これに対し、本作では、他者に対する共感はなく、むしろ人物を風景の一部として描くことで、その人物を物として卑下しており、人格をもった個体としてのリスペクト・共感が欠けている。「武蔵野」は1898年1-2月の発表で「忘れえぬ人々」は同年の4月の発表で、数カ月で作品の深みに差がでているのは興味深い。
2024年3月の読書メーター 読んだ本の数:15冊 読んだページ数:2901ページ ナイス数:877ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/1124113/summary/monthly/2024/3
余談になるが、2024年に私は西大寺を訪れたが、四王堂の受付が閉館30分前にも関わらず「所用」のため不在中に扉を閉めてしまい拝観できないようにするなど不親切かつ理不尽な対応であった(この受付の人物の「所要」とは、本堂の人物との立ち話であったので呆れる)。
また、西大寺の見どころのひとつに東塔跡(表紙とp17-19に写真)があるが、これは消失した五重塔の礎石。「西大寺文学散歩」にも書かれているように、以前はこの塔跡に立ち入ることが人気であったp110,p7が、現在は柵で囲まれており立ち入ることができないp9。私は、これまで多くの寺社を訪れてきたが、礎石を立ち入り禁止にしている寺は記憶がない。西大寺には、サービスの向上に努めて欲しいところ。
この視点で、「武蔵野」と「忘れえぬ人々」を読むと、両作とも情景が丁寧に描写されており読み応えがあるが、主人公の内面が情景描写から感じられるのは「忘れえぬ人々」である。「武蔵野」の情景描写は客観的であり、本作に描かれた武蔵野の風景は現在はほとんど残っていない。両作品とも、農夫などの登場人物が風景に溶け込んでいる点は共通しているが、「忘れえぬ人々」では、風景にも人物にも、語り手(作者)が共感して本人も溶け込んでいる感がある。
これに対し、本作では、他者に対する共感はなく、むしろ人物を風景の一部として描くことで、その人物を物として卑下しており、人格をもった個体としてのリスペクト・共感が欠けている。「武蔵野」は1898年1-2月の発表で「忘れえぬ人々」は同年の4月の発表で、数カ月で作品の深みに差がでているのは興味深い。
「日本の国宝」シリーズの特徴として、国宝が所属する施設を簡単に紹介し、次に国宝そのものを丁寧に写真入りで解説している。石上神宮は、1)七支刀p4-238,失われた大寺院・内山永久寺p4-245の拝殿を移築した2)石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿p4-250とp4-231(見学できない拝殿内部の写真が貴重),3)石上神宮拝殿の三つの国宝を解説。天理大学は天理図書館と天理参考館の紹介p4-252と図書館の所蔵する日本書紀神代(じんだい)巻(表紙とp4-256)など複数の国宝の書物を紹介している。
そして、本作の最終盤では「(彼らは)われと他と何の相違があるか、みなこれこの生を天の一方地の一角に亨(う)けて悠々たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起こって来てわれ知らず涙が頬をつたうことがある。その時は実に我もなければ他(ひと)もない、ただたれもかれも懐かしくって、忍ばれて来る。僕はその時ほど心の平穏を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、その時ほど名利競争の俗念消えてすべての物に対する同情の念の深い時はない。」としている。
上記の感じ方・思想は東洋宗教の「梵我一如」の境地に近い。すなわち、自分も自然にあるものも(小石にいたるまで)、宇宙の一つであり、一方で全宇宙(=神)=自分である。そこに、自他の区別はなく、この境地は様々なジャンルでマインドフルネス、ニルバーナ、涅槃、悟りなどとされるものに等しい。ひるがえって、情景描写=人物の内面とする場合は、対象の人物がすでに梵我一如の境地にある程度達している(自然と一体化している)と考えることもできるだろう。
特にチェ・ゲバラの人間的な魅力は、実際の写真と言葉が豊富に掲載されている「フォト・バイオグラフィ」がないと伝わりにくいが、同書は、年表が記載されているもののチェ・ゲバラの人生の流れは追い難い欠点がある。
本書のあとがき「チェ・ゲバラ 偶像と実像」はサラ・シードマンとポール・ブールによるものだが、チェの肖像が後の様々な国の運動に及ぼした影響や、チェの「新しい人間(人民解放のため、愛し、生き、必要とあらば命をかけることもいとわない階級制度の抑圧から解放された現代に生きる人のことp104」という理念を紹介しており、優れている。
(チェ・ゲバラ)僕は1日16-18時間働き、できる場合は6時間眠る。が、そんな睡眠時間はなかなかとれないね。p184 (チェ・ゲバラ)世の中で不正がおこなわれるたび、怒りにうちふるえるという人は、われわれの同志だ。p203 (チェ・ゲバラ)われわれは国を導く責任を負ってきた。しかし、われわれが退くべきときに、退かなければ、仕事は完成したとはいえないのだ。われわれの後を継ぐ国民を作ることが、きみたちの義務でもある。p253
「新しい人間」。思想が、これまでとは違う社会行動へと変化する。p265 フィデルへの手紙。革命では(それが本当の革命であるならば)、勝利か、さもなければ死しかない。、、、、最も神聖な義務、どこにあろうと、帝国主義と戦うという義務をまっとうしたいという思いだ。p315 子供たちへの最後の手紙。世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、いたみを感じることができるようになりなさい。これが革命家において、最も美しい性質です。p360
Amazonのレビューは2009年くらいから投稿しております。本の長めの感想は、アマゾンの「荒野の狼」の上記URLをご参照ください。本職は医学部で微生物学・免疫学・神経難病などの教育・研究をしております。現在は大阪在住ですが、アメリカで21年間医学教育・研究をしておりました。職場のURLは以下です。
https://www.med.kindai.ac.jp/microbio/
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この視点で、「武蔵野」と「忘れえぬ人々」を読むと、両作とも情景が丁寧に描写されており読み応えがあるが、主人公の内面が情景描写から感じられるのは「忘れえぬ人々」である。「武蔵野」の情景描写は客観的であり、本作に描かれた武蔵野の風景は現在はほとんど残っていない。両作品とも、農夫などの登場人物が風景に溶け込んでいる点は共通しているが、「忘れえぬ人々」では、風景にも人物にも、語り手(作者)が共感して本人も溶け込んでいる感がある。