言い回し的なところをクリアするにはドイツ語原文に当たるしかないかと。どんな名人的な翻訳家でも言語の壁は超えられませんからね。言語によってスキーマ(認知の深いところでの分類法)が異なるので、翻訳はその壁を絶対に超えられないんです。例えば、色であっても日本語でいう赤・青・黄は、英語でいうRed,Blue,Yellowと完全に一致しないんです。だから、そういうズレを無くすなら科学的な表現で、黄色(Yellow)は波長 570〜585 nm という取り決めをするしかないんです。しかしこういうことが出来ない
抽象的な概念(自由とか平等とか存在)などは、正確に翻訳できないんです。日本語の自由(自ずから由)は仏教由来の言葉で、自然的な感覚は自分の外側にあるものではなく、自分の内側にあるという意味ですが、英語でいう自由には二種類あり、Freedomは束縛されてないだけの受動的な状態をいい、Libertyは束縛されておらず、かつ自分の意志にみあった選択ができる能動的な状態を言うんです。我々が自由と聞くと多くの人はLibertyの意味に取るわけですが、それは明治以降からのアメリカナイズした自由だと言えるわけです。
これが存在になるとさらにやっかいです。日本語は存在を分類しませんが、英語は三つに分類するんです。existence,presence,being と。existenceは認識作用があろうがなかろうが絶対的にある存在、presenceは今ここで感覚をとおして認識している存在、beingは今ここで意識にのぼっている存在になるんです。で、当然ドイツ語にもこうような日本語と異なるスキーマがあるんです。ドイツ語の場合、存在は日常的にはSineを使うのですが、これは英語でいうpresence,beingの範囲に
またがるんです。なので、カントもハイデガーも文章表現に苦労してるんです。ハイデガー哲学にある日本語訳の現存在はドイツ語では、Dasein ですが、これはハイデガーの造語で、英語いうpresenceの部分を限定して指しているわけです。で、その現存在(これはカント哲学でいうところの認識作用なんですがね)が認識している対象をハイデガー哲学では存在者(Seiende)としているんです。なので、これら二つの単語を認識と存在の関係に言い換えると、Daseinという認識作用によって認識されて存在するものを
Seiendeと言っているんです。日本語だとこれが現存在と存在者になるのですが、ハイデガー哲学を読む多くの一般人はこういうところまで目が行ってないので、現存在とか存在者の意味を誤解するので、そこから全体の内容の誤読が起こるわけです。こんな感じでカント哲学を本気で理解しようと思うなら、ドイツ語原文を読むしか道はないんです。これは学問学者の世界では当たり前の所作なのですが、一般人がやろうとするなら、10~15年は覚悟する必要があるんじゃないでしょうか。例えそこまでしなくと、ドイツ語の文法をとりあえず学べば
原文がどんな感じの文章かが推察できるようにはなれますが、こういうのは所詮は付け焼き刃でしかないんですね。ギリシャ語は日本語と同じように主語をいくらでも省けるし、馬鹿みたいに長い複合文もつくれるとか知っていると、アホみたいに長い翻訳文の原文もまた長ったらしい複合文だとか推察できるようにはなります(でも付け焼き刃です笑)。ともあれ、その国の言葉で書かれたものをちゃんと理解したいなら、その国の言葉を習得するのがベストだとは思います。
あと、哲学書を読む意味は、著作の内容を適切に理解することではないことを念頭に置いておくといいかと。つまり哲学書を読むことは、様々な知識を吸収して、自分のなかに自分にとって絶対に揺るがない思想体系を作ることが目的ですから、哲学書を読むという手段に拘りすぎると、目的を見失うことになりかねません。そしてそういう行為はショーペンハウァーが言ったように他人の思考をそっくりそのまま受け売りした自分を作ることに他なりません。そうではなく、自分の思考思想・哲学の体系をつくるために我々は学んでいると考えておくといいかと。
