってるよ!」と報告したら「全然違う。全然ダメ。それ無理に翻訳する必要ある?(ーーメ)」と不評なところもありました(^_^;)
俵万智『愛する源氏物語』か二人の和歌についての考察から。
https://note.com/aoyadokari/n/n44d59cccf568
宇治十帖はあまり好きでなく、アゲマキ?コゼリ?えっそんな人いた?と記憶になかったのですが、大君と中君、でしょうか?ニオウも仁王?二王?と思ってしまったけど、匂宮ですね〜!😆
shioさん、こんばんは。そうです。アゲマキとコゼリが大君、中君で、ニオウが匂宮です。私も宇治十帖は苦手だったのですが、この源氏物語を読んで良さが理解出来ました。
●この巻の価値をさらに高めるものがふたつ。ひとつはヴァージニア・ウルフがウェイリーの英訳に寄せた賛辞。彼女がいかにこの作品にのめり込んだかは、20世紀の文学史に輝くウルフの小説(読んだのは『ダロウェイ夫人』だけであるが)とこの『源氏物語』とりわけ『宇治十帖』が、極めて近い位置にあることからも、如実にわかる。●もうひとつは、全篇の登場人物を収めた系図。70年にわたる物語世界の拡がりがこの1枚に示される。これを見るだけでも、この時代にこれだけ複雑かつ長大な物語を破綻なく書き上げた紫式部の天才は明らか。
薫は現天皇の第二皇女を正妻としている。浮舟とは結婚したいが、正式な妻とはできない(というか、当然したくない)。だから自分から率先して押していくのではなく、先方(浮舟の母親)から申し込ませて、浮舟を第二夫人としたい、ともくろんでいるとの解釈。しかも、明石の姫君(現皇后)の娘にも、目を付けている。なんとも計算高い。こんな風に違った見方ができるのだから、何度読んでも源氏は面白い。
やいっちさん、全巻読了おめでとうございます!私の拙い感想にありがとうございます。恐縮です💦各帖のやいっちさんのつぶやきを楽しみに拝見させて頂いてましたよ。毬矢・森山姉妹訳は素晴らしかったですね。
都わすれさん 勝手に紹介してしまって。我輩にはとてもまともな感想は書けない。与謝野版源氏に続いての「源氏物語」。毬矢・森山姉妹訳さんの訳は最初はやや戸惑いました。読み進むに連れ、魅了されていきました。考え尽くされた翻訳。また数年したら誰かの現代語訳を楽しみたいです。
数年前、与謝野版源氏を読みました。現代語訳なのに食らい付くように。森山姉妹の翻訳は読みやすく分かりやすい。物語の中にどれだけ入れたか覚束ないのですが、緒に付いたような気がします。源氏物語の世界は深い……深すぎます。
ほんとに深くて魅力がいっぱいですよね。だから何度も読みたくなるんでしょうね。今度は誰訳で読もうかと迷っています。
ウキフネの全ての過去を断ち切りたい、カオルを待つという相反した感情、俗世を憂い離れたい思いつつアゲマキやウキフネに執着して嘆きながらも、新しい女性にも心ときめかせるカオルの複雑さなど、宇治十帖は読み応えがあった。終わり方も、先を予感させる様な。日本人訳を挫折した私には、源氏物語の全体像が捉えられて良かった。谷崎訳が気になるが、全部はもう読む気力がない。宇治十帖だけでも読み比べてみようかな。
とはいうが1000年の時を超えてこれだけ残っているのが驚異的(歴史を調べるに最初の200年ぐらいを超えれば大丈夫そうな感じだが)。計量言語学に興味があるので写本同士の関係性も非常に興味深い。
この訳の雰囲気だと10巻ぐらいで今は昔の小学館ガガガ文庫の「跳訳」シリーズから出しても違和感はない。せめて普及版を文庫で有名出版社(ちくま文庫とか新潮文庫nexとかどうだろう?)から出して気軽に読めるようになって欲しい。
