
例えば本書で言えばボカロやアイドルや推し活といったオタク文化、あるいはオルタナティブロックやインディーズといった原義サブカルが主な分析対象となっているわけだが、ポピュラーミュージックの王道ってこのどちらにも含まれないJポップ(小説で言えば「一般文芸」的な)なんじゃないかと思ったり。
こうした名人芸のあまりに深い切れ味ゆえに、本書は狭義の音楽論の射程を超えてしまっている。これは言語と感覚の関係についての一般理論であり、芸術を語ることそれ自体の高次の実践に到達している。つまり真性の批評だ。「好みは人それぞれ」という現代社会の最悪の教義にも、あるいは「作品の価値は権威が決める」という既に絶滅した真逆の教義にも回収されない、本物の批評。そこでは主観的な感性を説得力豊かに語ることができるのだ。そして、ここにしか芸術の存立はあり得ない。表現に真理が存在するということが本書を読めばよく分かる。
ただ、それでも面白いところはあった。上記のように著者の選曲基準は非常に恣意的であるにもかかわらず、2000年以前と以後で曲の雰囲気というか現代との距離感がガラリと変わるのだ。自分は音楽にはあまり興味がないのだが、そんな自分でも2000年以降の曲は(レディーガガという洋楽を除けば)全て知っていたし、サビの部分なら口ずさむことさえできる。一方、90年代(と89年)の曲で知っているのは「川の流れのように」「おどるポンポコリン」の二曲だけだ。前者は二十曲、後者は十曲であるにもかかわらず、だ。これは結構凄いと思う。
ちなみに自分はゼロ年代生まれ。ゼロ年代末や10年代の曲はともかく、前半の曲をものごころついた主体として聞いていたわけではない。それでも「TSUNAMI」も「小さな恋の歌」も「世界に一つだけの花」も知っている。著者の言う「移り気なミリオンセラーの90年代」から「スタンダードソングのゼロ年代」という図式は恐らく正しいのだろう。これは音楽市場だけの話ではないかもしれない。「失われた30年」と総括される平成は、内向的になった日本が国風文化を醸成し、新しいポップな国民神話を再建していく時代だったのではないだろうか。
世界に対する日本の文化的影響力は、今が史上最大なんじゃないだろうかということを時々考える。ポップカルチャーで世界を制覇したいもの。……近年のコンテンツ産業の巨大化には、個人=アーティストの影響力の巨大化と、そのアーティストを支える(ときには支配する)企業の巨大化という正反対の方向性があると思う。偶像の産業化というか。アーティストが文字通り前面に立つ音楽産業はその傾向が特に激しそうだなと感じる。
前者についても異論がある。筆者は前島史観を「原義ではセカイ系=エヴァ後半的なものだったのに対し、議論の中で原義が脱落してセカイ系=中間項の喪失になった」……というものと捉えている。その上でもとからセカイ系には「中間項の喪失」の意味もあったと主張し、アップデートを図っている。しかし、前島史観の骨子はそこではない。そうではなく、エヴァ後半的なものは普遍的な物語類型なのであり、それをやるにもロボット等の記号、過剰な設定を必要とするくらい平成初期のオタク文化の物語受容は偏っていた……というのが彼の主張の本質だ。
「セカイ系」がエヴァ以降を前提としなければならないのは、こうした文脈故である。セカイ系は別に特殊な物語類型ではないので、ジャンル史的な前提を無視すればこの言葉は何もかもを放り込める概念のゴミ箱になってしまう。そして実際、本書で使われている「セカイ系」という言葉はかなりゴミ箱だ。まあ筆者は意味を拡張していく方に興味があるようだし、確かに後半部についてはそうすると最初に断ってもいる。しかし、一方ではポストモダンと結びつけられつつ、他方では近代超克と結びつけられるような「セカイ系」に一体どんな意味があるのか?
そして同時に、この点こそが本書の問題系の中心であるともいえる。すなわちコミンテルンとは「世界革命を目指す国際的な労働者の政治運動」だったのか、それとも「ソ連が各国に影響力を行使するための権力装置」でしかなかったのかという問題だ。コミンテルンの歴史とは、理想としての前者が実質としての後者とぶつかり、最終的に飲み込まれていく歴史と言える(ここに弁証法はなかったようだ)。十月革命時には間近に思われた「世界革命」はいつまでも実現せず、当面の優先事項とされたソ連の防衛がやがて至上命令となる。裏切られた革命。
理想と現実、共産主義と機会主義。これらはいずれもコミンテルンの実相だったのだ。イデオロギーが力を持っていた時代には、理想は現実に介入するための道具であり、共産主義と機会主義の差は自明のものではなかった。それ故、共産主義のリアリティを前提とする分析こそがコミンテルンの実相を捉え得る。無論、現代を生きる我々は彼らが誤っていたことを知っている。しかし、その矛盾こそがマルクスの頃から共産主義が胚胎していた本質なのであり、我々の目からイデオロギーの20世紀を分析することが困難になるのもこれによるのだろう。
近年の福音派の躍進はいわゆる「宗教回帰」「揺り戻し」というような単純な現象ではない。無論、彼らはアメリカ社会のリベラル化に対する一種の「反動」ではあるのだが、それは世俗主義者や無神論者が回心したというような意味ではない。ワシントンの政治や東部の主流文化から距離を取っていた南部的な精もの、政治や文化の方面での反転攻勢を開始したという意味である。故に本書の記述は1950年代から始まる。それ以前は独立した閉鎖的な文明圏を築いているに過ぎなかった福音派が、アメリカ全土での影響力獲得に乗り出した時期だからだ。
反共主義と信仰を結び付けた伝道者ビリー・グラハムに始まり、70年代の文化闘争で右派から連邦政府への影響力を行使したモラル・マジョリティ運動、地上の楽園化を唱えるドミニオン神学、90年代の郊外に信仰の芽を張り巡らせたウォルマートとメガチャーチ、ブッシュからオバマを経てトランプへ至る流れなど……第二次世界大戦後の福音派の躍進は、南部の田舎者であった彼らが組織力と動員力つまり政治力を獲得していく流れであった。その点で彼らの存在は単なる「揺り戻し」というより、もう一つのアメリカの覚醒とでも言うべき事態なのだろう。
反動勢力。
主に近現代史、軍事学、左右の政治思想の本など。
小説は国内SF専門、ときどきラノベと海外SFも。
しかし近年の国内SFには失望させられてばかり。
徐々に小説への興味が失せつつある。
弱さに感傷的に寄り添う物語を唾棄する。
ただ英雄と宿命を強靭に肯定する物語を好む。
漫画は分けて記録しています↓
https://bookmeter.com/users/1510477
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます