大学に入ってから記録をつけ始めたが読んだ冊数がようやく重複除いて1000冊を超えたらしい。在学中に1000冊を一つの目標にしていたので感慨深い(大学院で二年ほど延長したが)。内訳はSFが290冊、ラノベが260冊、人社系の書籍が320冊、残り130冊ほどがその他の小説や新書。来年から就職で読む冊数は間違いなく減るだろうが、それでも次は1500冊を目標にやっていきたい。
筆者曰く、ロシア体制にとって都合の悪いあらゆる事象に「西側」や「CIA」の影を見ようとするのがチェキストの思考だという。しかし、これと上記の「あらゆる反米的、反体制的言説の影にFSBの影を見る」思考はどう違うのか? 無論、実際にFSBは手段を選ばない諜報をやっているのだろう(その証拠もある)し、こうした懐疑主義や相対主義がロシアに付け入る隙を与えるのだろう。筆者曰く、西側とロシアのメディアの「中間ですら、まだ十分に「嘘」なの」だそうだ。ではロシアによる陰謀とそうでない事象をどのように見分ければ良いのか。
筆者はウクライナに残されたKGB資料から本書を執筆したそうである。このように「確実な」情報を当たるのが一つの手段だと言えばそうだが、これは一般人の担える情報コストではない。だいたい、専門のロシア研究者や政治家すら取り込まれるのが実情なのだ。一般人が対処するのは不可能に近いだろう。……このように、陰謀論的な世界観に基づくロシアの手段を選ばない諜報活動は、対処にも一種の陰謀論的な色彩を帯びた容赦のなさを必要とする。この自由民主主義の基盤に対するダメージこそが、諜報国家の最大の脅威だと思う。
重要なのはどちらも民主主義とは結び付かない点である。共産主義は共産党一党独裁に繋がり、反共主義は軍事独裁に繋がった。そうした権威主義的な小国をソ連も米国も熱心に支援したわけだ。しかし冷戦終結後、事態は大きく変わる。まず東欧を始めいくつかの共産主義国が崩壊し、ついで残った権威主義国に対しても米国を始めとする西側諸国から民主化の圧力がかけられるようになった。軍事独裁のような分かりやすい独裁は維持困難になったのである。こうして権威主義は民主主義に適応していく。選挙や市民団体を統治に取り入れるようになったのだ。
これは一面では市民の政治参画の進展を意味するが、それが必ずしも民主化に繋がるとは限らない。現代の権威主義は市民の選好を知り、ライバル集団にもポストを与え、部分的な寛容の姿勢を見せる。それは苛烈な専制という独裁のオールドタイプよりも民主的な体制だが、安定的な権威主義ということでもあるのだ。
どの論文も短いながらも知的強度が高く手面白かった。が、流石に今読むと古さはぬぐえない。〈帝国〉論にしろ「帝国」論にしろ、そこではある種の国民国家体制の変容というものがイメージされている。しかし、この十年程度のトレンドはアメリカの相対的地位低下と国家の復権だ。グローバル化は恐らく国家を骨抜きにしないし、一国や一連合が覇権を確立するような未来像も当分見えない。そんな現在から二十年前の帝国論の意義を見つけるとすれば、マルクス主義的な色彩にまみれていた帝国という言葉を使い潰し、徹底的に風化させた点になるだろう。
しかし、この時代にはまだ素朴な進歩史観が逆説的に残っていたように思える。「歴史の終わり」史観というか、ポスト冷戦という形で未来に対して補助線を引く姿勢というか。ロシアにしろイスラエルにしろ、世界が冷戦や帝国主義の時代に舞い戻るかのような状況で、いよいよ本格的に「次の国際関係論」のようなものが見えなくなっている気がする。
第一に、性道徳におけるナチズムの闘争は二正面作戦であった。彼らはワイマールの退廃(筆頭が同性愛などの倒錯)を糾弾した。だが同時に保守勢力の「上品ぶり」も嘲笑した。ナチスはもっと明け透けに「生の喜び」を称賛した。それは保守的道徳を解体し個人の欲望を解き放つものであった。第二に解き放たれた欲望をナチスは生殖や戦争に動員した。そして第三に、こうした動員の試みは必ずしも上手くいかなかった。政府高官のスタンスの違いで当局の対応は混乱していたし、何より一度解体された道徳は国家の意図通りに再建されたりはしなかった。
