「義経=成吉思汗」前は、「義経=清朝の祖」説が一般的だった(「清」は清和源氏の清なのだとか)。こうした荒唐無稽な説に対し、江戸時代の段階で意外に真面目な史料批判が行われていたこと、また為朝を琉球に結びつける言説は琉球王国側からも利用された形跡のあることなど、両伝説の紆余曲折はなかなかに面白い。南北に対する日本人の眼差しという大枠のみならず、こうした具体的な細部の解説でも読ませる。
柳田国男曰く、伝説は昔話と異なり「歴史になりたがる」という性格を持っている。まことに鋭い指摘と思う。「信じたい伝説に有利な新たな知識や解釈に出会えば、それを都合良く自らに引きつけて、伝説は「美しい」成長を遂げる」(225頁)。たとえ野暮とか無粋とか言われようと、歴史家が真剣な態度で伝説に向き合わねばならない理由もそこにある。これは中世史ではなく現代史の問題なのだ。
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「義経=成吉思汗」前は、「義経=清朝の祖」説が一般的だった(「清」は清和源氏の清なのだとか)。こうした荒唐無稽な説に対し、江戸時代の段階で意外に真面目な史料批判が行われていたこと、また為朝を琉球に結びつける言説は琉球王国側からも利用された形跡のあることなど、両伝説の紆余曲折はなかなかに面白い。南北に対する日本人の眼差しという大枠のみならず、こうした具体的な細部の解説でも読ませる。
柳田国男曰く、伝説は昔話と異なり「歴史になりたがる」という性格を持っている。まことに鋭い指摘と思う。「信じたい伝説に有利な新たな知識や解釈に出会えば、それを都合良く自らに引きつけて、伝説は「美しい」成長を遂げる」(225頁)。たとえ野暮とか無粋とか言われようと、歴史家が真剣な態度で伝説に向き合わねばならない理由もそこにある。これは中世史ではなく現代史の問題なのだ。