なので、カントだけに拘りすぎるのではなく、広く(宗教なんかも含めて)色々な思想哲学書を読むということのほうが大事だと思います。ショーペンハウァーの言葉を念頭に置いておくといいのかと。「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる。自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、ちがう精神から発し、ちがう体系に属し、ちがう色合いを帯びているので、決して思想・知識・洞察・確信が
自然に融合して、ひとつにまとまってゆくことはない(『読書について』)」以上、長文連投のお節介でした(^_^;) 別の言い方をするなら、作家というのは様々な作品を書いていくことで、自分のなかに思想哲学の体系を確立している人ですし、音楽家はそれを音楽で、画家はそれを絵画でやっているだけのことですからね。あんまりミクロに拘りすぎるとマクロが全く見えなくなります。逆もまたしかりなので、ミクロとマクロのバランスが重要かと。
最後に余計なお節介をもうひとつ。私が見た中で時間的にも内容的にもとてもよく纏まっていると思った動画を紹介しときますね。https://www.youtube.com/watch?v=YE7d-fFT72c この方は大枠ちゃんと理解できてますが、よくわからないところ(疑義が差し挟める部分)はバッサリ説明を省略してますがね。具体的に言えば、総合判断と図式(時間)、カテゴリー論のあたりですね。総合判断については省略しますが、図式というか時間というのは、カント以降いろいろ考え方が変わってゆく部分です。
人間の意識には意識作用(見る側)と意識対象(見られる側)があるので、双方の間におこるズレが時間の正体だというようになるのです。なので、カントの感性→カテゴリーというのは時間の流れだというのは、後に検証され別の方法で記述されるのです。もっともその辺のことは今も決定的な理論は提出されてません。なので、カント哲学だけに捕われてきちんと理解すればするほど、今度はカント哲学にある疑義から脱却できなくなる危険性もあるわけです。
イプシロンさん、いつもアドバイスいただきまして、ありがとうございます。「哲学書を読むことは、様々な知識を吸収して、自分のなかに自分にとって絶対に揺るがない思想体系を作ることが目的」←以前にフレーゲに関するつぶやきをしましたが、同じようなコメントをいただきました。まだそれを学ばない自分が恥ずかしく思います。未だ哲学書をどこまで理解・把握するべきなのかが自分の中で定まってない気がするのです。わからないところは思い切ってバッサリと切り落とし、要点だけを理解したら、他の哲学者の書を読むのが理想だとは思うのですが、
どうも読んでいて、わからないところにぶつかると、なんとなく気持ちが悪い気がしまして、なんとか理解したいという気持ちが強くなってしまうのです。多分、仰るとおり捕らわれてしまっている状況なのだと思います。ミクロとマクロのバランス、これは本当に難しいです😓
ミクロを理解できないと気持ち悪い、悔しいという気持ちはとてもわかるんです。私もそういうとこありましたから(今もあります)。でも、実はそこが罠だったりします(経験上)。牛を知りたくてバラバラにしていくと最後は原子や素粒子にいきつきますが、そこに至ったとき、あれ? 牛って全体的に見るとなんだったっけ? みたいに人間の思考は陥りやすいんです。もっとも、今度は素粒子レベルから牛全体に戻って行く方向で考えればいいだけとも言えますが、そうなると今度は牛と牛以外、つまり研究対象とそれが置かれた環境との関係に目を
向けざるを得ないんですね。つまり、牛を知りたいなら、牛と牛以外の関係を念頭に、牛を深堀りするという姿勢を忘れないほうがいいかなというお話です。牛:牛以外:牛を深堀りという1:1:1の関係を人間の意識思考は処理することが出来ないので、1:1の関係を作らざるを得ないということです。もちろん、どのように1:1を作るかも、その人がどんな思想体系を持ちたいかなので、私がこれとこれの1:1を学ぶべきなどとは言えないんですけどね(^_^;) もっとも、1:1:1の関係を1:(1:1の集合したもの=1)という
関係にもできますが、この思考をするためには集合論を知っている必要があるわけです。なので、あえて思考センスのあるとお見受けした湿原さんには、難しいことをぶつけていたりするんですよ😊 ただあんまりやりすぎると過干渉になるのも意識してはいるんですが、根がお節介なもので(^_^;) すみませんね😅
