残したいつぶやき、255字を超える書評、短編集における一作一作の評をこちらにまとめておくのです。
私のSNS内柳行李なのです。
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【私の成分百種の三十二「デヴィッド・ボウイ『ロジャー』」】
デヴィッド・ボウイというのは面白い男でして、いろいろな矛盾や不思議を持っています。過小評価されている作品も多くて、もしかするとわざとやっているのではないかなあ、そう思わずにいられない作品もいくつかあります。そのうちの一つがいわゆるベルリン三部作の最後を飾る『ロジャー』です。
『ロウ』でテクノ、ニューウエイブを我が物にして、テクストを最小限にそぎ落とすという荒業も重ねてセールスは振るいませんが大名作としてロック史上に輝いています。その兄弟作ともいえる『“ヒーローズ”』は『ロウ』の鬱的世界を保ちつつも希望の光をきらめかせて後にパンクをも高みからとらえるといった離れ業をこなしています。これもまたセールスは振るいませんがロック史上の宝です。
で、この『ロジャー』なのですが、楽曲のバラエティ、ユニークさは前二作を超えています。楽器へのアプローチも実験的で極めてテクニカルです。なのですが、アルバム全体のトーンがまとまっているのです。これはとっつきやすいという長点でもあるのですが、変化を求めるボウイファンには肩透かしととらえられる危険もあり、そちらの危険にはまってしまったのです。つぶさに聴けばけして実験的アプローチの面から見ても、先見性のことからも前二作に引けをとる作品ではないのですが、このトーンを整えるということをボウイはわざとやったのではないでしょうか?理由は考えれば考えるほど出てくるのですが、オーディエンスをからかった?新しい要素をつかい、どこまで普遍的なロックができるかをためした?ボウイの謎かけは多すぎて難しすぎて楽しいです。
この作品で時々顔をみせるアヴァンギャルドさを際立たせて、自作『スケアリー・モンスターズ』においてボウイのニューウエイブは最高潮に達します。
高く、遠くにいるボウイ、彼の存在に感謝を。
『鏡花コレクションⅡ』より「伊勢之巻」
男ありける、はずなのですが人妻が冗談半分一目をさけること半分でその男を押し入れにかくまうと、ありけるはずの男は姿を消します。古典好きの鏡花、大暴れです。題名そのもので、『伊勢物語』が通底しています。していますが業平もまさか押し入れに閉じ込められて、そこが底も天もない未曽有の世界だとは思いもよらないでしょう。鏡花にかかるとだれでもが光のささぬ闇の世界、それか色輝く光の世界に連れ去られます。極めて短い物語ですが、広大無辺なところに行かされます。鏡花は怖いですねえ。
『鏡花コレクションⅡ』より「池の声」
鏡花と言えば幽霊譚や幻想譚に目がいきます。ふと現れる幽霊、霞の向こうに見える花もかくやの高楼の一室は鏡花の独壇場と言っても過言ではないでしょう。さらに鏡花の物語の愉しみは会話の妙があるのです。蛙と緋鯉のかけあいのような会話は芝居の口上を聞くかの心地よさ。心地の良いことではあるのですが、その中身は町を紅蓮に包む大火の顛末。鏡花はそれを鮮やかに文字にして、読み手の心に炎を描きだします。痩せた、強い度の眼鏡を掛けた潔癖症の物書きの筆は水の中の楼閣も造り出せれば、それを地に運び焼き尽くすこともできるのです。
折口信夫『死者の書』
文字数としては長めの中編くらいのものであるが、そこに込められた思い、祈り、闇、恋は簡単に汲むことができない。
この作品は組み方、構成、宗教神話的な重層さから難解と言われることも多いが、難解なのではなく多種多様な理解と解釈を生むことのできる大きさ、幅広さを持った物語である。
多層多重の一端である宗教観、作者が「ゑぢぷともどきの本」と言っていることから、エジプトの『死者の書』や古代エジプトの神話、オシリス神話などの面を踏まえてみたい。