↑100年前にイギリスで絶賛され、ヴァージニア・ウルフ、レヴィ・ストロース、マルグリット・ユルスナールに愛されたウェイリーのモダニズム的な源氏物語の世界を垣間見ることが出来たという幸福感を味わった。 そもそも翻訳は再構成(再創造)であり、さらなる翻訳は再々構成(再々創造)されているわけだが、鞠矢+森山姉妹は紫式部とウェイリーの両方の声を聴きながら、詩人俳人の言葉でその世界を現出させていると思う。かなり満足した。 ヴァージニア・ウルフの書評も面白かった。・・・角田光代版を読みたくなった。
プルーストも「見出された時」で過去を振り返りながら「かくして私は自分の不手際のせいですべてを台なしにしたのだ」と云っているから、優柔不断は誰しもに共通する悲劇なのかもしれない。いや、悲劇というよりも喜劇と云ったほうが正確かも知れない。 ウェリーは宇治十帖の中に人間喜劇を読み取っていたようにさえ想える。所々に『高慢と偏見』をも髣髴させることもある。 浮舟まで読み進むとオースティンの世界に居るような気もしてきた。あのユーモラスな世界こそがウェリーが描く『源氏物語』だったのかもしれない。
天皇家の血を継ぎながらも下級役人の子(連れ子)として育った浮舟に良い縁談をと工面する母親の姿は悲壮感も漂うが、喜劇的な一面も観えてくる。 近所によくいるスノップのようで親近感さえ覚えてくるのである。 原作は結末がよく解らない終わり方をしている。それは読者に人間相互の精神的齟齬を悲劇的に連想させる。 しかし、ウェリー源氏を読み終わった今、下賤なスノップを交えた世界を想い描けば十分に喜劇になるとさえ想えるのである。
4巻目を読んでいて一番気になったのは、片仮名でフリガナを打たれた敬称の数々。ヒズマジェスティとかユアハイネスとか沢山出て来るが、その法則性がちっとも分からない。何しろ英語からっきしなので。知恵袋等の丁寧な解説を読んで何とか理解出来た気がしたのだが、読み始めるとやっぱり⁇となるのだった。とほほ。
2巻を読んだ時も感じたのだが、紫式部の価値観なのだろうが、高齢の母尼君の老いの描写が容赦無く、周りの老婆たちもまるで魔女のようで(これはウェイリー独自の解釈かもしれないが。)、平安時代は儒教の価値観がまだ無いので年寄りを敬ったりしない、と書いてあった大塚ひかり氏の本を思い出した。また、病気治療が専ら祈祷頼みなのは仕方ないとして、狐憑き等の怪異現象に対しては冷静に「有り得ない」と判断しているのが、千年も昔の人の感覚としてはとても意外に思った。
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そして私には、このように『源氏物語』が聖書やジェーン・オースティンとの共通点があると知るのは「世界って案外近いな」と思えるのです。私は歌のやり取りなどは、源氏物語の貴族、中世ヨーロッパ騎士たち、それぞれ国も風習違っても人間のやることの近さを感じたこともあります。『源氏物語』が欧米の読者の心を捉えたのは、ヒーローのゲンジは戦わないし強くないし恋愛でグジグジ言うばっかりでこれだけの大作ができるのか!ってことのようですね。
私も授業で習ったころは「勝手なことばっかり言ったりやったりしてるしイライラする奴らだなあヽ(`Д´)ノ」などと思っていたのですが(そしてその感想は今も変わらない箇所もありますが)、改めて読んでみると、ただただ恋愛に現を抜かしているような人たちでこれだけの大作を、そして線年経っても変わらない人の心というものを感じることができました。 …ただし、王朝文学好きの友人に「こんな翻訳になってるよ!」と報告したら「全然違う。全然ダメ。それ無理に翻訳する必要ある?(ーーメ)」と不評なところもありました(^_^;)