最近、福岡伸一さんの言葉「世界はわけけないことにはわからない。しかし、世界はわけてもわからないのである」を紹介しましたが、これはそういうことなんです。世界にいる牛を探求しようとして、牛を調べると、牛全体に対して牛を細分化した関係として知ることはできるんですが、それによって牛と世界がとりもつ関係が失われてしまうんですね。バランスという言葉は私自身も常に念頭に置くようにしてますが、難しいですよね。優秀な学者の福岡さんでさえ、それに気付けなかった時期があったわけですし。つまり今自分がどの1:1の関係を
探求しているかを、お互いに忘れないようにしたいですね、というお話だったりします😊 成田悠輔氏なんかは常に全体を見据えたうえで専門的であることを意識している人ですね。専門家のなかには自分の専門分野の話なら何でもできるが、いざ総合観(社会観や世界観)の話になると、何一つ話せない。そういう人がいるが、大事なのは、自分の専門分野が社会や世界(自分の思想体系全体)にどう役立てられるかだと解ってる人ですね。長文連投でしつこくなりましたが、そんなことをお伝えしたかったのです。
人類文明が発祥してから、常に分業化・専門家は細かくなるばかりです。特に近代以降はそれが顕著で現代人はどうしても物をミクロで見る傾向が強い気がします。例えば、車のプロがいたとして、車についてはネジ一本まで何でも知ってる人がいる。でも、オイルやガソリンや道交法は何も知らないとしたら、危なっかしいことこの上ないですし、実用実践という意味は薄いということです(笑) 博物館を経営するならいいですがね😊 けど、オイルもガソリンも知らなきゃ動態保存さえ出来ないわけで。
イプシロンさん、丁寧なコメントありがとうございます。「1:1:1の関係を人間の意識思考は処理することが出来ないので、1:1の関係を作らざるを得ない」との説明は今まで考えてこなかったので、なるほどと思いました。確かにミクロに突き進むと全体が見えなくなることは納得しました。バランス(中庸?)が大事なのですね。集合論についても勉強してみたいと思います。色々貴重なご意見、ありがとうございます!
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言い回し的なところをクリアするにはドイツ語原文に当たるしかないかと。どんな名人的な翻訳家でも言語の壁は超えられませんからね。言語によってスキーマ(認知の深いところでの分類法)が異なるので、翻訳はその壁を絶対に超えられないんです。例えば、色であっても日本語でいう赤・青・黄は、英語でいうRed,Blue,Yellowと完全に一致しないんです。だから、そういうズレを無くすなら科学的な表現で、黄色(Yellow)は波長 570〜585 nm という取り決めをするしかないんです。しかしこういうことが出来ない
抽象的な概念(自由とか平等とか存在)などは、正確に翻訳できないんです。日本語の自由(自ずから由)は仏教由来の言葉で、自然的な感覚は自分の外側にあるものではなく、自分の内側にあるという意味ですが、英語でいう自由には二種類あり、Freedomは束縛されてないだけの受動的な状態をいい、Libertyは束縛されておらず、かつ自分の意志にみあった選択ができる能動的な状態を言うんです。我々が自由と聞くと多くの人はLibertyの意味に取るわけですが、それは明治以降からのアメリカナイズした自由だと言えるわけです。
これが存在になるとさらにやっかいです。日本語は存在を分類しませんが、英語は三つに分類するんです。existence,presence,being と。existenceは認識作用があろうがなかろうが絶対的にある存在、presenceは今ここで感覚をとおして認識している存在、beingは今ここで意識にのぼっている存在になるんです。で、当然ドイツ語にもこうような日本語と異なるスキーマがあるんです。ドイツ語の場合、存在は日常的にはSineを使うのですが、これは英語でいうpresence,beingの範囲に
またがるんです。なので、カントもハイデガーも文章表現に苦労してるんです。ハイデガー哲学にある日本語訳の現存在はドイツ語では、Dasein ですが、これはハイデガーの造語で、英語いうpresenceの部分を限定して指しているわけです。で、その現存在(これはカント哲学でいうところの認識作用なんですがね)が認識している対象をハイデガー哲学では存在者(Seiende)としているんです。なので、これら二つの単語を認識と存在の関係に言い換えると、Daseinという認識作用によって認識されて存在するものを
