うまく活用したエピソード。ネガとポジの緩急が効いており、本巻では第1話と並ぶくらい卓抜。第6話・乾物屋:藤村が懇意にする乾物屋の新たな試みに、伊橋が入れ知恵することで成功へと導く。成金の二階堂を出しゃばらせずうまく使うことで、話を転がしている。第7話・夏バテ:食欲が湧かず体調を崩している客に対して熊野がアドバイスし、解決に導くという味いち典型プロット。秘伝のスープの秘密が妙味。第8話・プロ根性:カメラマンの北川なる新キャラが登場。伊橋が北川のスランプを救い、お礼で小粋な店に誘われる。新たな恋の芽生えを
予感させ、俄然期待が高まったのだが…最終的に早川が主役のエピソードにすり替わってしまうという驚きと落胆。そもそも、早川がダジャレめいた言を弄した際の周囲の反応が完全無視とは、どうにも藤村らしくない。学のない奴っちゃな〜というボンさんのツッコミが飛んでくる状況かと思うが、現在ではこのイジリは無理なのか。第9話・美食交流会再び:腕は立つけれどもいけ好かない有名料亭の板前を登場させ、伊橋と戦わせるという味いち典型プロット。他の板前と真正面から張り合うのを避け、次元の異なる戦いを演じられるくらい、伊橋は成熟した。
記憶に留めておきたいフレーズ。「人はあともどりすることができないから、[良心の咎めを感じるような悪いことをした場合には]後悔したまま、時間のなかを進んでいかなければならない。それは、重い荷物を引きずって、身動きすることも、好きなところに行くこともできないのと似ている。/時間を大切に使うということは、あまりに重いものをかばんにつめないようにするということだ。それは大事なことだ。なぜなら、このかばんは道ばたに置き去りにすることも、忘れることもできないから。それがわたしたちの過去。それはずっと人生につきまとう」
「泣くことは、自分に対しても、だれかほかの人に対しても、自分が不死身ではないことを打ち明け、自分の本当の感情を外に出すことだ。/泣くことは、自分の不幸をほかの人と分かち合うことだ。もちろん、ほかの人にいやな思いをさせないようにがまんするのはいいことだ。でも、もしその人が、わたしたちが泣くのにつき合ってくれるとしたら、それはわたしたちを愛しているからであり、愛しているからこそ、不幸を分かち合い、それを乗り越える手助けをしてくれるんだ。涙を流すということは、相手に助けを求める勇気があるということなんだ。」88
各話の後には解説のほか、漫画化されなかった他の哲学者たちの恋愛事情を紹介するコラムも掲載されており、ヘーゲル、ルソー、ラッセル、九鬼周造、ショーペンハウアー、スピノザ、キェルケゴール、フーコー、バルトが取り上げられている。とりわけ、巻末に付されたデカルト、アルチュセール、マルクスのストーリーはそこそこ分量があるが、おそらくこれらは、漫画原案として作成されたものの、最終的には採用されなかったシナリオのリサイクルだろう。
哲学者を取り上げてはいても、その思想内容についてはごく簡単に触れられるにとどまるなど、全体としては非常にとっつきやすく、読みやすい。とはいえ、史実を大きく逸脱できないという縛りが、ストーリーに限界を与えているかもしれない。ニーチェ編の、コジマを裏回しとして用いる試みはなかなかおもしろい。
ちなみに、哲学系YouTuberネオ高等遊民氏によるおすすめ本でもある。(動画とタイトルは異なるが、ムック版の本書が初出で、動画のそれは書籍版としての再録だろう) https://youtu.be/2Cf-R02hV-o?si=3F3LM7YQ8LQcNs8O
前書きに紹介されている哲学観がかなりしっくりくる。「哲学、それはいったん日常を超えて「考える」ことです。/そして、再び日常に戻って/世界や人生への感じ方や見方を変えることです。/見方が変わると、私たちは、今よりもっと自由に、気持ちよく生きることができるようになるかもしれません。」(p.2) ところが、続く第1章ではフーコーに照明を当てることにより、哲学とは何かという問いに答えが与えられている。エスタブリッシュメントに対するアンチ、抵抗としての哲学観。そういう機能はあるにせよ、それに局限されるのが嫌すぎる。
「やさしい言葉へのかみくだき」までは我慢するにせよ、その参照元オリジナルはどのような文章だったのか、せめて、ニーチェのどの著作からの参照なのかさえまったく窺い知られなくされているのは、とても残念。そんなことでは、この読書からの発展性が見込めないし、わざわざニーチェと結びつける意味さえ失われてしまうようにも思われる。そう考えると、朝日文庫のサンリオ名言シリーズ(「サンリオキャラクターズと読む楽しい『てつがく』」なるシリーズ名がついているらしい)の誠実さに、思いを致さざるを得ない。
真樹社(しんじゅしゃ)昭和56年(1981)年刊行の、真下信一を編者とするアンソロジー・シリーズについては、以下リンクの本棚参照。 https://bookmeter.com/users/1157002/bookcases/11986611?sort=book_count&order=desc
個人的に一番印象に残ったのは、趣味志向にとどまっていたものが出版物として公表され、大勢の目に触れるようになると、評価を気にして活動が続けにくくなるというゲストの発言に対する、著者の返答。「ほんまにプレッシャーって凄い解かる気がして[…]、私も今、実は文章全然書けなくなってて」「自分の本出したら書けなくなっちゃってね」(p.169)。確かに『さいはて紀行』での、取り扱われているネタの禍々しさとは裏腹に瑞々しい著者の筆致は、とても鮮烈な印象を与えたと思う。そこからの周囲の期待がプレッシャーになってしまったか…
→そうした「散文の力」はいかにして生成されるのか(物(=文字・語)の実在性・物質性を認めながら、それを超えた精神(=意味・思想)を認める。ライプニッツに絡めて言えば、「身体的な要素としては原子を支持しながら、それに基づいて形成される精神的な営みとしての思想においては「単子[モナド]」をも認め、それへと超出する、とでも言うべき事態なのです」(p.126))。その散文の力を通じて、具体的にはどのようにして創造的な営みが可能となるのか(弁証法的な運動による概念づくり・思想づくり)。どう考えても、振りかぶりすぎ。
最初から最後に至るまで、本書全体がアランによって貫かれていると言ってもよいほど、とにかくアランからの引用が多い。それは、はじめのうちこそ、大陸系の哲学研究者にありがちな気取りやひけらかし、ハイブラウな側面の露呈くらいに思っていたのだが、本書を通読してみると、それはまさに本書の目的——「本に書かれている文章から出発して、その情報を本から取り出して動かし、あからさまに他のものとリンクさせ、最終的には新たな本の執筆をまで視野に入れるという、文章そのものとのつきあい」(p.8)——の例証であったことに気づく。
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