73頁。近年では明応の政変(1493年)が戦国の始まりという事になっている。1491年に堀越公方足利政知が死んだ時、家督は潤童子移る事になっていた。そこで足利茶々丸は、潤童子とその母を殺して自ら公方を継いだが、殺された母というのが、のち明応の政変で将軍となる足利義澄の母でもあった。義澄にとって、茶々丸は母の仇であった。そこで義澄は伊勢宗瑞に指令して、母の仇茶々丸を討つように命じ、93年の夏か秋頃、伊豆討ち入りが行われたのである。明応の政変と伊豆討ち入りとは連動して、つまり東西呼応して起こった事件であった。
95頁。出雲を中心とし、伯耆・安芸・備後等の山間部は良質の砂鉄の産地であり、たたらによる鉄生産が盛んであった。出雲の鉄は明や朝鮮にまで輸出されていたらしい。城下の富田川底遺跡の発掘調査によれば、元・明の色付磁器等が出土しており、これは尼子氏による対朝鮮交易を裏付けるものとされている。104頁。三好政権の意義は、畿内において初めて幕府を前提としない大名権力が成立したことにあるが、この政権が5年の短命に終わったのもその維持の困難さを物語っている。後年、織田信長もこのとき長慶が味わったと同様の困難につき当たる。
173頁。秀吉が長久手の敗北により、将軍任官=幕府開設の断念に追い込まれたことで、従来とは異なるタイプの武家政権の構築を余儀なくされたことである。175頁。惣無事令。勅命と称して戦争休止を指示する関白の御教書で、内容は室町幕府法に淵源する私戦停止令であるが、平和を保障する権威の源泉は天皇であった。長久手の敗北によって将軍になり損ねた秀吉が、今度は天皇の代官(関白)として諸大名に臨むという、巧妙な戦略であった。この論理によって、秀吉は家康の抵抗を抑え、東国の服属をも視野に入れることが可能となったのである。
188頁。鎌倉以来、蝦夷管領として陸奥北部を支配していた安藤氏は、南部氏との争いに疲弊し、嘉吉の乱後、十三湊から追い落とされて蝦夷島へ没落した。15世紀半ば頃には安藤氏の末裔が道南十二館を間接支配する体制が成立していた。1546年コシャマインの反乱が勃発し、反乱軍は一時は十二館のほとんどを制圧したが、花沢館の客将であった武田信広が強弓でコシャマインを射殺し、この信広が蠣崎の家を継ぎ、後の松前家の祖となっている。この信広は若狭武田氏の一族を称しているが、実は日本海沿岸を航行往反する商人出身ではないかともいう
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73頁。近年では明応の政変(1493年)が戦国の始まりという事になっている。1491年に堀越公方足利政知が死んだ時、家督は潤童子移る事になっていた。そこで足利茶々丸は、潤童子とその母を殺して自ら公方を継いだが、殺された母というのが、のち明応の政変で将軍となる足利義澄の母でもあった。義澄にとって、茶々丸は母の仇であった。そこで義澄は伊勢宗瑞に指令して、母の仇茶々丸を討つように命じ、93年の夏か秋頃、伊豆討ち入りが行われたのである。明応の政変と伊豆討ち入りとは連動して、つまり東西呼応して起こった事件であった。
95頁。出雲を中心とし、伯耆・安芸・備後等の山間部は良質の砂鉄の産地であり、たたらによる鉄生産が盛んであった。出雲の鉄は明や朝鮮にまで輸出されていたらしい。城下の富田川底遺跡の発掘調査によれば、元・明の色付磁器等が出土しており、これは尼子氏による対朝鮮交易を裏付けるものとされている。104頁。三好政権の意義は、畿内において初めて幕府を前提としない大名権力が成立したことにあるが、この政権が5年の短命に終わったのもその維持の困難さを物語っている。後年、織田信長もこのとき長慶が味わったと同様の困難につき当たる。
173頁。秀吉が長久手の敗北により、将軍任官=幕府開設の断念に追い込まれたことで、従来とは異なるタイプの武家政権の構築を余儀なくされたことである。175頁。惣無事令。勅命と称して戦争休止を指示する関白の御教書で、内容は室町幕府法に淵源する私戦停止令であるが、平和を保障する権威の源泉は天皇であった。長久手の敗北によって将軍になり損ねた秀吉が、今度は天皇の代官(関白)として諸大名に臨むという、巧妙な戦略であった。この論理によって、秀吉は家康の抵抗を抑え、東国の服属をも視野に入れることが可能となったのである。
188頁。鎌倉以来、蝦夷管領として陸奥北部を支配していた安藤氏は、南部氏との争いに疲弊し、嘉吉の乱後、十三湊から追い落とされて蝦夷島へ没落した。15世紀半ば頃には安藤氏の末裔が道南十二館を間接支配する体制が成立していた。1546年コシャマインの反乱が勃発し、反乱軍は一時は十二館のほとんどを制圧したが、花沢館の客将であった武田信広が強弓でコシャマインを射殺し、この信広が蠣崎の家を継ぎ、後の松前家の祖となっている。この信広は若狭武田氏の一族を称しているが、実は日本海沿岸を航行往反する商人出身ではないかともいう