(1)底本としての『エジプト死者の書』
題名の『死者の書』というのは古代エジプトの埋葬の際にピラミッドの玄室や、王や有力者の棺、またはパピルスに書かれた死後のための覚書を十九世紀、プロイセン王国の学者、レプシウスが出版する際に名付けた書名であり、折口は当然それを踏まえての題名としている。物語を追っていくと題名のみならず登場人物にもその影響、出自を求めることができる。
大津皇子(折口版『死者の書』〈以降『死者の書』は折口版をさす〉では出版が昭和十四年ということもあり、皇国感への配慮から滋賀津彦としたが、大津皇子のことである。以降は滋賀津彦を大津皇子とする)はオシリスの影響が強い。オシリスはエジプトにおいて冥界の王であるとともに植物神でもあり、体を緑で描かれることが多いのもその表れ、『死者の書』第一章の中で大津皇子が目覚めた時の一文に「彼の人の死枯れたからだに……」、また第五章には「岩屋の中に矗立(しゅくりつ)した、立ち枯れの木に過ぎなかった」とあり、植物としての性を与えている。また、オシリスは弟のセトに体を切り刻まれて一度は死ぬが、大津皇子も異母兄の草壁皇子が天皇に即位するのに目障りだとして叔母であり、草壁皇子の母である持統天皇の勅命により処刑される。これは兄弟による殺害という共通点である。
藤原南家郎女、『死者の書』の主人公が失踪、女人結界の禁を破り万法蔵院にたどり着いたのは魂が肉体から離れて(古代エジプトの人々は人は死ぬと魂〈バー〉が離れると考えていたことと、この表現は無関係ではない)いるからと考えた万法蔵院が建っている地、当麻の行者をつかい魂呼びをしたことが大津皇子を呼び起こしたことからオシリスの妹で妻、セトにより殺害されたオシリスを再生させたイシスの役割を担っている。
藤原郎女が春秋の彼岸の中日に見た俤人は太陽神ラーであろう。もちろん物語りの中では阿弥陀仏としての存在でもあり、この多様さが『死者の書』を多層多重にしているのである。
また、この俤人をキリストとする説もあるが私には考えづらい。俤人は西洋人、アングロサクソンとしての金髪、肌の白さではなく太陽の光輝く存在としてのそれらであり、仏教の日想観につながるものである。さらに言えばキリストその人は黒髪で浅黒い肌をしている。折口が日本的宗教にキリスト教のような一神教的強さを欲するのは国家が太平洋戦争に敗れて、国の存続に危機が訪れた後である。
(2)エジプト神話の引力
大津皇子は第一章、第二章において自らが何者かを忘れており、名をも忘れていた。
古代エジプトにおいては人が死ぬと人間の人間たる五要素がバラバラになるという。すなわち肉体、名前、影、バー(魂、精霊)、カー(魂、霊体)である。大津皇子は名を自らも忘れ、肉体は「腊
(ほしじ、干し肉のこと)のように、ぺしゃんこになって居た」のである。また、射干玉の闇にいるのでおのずと影も失っている。その中で当麻の行者によって魂(バーとカー)が蘇ったのである。
藤原郎女は第十一章において自らが鶯になる想像、幻覚を覚える。古代エジプトの魂、精霊を表すバーは人面鳥体であり、それを踏まえての表現であろう。また、鶯は日本や中国においては冥界とこの世を行き来する鳥だと言われている。つまり藤原郎女の魂は俤人を見て後は肉体から遊離しているのである。
太陽神ラーは日々、死んでのちに生まれ変わるという。生きるものの信仰としては東を拝むことが理に適っているように思う。しかし藤原郎女は俤人を追い、西へと向かう。それは死後の国に安らぎを求める、大津皇子の安らぎももはやこの世にはないことを知っての(無意識ではあろうが)行動、供養に思われる。ラーであり、山越しの阿弥陀仏である俤人は四度目に藤原郎女と相対した時、彼女が第十七章において「今少し著(しる)くみ姿顕したまへ」と願い、その目を開けて、口を開く。
