近代日本の大学が翻訳機関として日本語を現地語から国語にし、学問のできる言葉にした。学問の言葉は文学の言葉へと変遷。しかし現在、近代日本で優れた文学が生まれるのを可能にした条件が崩れつつある。知的、論理的、美的な書き言葉としての日本語の存続する条件が崩れつつある。一因は英語が普遍語になったこと、インターネットの出現がそれを助長させることにある。また別の問題として、日本で流通する文学が内側から幼稚になっていることがある。作家が言葉そのものに向かい合うのを強いられなくなったことや戦後の日本語教育などが理由。→
読まれるべき言葉を読みつぐのが文化である。その言葉を教えないのは文化の否定である。英語教育はある程度必要だが、日本人はなによりまず日本語ができるように、そのために日本近代文学を読み継がせることに主眼を置くべきだ。なぜなら、歴史的にも地理的にも気運が重なった時代に、気概も才能もある人たちが曲折しながら言葉そのものに向き合って生まれた文学であるから。この先英語に吸収されてしまう人が増えていくのは避けられない。ならば。日本語で読み書きすることの意味を問い、その意味そのままの日本語であり続けることを選択すること。
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方もいて、いわゆる方言の語彙が辞書に掲載されていない(藤原氏は生活語と呼ぶべきと書かれていた)現状についても書かれていて……語学的な能力と植民地支配の手先みたいになるのも異なりますし、Google社とかの野望は楽観的にすぎるので……今だったらこの辺の論調も生成AIも絡めた話になるような気はします。漱石みたいな真性インテリだったらリチャード・パワーズみたいな、SFやミステリーの要素も入った小説を書くのではないでしょうか。デファクトスタンダードで押し切るのだけでは、良いものにはならないです。
19世紀とかはまだ写真や映画がありませんでしたので、小説の文豪は比較的、出やすかったのかも知れません。著者宛の葉書には、米Google社とかよりNSAが問題では?とか、いわゆる言語帝国主義に反する言論や活動に関連した話なども書いておきました。日本の場合、識字率等が高くなければ、いわゆる明治維新も成功しなかったのは間違いないです。普遍語と国語、現地語のはなしとかも良いのですが、藤原与一氏の言われていた生活語(いわゆる方言)を網羅した日本語大辞書も重要では?と思いますね。