形式:新書
出版社:岩波書店
形式:Kindle版
「定家は知行国制を肯定的に見ていた節があるが、信濃や能登の事例が端的に示しているように、国務は困難な状況にあった。知行国制は、守護の下に国衙官人を含めて一国内の豪族武士が統率されていく過程で実現不可能となり、急速に崩れていく。定家の場合も、結局家産にはならなかった。……公家社会が累卵の危機にあった深刻な時代相を汲み取ることができる。」p.204
Feさま、お教えいただきありがとうございます。後鳥羽院との関係は興味深いものがありますね。
後鳥羽院の本棚(登録冊数17冊) https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091275 を、ご笑覧いただけましたら、幸甚と存じます。
先日読んだ澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』で三島は定家を書きたいと言っていたことを知りました。平安鎌倉の激しい時代の定家の内面を追求したかったのかも知れません。三島の定家、読みたかったなあ、と思いました。
三島由紀夫が定家を!貴族的で耽美で、執念が強い感じにふたりの共通項というか親和性を感じますね・・。わたしも読んでみたかったです(><)
後鳥羽上皇にしてみれば、身体弱くて年も取ってる定家に、剣を取って味方しろとは言えなくても、文章というキミの剣で状況を書き残してフォローして欲しかったよ、と思うんじゃないだろうか。
8月に堀田善衞本を読みましたけど、もう内容を憶えていません。600ページ以上を二週間ぐらいで読み通しましたから、面白い本だったという記憶はあります。 「承元元年(1207)七月四日のこと、一昨年より飼っていた猫が放犬にかみ殺された。日記には、「年来私は猫を飼わない主義だったが、妻がこれを養ったので自分も共に養った。三年来掌の上や衣の中にいた。他の猫は時々鳴き叫んだが、この猫はそんなことはなかった」と記す。妻が可愛がっていたので定家も世話をするうちに、猫がとてもなついてきて可愛くなった。だから猫の死に「悲慟
の思い、人倫に異らず」と、人の死と同じように悲しんでいる。あの気ままな定家にも、こんな一面があったのだ。」p.138「第六章 定家の家族 1 定家の妻 愛猫の死」 定家は応保二年(1162 月日不明)生まれですから45歳ぐらい。正治二年(1200)から正四位下、建仁二年(1202)から左近衛権中将。最勝四天王院障子和歌撰進の年。 大淀の浦にかり干すみるめだに霞にたへて帰るかりがね 定家朝臣 最勝四天王院の障子に、大淀かきたる所 新古今和歌集 巻第十八 雑歌下 1725『新日本古典文学大系 11』p.503
でも『明月記』は親ばかの息子の話ばかりなり。そこだけ選んでいるのもあるのだろうけど、先妻の息子には冷たくて後妻の息子には溺愛しているが和歌はどちらもだめだったようだ(定家判断によるから一概には言えない)。でも出世はした(公家になった)。弟の出世が著しかったので長男は出家したのだった。娘も出家した。親父に問題があったのか?晩年は嵯峨に引っ込み(隠遁生活)、『百人一首』などを編纂したので後世にとってはやはりありがたき人なのだろう。
こんばんは🌿かふさん。私もそう思っています。ありがたき人、です!
2014年京大博物館での展示を見学しました。2018年には「日本天文遺産」(日本天文学会)に選定されたとおり、平安時代の3つの超新星の記録が世界的に重要な価値があり、星の最後に形成されるガスや惑星の根幹を成す元素の研究に、大いに貢献しました。定家の筆跡はストイックなのか、流麗とはいえない尖った感を受けました。△また別の機会に、冷泉家の御当主の講演を拝聴しましたが、上記の箇所に加えて自筆の解説を配布されて、定家の日常や背景を探る貴重なものでした。
→視点がとても斬新で、それまでの見方が一新される思いがしたことを記憶している。今回、時代や歴史的背景が全く異なる領域での作品を拝見し、自由闊達かつとても粘り強い方なんだろうなと(失礼!)お見受けした。というのは、読み解くのは容易ではなかった(あとがき中の著者の言葉)この日記を、こんなに興味深く面白く、当時の人々の心の中まで活写するような形で示されたことに、読者として感謝したいです。先日テレビで、定家直筆の『源氏物語』の写本が発見されたとの報道があり本書も手にしたのですが、思わぬお宝に巡り会えた気持ちです。
中級公家だと思っていた定家さんだが、関白九条兼実家の家司に始まった九条家との関係、妻の兄弟である西園寺公経さん(こちらも太政大臣)の後押しや、息子為家の妻が北条時政の孫で、岳父宇都宮頼綱との関係から百人一首かうまれ。また後鳥羽院からの勅命による新古今集、その後の新勅撰集など、かなり公家社会中枢との繋がりでもって諸々のことが大成されたことがよくわかった。歌の家としてやはり卓越した資質の持ち主だったのだろう。その反面の、人間くさい一面が日記の合間にこぼれ落ちているのが、好対照だった。
“『明月記』は徹底して私の視点で書かれた、いってみれば「極私日記」であった。この時代に、これほど“じこちゅう(自己中心的)”な記述も珍しい”
→また細かな訓読文ルビがあることも貴重。この時期の公家日記は独特の言葉遣いがあって初心者にはむつかしいが、難解な言葉の説明や読み方がさりげなく記してあって、癖のある言葉遣いの意味を明らかにしてくれる。ただ、著者自身はさほど教育的配慮は無く、思うままに文章を書くことを楽しむ様子も。奥付によれは1930年生まれ、今年90歳になるがお元気で何より。
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