目を開けるのは仏教における開眼供養であり、口を開くのは古代エジプトの死者に対する口開きの儀式であろう。それは藤原郎女が死者の国に行くことへの赦しではないだろうか。そののちに彼女は自らが織った布に彩色を施す。俤人を描き、万法蔵院を描く。それはみるみる極彩色の世界を表し菩薩が数千現れたという。それは古代エジプトの墓所、玄室に据えられた棺に描かれた「死者の書」、いわゆる「コフィン・テキスト」に通ずる。
(3)祈りへの道
折口は『死者の書』の執筆動機として「こぐらかつた夢をある朝見た」ので、それを小説として書いてみたかったという。執筆しているうちに自らが中将姫―藤原郎女―となり、自らが中絶した作品『神の嫁』と重なり合い古代日本へと舞台を移す。
折口の見た「こぐらかつたような夢」というのは学生時代に折口が恋慕の念を持っていた同級の少年が自らへの恋心を吐露した夢、折口信夫は同性愛者である、であり、いわゆる「まれびと(放浪者や異端者がある集落にふいに現れて、そこになかった宗教観や神々のことなどをしらしめること)」を提唱する折口であるので夢に対しても何かしらの預言めいたものを感じていたのではないだろうか。
自らの風変わりな夢から始まった物語は古代日本の大和へ舞台を移して進行していく。恋こそは人の思いの純粋さ、関係の源泉と見ている折口にとって自らの恋心が仏性へ思いを馳せる藤原郎女に変化して、自らの存在、命の意味を世に問いたい大津皇子が登場して藤原郎女に執着恋慕するのは自然な流れである。
しかし、日本の宗教観、神道、仏教では死後の世界そのものには救いがなく(神道では死後の世界はなく、仏教は輪廻を繰り返す)、民族とは個の集まりであり、そこでの個が「こころおどり」することが神への感謝の念の発露であり祈りだと思っていたのではないだろうか。だとすると個が消える神道、個が変化する仏教ではこの物語の、藤原郎女、大津皇子の祈りは成就できないのである。
古代エジプトの死生観は死後、その死後の世界で個は個のまま生きるのである。そこに折口は自らの恋と命のきらめきを永劫のものとするための祈りとして、この「ゑぢぷとものどき」の物語を書いたのだろう。
この物語の本質は祈りである。
【井戸端ひとり言「奈良旅行つらつら回想記」】
この木、金、土曜日と奈良旅行に行ってまいりました。奈良の人々はいい距離感で観光客を放置しています。心地の良い解放感に包まれます。
一日目に興福寺、東大寺というメガテンプルにお邪魔しまして、興福寺の五重塔の姿にさっそく胸を貫かれました。大地を踏みしめるような姿は仏舎利を抱き世の安寧を見渡していてくれるように感じて「釈迦如来様に見守られているならはしゃぎまわらしていただこう」という都合のいいとらえ方をして、参詣散策いたしました。
興福寺では国宝館の仏像二尊についてのおしゃべりを。
旧食堂の本尊、「木造千手観音菩薩立像」はいわゆる仏様の実際の体格と言われるいわゆる丈六(約五メートル)の仏様で、その美しさと優しさに包まれながら拝んでいましたら、手の一つ一つに柔らかなまろみと温かさ、厳しさを感じたのです。
手を動かすことはすなわち頭や心を動かすことです。千手観音菩薩様はそれを千の手、一つのお心でおこなっているのです。私は二本の手で行うことも上手く制御できません。多くの利他的なことを一つの崇高なお心でおこなうことが如来さまなのだなあ、と感じ入った次第です。
そして、その昔には山田寺の本尊であったという「銅造仏頭」を拝んで感じたのが、「仏様はお寺にいてこそ、そのお力を発揮できるのではないかなあ、ということです。この澄んだ表情が可愛らしくも思える仏頭は五年ほど前、東京藝術大学美術館においでになっていまして、その時にお会いしているのです。その時は当然、感嘆して拝見したのですが、今回のほうが、そのまろみ、すずやかな目、力強さが格段に感じられるのです。いるべきところにいる。そのことについて考えさせられました。興福寺という境内にいるだけで東京での様子と多分に違うのですから、東金堂に、今はない山田寺にいらしたらどのように輝くのでしょう。
