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その人たちがどんな風だったとか気になっていたけど、読むと井上氏がそうした人たちからいろんな学びを得ていたことが面白かった。クリエイターだけではなく、小牧雅伸、角川歴彦など影響を受けた編集者とのやり取りが面白かった。 後、2010年の東京都都条例に対しての動きが面白かった。この都条例があったとき、地方在住であっても大変なことになったと思い、井上氏と角川の動きに注目していたのを昨日のことのように思い出した。好感を持ったのは、井上氏がその後の「ヲタク」界の動きを決して肯定だけしているわけではない、ことが
書かれている。それは自分も感じていることだけど、宇野氏の書く「社会と格闘」の一環では?と思ってしまう自分もいる。なんとなく都条例後のクリエイターの発信に一喜一憂したり、時には悲しくなったりもしたので。でもそれをふくめて、井上氏とヲタク界の今後が気になった。
最後、ガンダムは中破しながらも、ギガンを倒し、最後はギガンを操る系を破壊して、宇宙に飛び立つので、アムロの生存を匂わせていが、以前見たものは、ギガンにただ倒されるとあり、最後はララァによってアムロの精神が高次元に上っていくと取れる内容だった。しかし、それをみたWebサイトが発見できなかった。
カマリアの間男について、P.122に「この男こそ実はカマリアの「間男」(早い話がアムロの母の新しい彼氏!)であり、アムロが結局仲間達のもとへ戻ったように、母にも母の人生のあることをさりげなく示してみせてくれた名シーン。」とある。 このシーン脚本では、完成作品だとアムロが受け取るのを拒絶した人形をカマリアが握らせ、送り出すシーンであるが、完成作品でこうなったのは、カマリアの人生があると表現したかったからなのだろう。
型式番号が「ガンダーX」だった件、確認したら「五十嵐浩司、『ガンプラジェネレーション』、1999、講談社」のp.39、小牧雅伸氏の証言だった。小牧氏は1話放送前にガンダムの情報を知り、面白そうだと感じて慌ててテレビを購入して放送に臨んだとのこと。自身が編集長を務めるアニメックで富野監督に何度もインタビューをしたが、後に小牧氏が用意した原稿に監督の了承を貰う形になったとのこと。その一つがガンダムの型式番号で、小牧氏の証言では、脚本1話の準備稿の段階では、ガンダムの型式番号は「ガンダーX」だったそうで、
ガンダムの開発は「宇宙世紀0078」から始まっていたのではと思った小牧氏は開発ナンバーは78ではないかと考え、現在の型式番号を富野監督に提示し了承を得たとのこと。他にもガンダムはサイド7に3機搬入されていたのでは?と提示したのもアニメック側でその結果がアニメック16号のガンダム特集とのこと。 この話が事実なら小牧氏が富野氏に接触したのはガンダム1話放送後に感じる、脚本のアフレコ台本に「ガンダーX78」との表記があるのは変だと感じるが、小牧氏の記憶違いなのか?
最初はその話のかみ合わなさを楽しむ的に考えていたが、第1章の地球平面説のイベント潜入はそうした意味で楽しめたりもするが、とてもまじめな本で、面白かった。
芥子の花も稀に道路に咲いている事例を考慮すると、トリカブトが学園内で栽培されても多分気付かれない気がします。そこに僕はある種のリアリティを感じましたね。
コメントありがとうございます。芥子って道路に咲くのですか!そうなると今作の状況はリアリティがありますよね。そして、掃除のついでに捜査するとかも学生らしいやり方で学校が舞台になることを活かしていたと感じました。
TVで取り上げられて有名になると、自分をコントロールできる人間などいるのだろうか、自分の姿がカメラに映る。それは大事件で、そうなるとカメラに求められた行動を人は取るものだ。例えばリアリティ番組なんかでは、カメラや自分が取り上げられることを意識した行動をとり、それが元で暴走してしまい、それがSNSなどで批判され、自死してしまう事件などがある。カメラに写されることで行動が変わるなど、あたりまえでないかと思う。すべて嘘ではない、けど本当のことでもない。
義家氏が送ったメールにはそうした思いがあったのではないか、それに対して著者は驚いたことばかりしか書いてない。読んでいて、(ホントは気づいているんでしょ?)と言いたくなった。 もちろん、著者が自身の責任を意識しているくだりはあるが、すごく少なくて、言い訳以上のものを感じなかった。もっと自分の罪にもきちんと向き合ってほしかった気がする。
“マルクス主義者は、問題を見るのに、部分を見るだけでなく、全体をも見なければならない。井戸のなかのカエルが「空の大きさは井戸口ほどである」というなら、それは正しくない。空はけっして井戸口の大きさぐらいのものではないからである。だが、もし「空のある部分の大きさは井戸口ほどである」というなら、これは正しい。”(p.125)との文言があった。これは「井の中の蛙大海を知らず」に似ている。この諺は荘子からの言葉だと知る。しかし、こちらでは「井戸の中」ではなく、「空の大きさ」に注目している。
「大海を知らず」に続く言葉として、「空の青さを知る」と続けられることがあるけど、それはこっちが元ネタなのか?
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