本を読むのは、つらく苦しいことだ。
「ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか?きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか?やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。」(カフカ)
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同じ苦しみを持つ人にむけて、井上さんは次のように呼びかける。ここ数年の読書体験のなかで、最上級の言葉だと思う→「未来の『わからなさ』に託して、この瞬間を逃げるのだ。まず生きのびること。いまあなたが『迷惑』と思う行為が事後的に『結果、よかった』に反転するかもしれないこの世界の『わからなさ』を握りしめること。気休めじゃない。この世界の『わからなさ』だけは誰にも否定できないのだ」(p255)。
メモ。ビジネスパーソンらしさというスペックは、ウツとの相性がすこぶる悪い。人は役に立つために生まれてきたんじゃない。現代における「努力」は癒しであり安心感である。能力は個人が持つモノではなく、人と人のあいだにあるコトだ。一元的な因果関係なんて嘘っぱちだ。あえて、地縁や血縁のような「しがらみ」に飛び込むのはアリだ。コミュ力を無効化してくれる存在こそ友だち。愚かさとは、理性の失敗である。
僕が学んだケアの考え方や僕自身の経験を通して考えたことは次のようなことだ。ピンチになったら、まず誰かのせいにした方がよい(外部化)。井上さんは、日本の歴史や文化的土壌が、そもそも現代資本主義にそぐわないと話を展開する。このとき、参照する典拠に根拠があろうとなかろうと、まずは誰かのせいにできれば良い。誰かのせいにすることができて初めて、自身の内部の問題とすることができる。井上さんの書き筋は、加藤典洋さんの「敗戦後論」や國分さんの「中動態」の議論が、そのまま実現されていると思った。
まず、誰かのせいにした方が良い、と書いたものの、究極の「誰かのせい」が陰謀論だなと、はたと気づいた。だいたいこの世界の不条理は、ディープステートが仕組んだことだし、となってしまう。そうね、反社会的な宗教にも近づくかもしれないし。さて、、今のところの考えとしては、差し当たって死なないためには、陰謀論や反社宗教でも良いのかもしれない。うーん、これは難問だ。