二日目は私を奈良に誘った物語、『死者の書』を心に刻み、身体で感じたく当麻の地に行き、二上山を登り、當麻寺を参詣したのです。
大津皇子という(物語では滋賀津彦)死者がこの世と自らの存在意義を捨てきれずにいる。その皇子が中将姫(物語では藤原の郎女)に自らの命と存在のあることを知らしめるために訪れるのです。中将姫は少しずつ、蓮の花が開くように照る仏性が自らを、大津皇子を、周りの人々を浄土へと導きます。
あまりにも素晴らしい物語に心を揺さぶられて、その山越しに阿弥陀仏が姿をあらわすという二上山に登ってきたのです。
自らの人としての魅力、能力が裏目に出て、叔母である持統天皇に討たれたという大津皇子のお墓が双耳峰である二上山の雄岳にあり、手を合わせてきました。識者や学者の中には雌岳側のふもとにある鳥谷口古墳が大津皇子のものであるという人もいます。私もそれに賛成なのですが、山頂にお墓があることによって大津皇子の魂は安らいだと思うのです。叔母に誅されて粗末な石棺に葬られた皇子を誰かがきちんと弔わなければ、そう思い春分秋分にはその山の中央に日が落ちるという二上山の頂上にお墓を造営したのでしょう。その心はかの皇子に伝わっているはずで、清々しく思い、心温まりました。あ、登山ブログなどを見ると「ハイキング程度」やら、「超初心者向け」と書いてあるのもありますが、けっこう歩きで、ありましたよ。
當麻寺には日没までいまして、仏心を求めて読経三昧の中将姫の心を、この夕日が毎日包んでいたのか。そう思うと胸に温かさと切なさがせまり、胸がいっぱいになる、そんな夕日と当麻の地です。山の心がすとんと身に入るように思いました。
三日目は法隆寺です。これがまたなんとも。暑いさなか、南大門をくぐると、すうっと心が涼しくなり、実際に広いのですけれども、広大無辺というような感じにとらわれました。西院伽藍に入ると、その感覚はさらに強まり、背筋を伸ばさずにはいられません。これはたぶん祈りや仏、僧の思いや力が回廊や壁が結界となり充満しているからだと思うのです。東大寺や興福寺のように解放されているお寺はその場その場でじわりと力や広がりを感じましたが、法隆寺はそれが境内に満ちているのです。どちらが良い、どちらが悪いということではもちろんありません。寺院や場所の性格だと思います。
この三日間で多くの仏様にお会いしましたが、その中で二尊、若くして亡くなった従兄弟に似ている仏様がいらっしゃいました。
素晴しい旅ができたことを感謝しています。
あ、食べ物もおいしかったです。当麻寺駅まえの「中将堂本舗」、ここの草餅が美味しい、お店でいただけば出してくれるお茶もまたとろりと甘くてたまらんのですよ。
【井戸端ひとり言「川本喜八郎監督『死者の書』」】
私には二つの大切な物語があります。泉鏡花の『天守物語』と折口信夫の『死者の書』です。『天守物語』には坂東玉三郎、渾身の創作による歌舞伎舞台があり、一つの崇高な世界をつくり上げています。そして今日は川本喜八郎による『死者の書』、その映像作品を鑑賞しました。素晴らしいとしか言いようがありません。人形によるアニメーションは千三百年の昔を思わせるにぴたりとあっていて、生きる人々、死者が神の宿る山のふもとで阿弥陀仏に見つめられながら一体化してゆく様子は得も言われぬ味わいです。声優がまたいいのです。郎女の宮沢りえ、語りの岸田今日子、滋賀津彦の観世銕之丞などなど、です。小説、近藤ようこの漫画のそれぞれにある印象とそこから得る思いはここでもまた、新しい着想を得て物語を豊かにします。言葉、語り、映像によってつくられた真珠のごとき物語、この世にこのような美があることをありがたく思うのです。
