「実践理性批判」を一応読んでおこうと思い読んでいるが、意外な収穫もないことはなかった。「「君の意思の格率が常に普遍的立法の原理として妥当するよう行為せよ」はお題目だけどカントの本意はそこじゃないのかもなと。キーワードは"自由"と"尊敬"だった。人間は自由であるからこそ感性的なものである性欲食欲を自制できる(要約)し、それが理性でありかつ巡り巡って神の存在証明になる。
純粋理性批判のアンチノミーの話はうろ覚えだったけど、たしかに純理単独では神の存在証明はできていなかった記憶がある。だから実践理性批判を書かざるをえなかった、すなわち人間は自由なんですと言いたかったんだな。まだ全部読んでないけど
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カントの倫理は単に人間社会を運営するための方便ではなく人間が動物ではなく自由で、だから神って存在するよねってのを純粋理性批判の続き物として書いている。じゃあ動物でもある人間がどうやってそんなふるまいができるか。”尊敬”である。ニーチェはカントをケーニヒスベルクの孔子さまとか呼んでるそうだが、カントはカントなりに神が存在する根拠をひりだそうとしていたんだよな。まさか実践理性批判が純粋理性批判の歴とした続き物だと意識してなかったので意外だった。