Seiendeと言っているんです。日本語だとこれが現存在と存在者になるのですが、ハイデガー哲学を読む多くの一般人はこういうところまで目が行ってないので、現存在とか存在者の意味を誤解するので、そこから全体の内容の誤読が起こるわけです。こんな感じでカント哲学を本気で理解しようと思うなら、ドイツ語原文を読むしか道はないんです。これは学問学者の世界では当たり前の所作なのですが、一般人がやろうとするなら、10~15年は覚悟する必要があるんじゃないでしょうか。例えそこまでしなくと、ドイツ語の文法をとりあえず学べば
原文がどんな感じの文章かが推察できるようにはなれますが、こういうのは所詮は付け焼き刃でしかないんですね。ギリシャ語は日本語と同じように主語をいくらでも省けるし、馬鹿みたいに長い複合文もつくれるとか知っていると、アホみたいに長い翻訳文の原文もまた長ったらしい複合文だとか推察できるようにはなります(でも付け焼き刃です笑)。ともあれ、その国の言葉で書かれたものをちゃんと理解したいなら、その国の言葉を習得するのがベストだとは思います。
あと、哲学書を読む意味は、著作の内容を適切に理解することではないことを念頭に置いておくといいかと。つまり哲学書を読むことは、様々な知識を吸収して、自分のなかに自分にとって絶対に揺るがない思想体系を作ることが目的ですから、哲学書を読むという手段に拘りすぎると、目的を見失うことになりかねません。そしてそういう行為はショーペンハウァーが言ったように他人の思考をそっくりそのまま受け売りした自分を作ることに他なりません。そうではなく、自分の思考思想・哲学の体系をつくるために我々は学んでいると考えておくといいかと。
なので、カントだけに拘りすぎるのではなく、広く(宗教なんかも含めて)色々な思想哲学書を読むということのほうが大事だと思います。ショーペンハウァーの言葉を念頭に置いておくといいのかと。「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる。自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、ちがう精神から発し、ちがう体系に属し、ちがう色合いを帯びているので、決して思想・知識・洞察・確信が
自然に融合して、ひとつにまとまってゆくことはない(『読書について』)」以上、長文連投のお節介でした(^_^;) 別の言い方をするなら、作家というのは様々な作品を書いていくことで、自分のなかに思想哲学の体系を確立している人ですし、音楽家はそれを音楽で、画家はそれを絵画でやっているだけのことですからね。あんまりミクロに拘りすぎるとマクロが全く見えなくなります。逆もまたしかりなので、ミクロとマクロのバランスが重要かと。
最後に余計なお節介をもうひとつ。私が見た中で時間的にも内容的にもとてもよく纏まっていると思った動画を紹介しときますね。https://www.youtube.com/watch?v=YE7d-fFT72c この方は大枠ちゃんと理解できてますが、よくわからないところ(疑義が差し挟める部分)はバッサリ説明を省略してますがね。具体的に言えば、総合判断と図式(時間)、カテゴリー論のあたりですね。総合判断については省略しますが、図式というか時間というのは、カント以降いろいろ考え方が変わってゆく部分です。
人間の意識には意識作用(見る側)と意識対象(見られる側)があるので、双方の間におこるズレが時間の正体だというようになるのです。なので、カントの感性→カテゴリーというのは時間の流れだというのは、後に検証され別の方法で記述されるのです。もっともその辺のことは今も決定的な理論は提出されてません。なので、カント哲学だけに捕われてきちんと理解すればするほど、今度はカント哲学にある疑義から脱却できなくなる危険性もあるわけです。
