形式:文庫
出版社:光文社
形式:Kindle版
ホッブズは様々の面で「言葉」というものに強くこだわっている。大陸哲学者どもの書いたものと違い親切であるしけっして難しい内容ではないのだが、余裕があれば原語で読んだほうがより正確な理解が得られるだろう。私は読まんけど。
わざわざ「闘争『状態』」と強調したのは、個々の闘争と闘争状態は異なるからだ。表面的に戦闘行動がおこなわれておらずとも、戦争状態そのものは解消されていない。「一度や二度にわか雨が降ったからといって、それは悪天候とは言わない。悪天候の本質は、にわか雨が降るような天気が何日間も続くというところにある。」ホッブズが考えていたのはまさに「永遠平和」ということだろう。
冒頭の人間本正論はアリストテレスへの目配せであると同時にスコラ哲学、もとい教会権力への威嚇にもなっている。権利請願が出たとはいえ、まだまだ王権神授説が幅を利かせていた時代にこういう構成を取るのは際どい判断だったと思う。(ロックが聖書から自然権を導出するのとは逆)。清教徒革命を考慮すると、もっと君主論のような内容になっていてもおかしくなかったのではないか。もっとも、そうなると社会契約説は産まれなかっただろうが。
最初の方に定義が続いていて、そうだよね、それはそれで、しょうがないよね、っていっていたらいきなり万人の万人に対する闘争を認めなくてはいけなくなった。しかも電車の中、もう駅に着く。最悪だった。反証できぬまま認めてしまった。でもなんか違うと思うんだ。話を持っていくやり方が凄いうまい。気づいたら認めてた。その一本道しか見えなかった。さすがホッブス。アンナが認めるだけのことはある。久々に感動した。やられた。大どんでん返しとは言わない。すべてが繋がる爽快感。腹立つけど。とりあえず2を読まないと何とも言えない。
造物主は、人間の心身様々な能力において「平等」に造ったと。そのため敵愾心・猜疑心・自負心から紛争が生じる。万人の畏怖する共通の力を欠いた(法の執行力がない)場合、戦争状態となる。「自然権」とは各人が備えている自由であり、「自由」とは外的な障害のないことであり、「自然法」は理性によって発見された普遍的な行動規範である。自然状態では自然権から、自分の生命を守るために他人を危害することは許される。自然法は「平和を求めて努力せよ」と命ずる。ここから「自分の自由の限度を甘受しなければならない」との自然法が生まれる。
各人が思い通りの自然権を行使する限り、戦争状態から脱出することは出来ない。自由の限度は、相手の自由をどれだけ許容するかによって定まる。相手に許容するのと同じだけの自由がゆるされるのだ。契約とは、権利を相互に譲渡することだ。そして契約は守られなくてはならない。契約の不履行は不正である。不履行をしないように強制力を確立する必要がある。政治的共同体が必要になってくる。当時は契約の拘束力が大変強かった。三位一体の聖霊が「使徒として語ったり働いたりする」と知った。人格において、既に自然人に加え法人格の概念があった。
(2/2)「北斗の拳」という漫画は「リヴァイアサン」を体現していると私は思います。政府という機能が失われれ、無頼漢が無秩序を作る世界。ラオウという権力により秩序が回復するという話です。平和を実現させるのは「王権神授説」ではなく「社会契約」。市民が認める公共の権力による支配というのは一理あると思います。
岩波文庫じゃないと全部読めないんですね。光文社ではなく岩波文庫を読み直します。
募り、争いが起こるというのが1巻のハイライトのようです。デカルトを批判するのはイギリス経験論だからといえばそれまでですが、読んでいて退屈な1巻の前半でした。
古代ローマ人は、世知と学識を区別していた。前者は経験豊富で、後者は学問があること(86頁)。知力:人が誉め重んじ自分にあればよいと願う頭脳の力(120頁)。権力者が人当たりの柔らかい態度なら、人心掌握できて権力は増大する(152頁)。相手が話をしているのに居眠りしたり、席を外したり、私語したりするなら、相手を貶める(157頁)。大学のマスプロ講義、気を付けなはれや。戦争の本質:平和に向かう保証のないまま長期にわたり戦闘反復の傾向が知られていること。それ以外は平和(217頁)。
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