東日本大震災当時に被災された方々は、秩序と品位を守り静かに耐え忍びました。自らを犠牲にして誰かを助けた方も多くおいでです。その方たちのふるまいや心を私は生きている限り忘れません。亡くなられた方、被災された方、苦しんでいる方が人として崇高な姿でいらっしゃることを私はいつも思い、その方たちが守ろうとしたことに心を向けて生きていきます。東日本大震災で亡くなられた方の魂が安らかでおられることを祈り信じます。被災された方、今だにご自分のお住まいに戻れない方、苦しんでいる方の重荷がわずかでも軽くなることを願います。
【私の成分百種の三十一「プリンス『1999』」】このアルバムでプリンスは彼のヒーローであるジェイムス・ブラウン、スライ・ストーン、ジョージ・クリントン、デヴィッド・ボウイなどと同じステージに立ったのです。プリンスらしい音というのはこのアルバムよりも前に確立しています。前々作の『ダーティ・マインド』は実にプリンスらしい攻撃性を秘めた個人的な作品で、素晴らしい出来でした。しかし、個人的というのが魅力でもあるのですがまさにマンツーマンな対話的なファンク、ロックは強さがありませんでした。オーディエンスの意識をすら変えるアーティストはやさしさ、美しさ、コマーシャルさとともに強さが必要なのです。
プリンスは個に入り込み制作を行い、精密に精緻に作り込みますので繊細ゆえのもろさも感じられたのですが、本作『1999』では作り込む際にバンドの形式を選び、完全なコントロール下に置きながらもバンドならではのぶ厚さ、良い意味での雑多さがみられます。その結果がこの大傑作『1999』に結実するのです。マンツーマンなのは変わりません。繊細さも攻撃性も増しています。
いままでは「音楽」を制作していた彼が、「アルバム」を制作するようになったのです。
プリンスと言う名のキングが登場したのです。
【私の成分百種の三十「ジョン・レノン『イマジン』」】眼鏡をかけたビートルは極めて理知的です。たぶんこの人は作曲過程では凝りに凝ったコード進行やメロディを創っているはずです。人の心に響くトーンなどは考えに考えたものに思えます。そして、そのうえでジョンは多くの人に聞いてもらうために粋を極めるように単純にしたのだと思うのです。
アルバム・タイトルにもなっているイマジン、彼はメロディもリズムも極めてシンプルに進行させて、ピアノも少し習った人ならば簡単に弾けるでしょう。ジョンは手の大きい人だったようで、たまに幅広いスケールがあらわれますが、そこを頑張れば本当に簡単に弾けますが、しかしその響きの美しさは類を見ません。そしてストレートでありながら心にそっと問いかけるような歌詞、ジョンはこの歌を通して自分で考える、自分の心を見つめることを伝えたかったのでしょう。だからこそ、一度聴けば忘れがたき美しさとシンプルさを重視した曲作りをしたのだと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=wARpk54fv8U
私はこのアルバムの中で一番好きなのは、いえ、ジョンの曲の中で一番好きなのがジェラス・ガイです。
https://www.youtube.com/watch?v=wADRRYNHhOA
ハイ・トーンで歌われる切ない、そして強い意志を持った曲です。
この曲の魅力を私がくだくだと言うよりも、カヴァーした人たちをあげればいいと思うのです。誰もかれも良い曲コレクターたちです。
ダニー・ハサウェイ、https://www.youtube.com/watch?v=LfY4NLxl72g
ブライアン・フェリー、https://www.youtube.com/watch?v=hRzGzRqNj58
そしてロッド・スチュワートです。https://www.youtube.com/watch?v=KlqqlddVQs0
お時間があればぜひお聞きになってください。
若くして亡くなった、夢の途中で天に召されたジョン、その魂は曲とアルバムがある限り、つまり人の世がある限り生き続けるのです。
命は永遠の側面も持つのです。
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