イプシロンさん、いつもアドバイスいただきまして、ありがとうございます。「哲学書を読むことは、様々な知識を吸収して、自分のなかに自分にとって絶対に揺るがない思想体系を作ることが目的」←以前にフレーゲに関するつぶやきをしましたが、同じようなコメントをいただきました。まだそれを学ばない自分が恥ずかしく思います。未だ哲学書をどこまで理解・把握するべきなのかが自分の中で定まってない気がするのです。わからないところは思い切ってバッサリと切り落とし、要点だけを理解したら、他の哲学者の書を読むのが理想だとは思うのですが、
どうも読んでいて、わからないところにぶつかると、なんとなく気持ちが悪い気がしまして、なんとか理解したいという気持ちが強くなってしまうのです。多分、仰るとおり捕らわれてしまっている状況なのだと思います。ミクロとマクロのバランス、これは本当に難しいです😓
ミクロを理解できないと気持ち悪い、悔しいという気持ちはとてもわかるんです。私もそういうとこありましたから(今もあります)。でも、実はそこが罠だったりします(経験上)。牛を知りたくてバラバラにしていくと最後は原子や素粒子にいきつきますが、そこに至ったとき、あれ? 牛って全体的に見るとなんだったっけ? みたいに人間の思考は陥りやすいんです。もっとも、今度は素粒子レベルから牛全体に戻って行く方向で考えればいいだけとも言えますが、そうなると今度は牛と牛以外、つまり研究対象とそれが置かれた環境との関係に目を
向けざるを得ないんですね。つまり、牛を知りたいなら、牛と牛以外の関係を念頭に、牛を深堀りするという姿勢を忘れないほうがいいかなというお話です。牛:牛以外:牛を深堀りという1:1:1の関係を人間の意識思考は処理することが出来ないので、1:1の関係を作らざるを得ないということです。もちろん、どのように1:1を作るかも、その人がどんな思想体系を持ちたいかなので、私がこれとこれの1:1を学ぶべきなどとは言えないんですけどね(^_^;) もっとも、1:1:1の関係を1:(1:1の集合したもの=1)という
関係にもできますが、この思考をするためには集合論を知っている必要があるわけです。なので、あえて思考センスのあるとお見受けした湿原さんには、難しいことをぶつけていたりするんですよ😊 ただあんまりやりすぎると過干渉になるのも意識してはいるんですが、根がお節介なもので(^_^;) すみませんね😅
最近、福岡伸一さんの言葉「世界はわけけないことにはわからない。しかし、世界はわけてもわからないのである」を紹介しましたが、これはそういうことなんです。世界にいる牛を探求しようとして、牛を調べると、牛全体に対して牛を細分化した関係として知ることはできるんですが、それによって牛と世界がとりもつ関係が失われてしまうんですね。バランスという言葉は私自身も常に念頭に置くようにしてますが、難しいですよね。優秀な学者の福岡さんでさえ、それに気付けなかった時期があったわけですし。つまり今自分がどの1:1の関係を
探求しているかを、お互いに忘れないようにしたいですね、というお話だったりします😊 成田悠輔氏なんかは常に全体を見据えたうえで専門的であることを意識している人ですね。専門家のなかには自分の専門分野の話なら何でもできるが、いざ総合観(社会観や世界観)の話になると、何一つ話せない。そういう人がいるが、大事なのは、自分の専門分野が社会や世界(自分の思想体系全体)にどう役立てられるかだと解ってる人ですね。長文連投でしつこくなりましたが、そんなことをお伝えしたかったのです。
人類文明が発祥してから、常に分業化・専門家は細かくなるばかりです。特に近代以降はそれが顕著で現代人はどうしても物をミクロで見る傾向が強い気がします。例えば、車のプロがいたとして、車についてはネジ一本まで何でも知ってる人がいる。でも、オイルやガソリンや道交法は何も知らないとしたら、危なっかしいことこの上ないですし、実用実践という意味は薄いということです(笑) 博物館を経営するならいいですがね😊 けど、オイルもガソリンも知らなきゃ動態保存さえ出来ないわけで。
イプシロンさん、丁寧なコメントありがとうございます。「1:1:1の関係を人間の意識思考は処理することが出来ないので、1:1の関係を作らざるを得ない」との説明は今まで考えてこなかったので、なるほどと思いました。確かにミクロに突き進むと全体が見えなくなることは納得しました。バランス(中庸?)が大事なのですね。集合論についても勉強してみたいと思います。色々貴重なご意見、ありがとうございます!