全体として興味深い論考ではあるのだが、一見予断にも見える断言が進出する文体が気になり過ぎて素直には読めなかった。例えば「明らかである」「疑いない」「想像に難くない」といった力強い表現がやたらと多い。筆者の癖なのかもしれないが、政策の意図や民衆への受容のされ方、自発性の有無といったセンシティブな部分の記述で飛び出す傾向があるうえ、そこから力強い道徳的判断へ誘導するので油断できない。この筆者は少し前にナチスの功罪を論証する本で炎上していた記憶があるが、あのときと同じ歴史学的不誠実さの印象を抱い
この辺については、文献案内で述べられている日本におけるシュミット受容の偏りの話が参考になる。曰く、シュミットといえば「非常事態や独裁といった一国の憲法問題・内政問題での発言に関心が向けられて」おり、とはいえ「法学・憲法学の分野においてシュミットに正面から取り組んだものは多く」なく、歴史的文脈を抑える場合でも「「プロイセン・ドイツ史」の枠組みでなされており、革命以降のフランスの内政・外政との関連、オーストリア・ハプスブルク帝国との関係などにまで視野が及んでいない」らしい。
つまるところ、シュミットは法学や国際政治学より一国内規模の政治学や思想史の文脈で捉えられてきたのだろう。本書がそうした偏りを是正する意図を持って書かれたことは明らかだが、自分がシュミット論に期待していたような議論が出てこないのもまた明らかだろう。
自分は『丸』を読んでいないが、最近の同誌の特集を見ると一式陸攻や赤城でまるで変化がない。懐古趣味としか言いようがないだろう(別に批判するわけではない)。現代の若いミリオタが読んでいる軍事雑誌は……まあ若者はもう雑誌を読まないと思うが、強いて挙げるなら『あくしず』と『軍事研究』なんじゃないだろうか。これは現代日本のミリタリー趣味の二極を示していると思う。一方に戦争の脱文脈化を極限まで進めてフェミニンな可愛さと接合してしまった「萌えミリ」があり、他方に専門知識から冷徹に安全保障を分析する「リアリズム」がある。
どちらも『丸』にあったような当事者的な情念から程遠い点では共通だ。これは実体験としての戦争が遠くなり続けていく以上、仕方のないことだろう。こうした流れが今後もずっと続くのか、あるいはどこかで「有事」が起きて日本人の戦争観がリセットされるのか。それは分からないが、自分としては三十年後くらいに出るであろう『〈美少女〉としての戦争 萌えミリ雑誌『あくしず』の文化史』が楽しみだ。
人文系の学生。専門は科学史。
他には哲学、冷戦史、軍事学、左翼思想、大日本帝国など。
小説はSFとラノベ中心。
歴史改変、ミリタリーSF、サイバーアクション、現代異能バトルなど。
英雄と運命を強靭に肯定する小説が読みたい。
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます
筆者曰く、ロシア体制にとって都合の悪いあらゆる事象に「西側」や「CIA」の影を見ようとするのがチェキストの思考だという。しかし、これと上記の「あらゆる反米的、反体制的言説の影にFSBの影を見る」思考はどう違うのか? 無論、実際にFSBは手段を選ばない諜報をやっているのだろう(その証拠もある)し、こうした懐疑主義や相対主義がロシアに付け入る隙を与えるのだろう。筆者曰く、西側とロシアのメディアの「中間ですら、まだ十分に「嘘」なの」だそうだ。ではロシアによる陰謀とそうでない事象をどのように見分ければ良いのか。
筆者はウクライナに残されたKGB資料から本書を執筆したそうである。このように「確実な」情報を当たるのが一つの手段だと言えばそうだが、これは一般人の担える情報コストではない。だいたい、専門のロシア研究者や政治家すら取り込まれるのが実情なのだ。一般人が対処するのは不可能に近いだろう。……このように、陰謀論的な世界観に基づくロシアの手段を選ばない諜報活動は、対処にも一種の陰謀論的な色彩を帯びた容赦のなさを必要とする。この自由民主主義の基盤に対するダメージこそが、諜報国家の最大の脅威だと思う。