巻末の内田隆三へのインタビューは抽象度が高く、社会学的な議論に不慣れな読者にはなかなか歯が立たないが、ある意味では、本書のそれまでの論考全体に対して冷や水を浴びせる効果を持っているのかもしれない。スポーツの/とナショナリズムをめぐる社会学的な議論では、えてして近代スポーツが規律社会との関係でもっぱら機能的に捉えられがちであるが、「スポーツが持っている、もっと多義的に人間のありようを可視化し表象する側面」(p.243)、端的に言えば、スポーツの面白さの多様な源泉にも注視する必要があるのではないか。(続)
(承前)要するに、本書の論考はナショナリズムについては語っていても、スポーツそのものについてはほとんど語られていないのではないか。それではスポーツのナショナリズムを十分に相対化することはできないのではないか。そのような警句としても読めるのかもしれない。「美しさだったり、ひたむきさだったり、圧倒する何かだったり、綿密に知的であったり、さまざまな人間の可能性やありようが身体を介して浮かび上がります。そのうえ偶然の力に左右され、あるいは奇跡的な瞬間に出会える感動もあります。(続)
スポーツはナショナリズムに準拠したり利用されたり、資本主義によって異常で過剰な身体の場にされたり、いろんな事象に巻き込まれますが、そでものスポーツがスポーツである部分、その魅力的な実質が何なのか、もう少し強調されてもいいような気がします」(p.256)。この内田の指摘に対してインタビュアーはバタイユの至高性との関連を想起しているが、それだけではスポーツの遊戯性の側面しか捉えられないだろう。おそらくさらに要請されるのは、ルール統制的で目的追求型の活動としての側面、ゲーム的側面への眼差しではないかとも思う。
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巻末の内田隆三へのインタビューは抽象度が高く、社会学的な議論に不慣れな読者にはなかなか歯が立たないが、ある意味では、本書のそれまでの論考全体に対して冷や水を浴びせる効果を持っているのかもしれない。スポーツの/とナショナリズムをめぐる社会学的な議論では、えてして近代スポーツが規律社会との関係でもっぱら機能的に捉えられがちであるが、「スポーツが持っている、もっと多義的に人間のありようを可視化し表象する側面」(p.243)、端的に言えば、スポーツの面白さの多様な源泉にも注視する必要があるのではないか。(続)
(承前)要するに、本書の論考はナショナリズムについては語っていても、スポーツそのものについてはほとんど語られていないのではないか。それではスポーツのナショナリズムを十分に相対化することはできないのではないか。そのような警句としても読めるのかもしれない。「美しさだったり、ひたむきさだったり、圧倒する何かだったり、綿密に知的であったり、さまざまな人間の可能性やありようが身体を介して浮かび上がります。そのうえ偶然の力に左右され、あるいは奇跡的な瞬間に出会える感動もあります。(続)
スポーツはナショナリズムに準拠したり利用されたり、資本主義によって異常で過剰な身体の場にされたり、いろんな事象に巻き込まれますが、そでものスポーツがスポーツである部分、その魅力的な実質が何なのか、もう少し強調されてもいいような気がします」(p.256)。この内田の指摘に対してインタビュアーはバタイユの至高性との関連を想起しているが、それだけではスポーツの遊戯性の側面しか捉えられないだろう。おそらくさらに要請されるのは、ルール統制的で目的追求型の活動としての側面、ゲーム的側面への眼差しではないかとも思う。