のかもしれないし、嫌な人だなと思うようになってしまうのかもしれない。 幸せってするべきことがハッキリすること。→要は選択肢が多いと迷い道に入ってしまって困るけれど、選択肢が少なく決まっている部分が多いと迷いが少なくてすっきりとして幸せ感を覚えるということ。これは人によりけりかもしれません。 相手の「できないこと」によりそうことが難しい。思い通りにならない他人と思い通りにならない自分。どちらも大変。
食べるのを躊躇ってしまいそう。
しばらく前に散歩中目の前に土の上に降りて歩いている小鳥。きれいな鶯色なのです。で、調べましたら、ほんまもんの鶯がそんなにきれいな色でないことがわかりました。目白のほうがよっぽど美しい。声は鶯なのかしら🎵🤭
性の高い物語というわけでもないけれど、ほんわかと心に残ります。 高齢者が多い「ちいさな集まり」といえば、私が参加している俳句の会も茶道のお稽古も似た感じ。病気や死亡などいつ起こってもおかしくない危うさも持っている。職場では自分より若い人が多くなりましたが、そういう場では最年少。いろいろと教えていただくことも多いです。 以下は文中引用とミニ感想。 病院は諸刃のつるぎ。よくなることもあるし、悪くなることもある。 総じてキャラは場面や相手に合わせて変わるものだ。→確かにそういうところはある。 「マイ」すぎないマ
マイペース。 キズやカケのないひとはいない。→そういうことを実感できるのもいろんな人と話をする機会を持つから。読書会はただ単に本に関して話すだけではない場。そういう点では私が参加している俳句も茶道も参加者について徐々に知るところとなってきています。
事情があるし、完璧な家庭は存在しない。育った親や家庭を恨んだり責めても解決しない。「どうして」「どうしたい」を繰り返し自問する対話の相手に名前を付けて一人二役の劇のようにやってみるという手法のようです。自分自身も家庭環境から派生した呪縛のようなものは感じます。
をつけさせてあげることが大事。自信というのは自分の力でやれたと実感すること、それを他者から認められることでわいてくる。 変身願望は変心願望の表れ。 不確実なほうが安心。最後まで望みを持つことができるから。
議論し、まるで理解する必要があるかのように理解したふりをする。私の作品はただ愛するだけでよいのに」というモネのことばが印象的でした。 宮脇綾子(アップリケアーティスト)さんは初めて知った方。「心してみれば道端の草花でも、台所に転がっている野菜、枯れた花、一匹のさんまでも、美しいと思うと美しく見えるのである」美は遠くまで探しに行かなくてもいい。暮らしの中に美を見出し、創作する宮脇さん。
多い。 バードウォッチャーが鳥を見に行く一番多い環境はおそらく川。 巣はおうちではなくベビーベッド。 マイフィールドでの定点観測は環境の変化に気づくきっかけにもなる。
つ読了。 何かを成し遂げるためには大勢の協力が必要なんだなあ。そうして得られたものには愛着が湧く。そうした愛着のあるものとともに暮らしたいと思っているので、子が作ったものとか自分が作ったものとかも多く、出来栄えが素敵とは言い難いものもありますが、大切に使います。私の持ち物はたいてい他の人が見ていいなと思うものはあまりないし、雑多な感じもあります。雑誌に掲載されているような素敵なおうちではないし、そういうおうちだと落ち着かないだろうなあとも思う。そんなことを思いつつ読みました。
るいさん イタリア語、英語バージョンというのがあるんですね。たしかに「I am myself」というのは印象的というか 強い感じの言葉ですね。そう言い切れる自分を持つのは私には難しいなあ。
で発生するかそれを制御することは難しいが、そう思って欲しいと思っている人がいるんだよという気持ちを伝える一つの方法に接してもらいたい本をそっと置いておくというのは私流。本にはそんな力もある。
わがままもきいてもらえるような対応をしてもらったら、人は変わることもあるのかもしれない。くまが病気になったとき、とらが同じようにしてくれなかったとしても、くまは何も言わないのではないか。そこでグズグズ文句を言うような間柄だと懸命な看病ではなく、取り引きとしての看病になってしまうから、受け手側もして欲しくないと思ってしまうのではないだろうか。そんなことを思った。
もないし、感動する物語でもない。水族館紀行日記のような本。かとって、水族館の宣伝的な感じで行きたい水族館が見つかるような本でもない。無脊椎動物好きがその魅力を語っている、ただそれだけと言えばそれだけの本。読了後 この本は何だったんだろう?と思った。 以下は文中より。 水族館はわれわれが住むのとは別の世界。陰気で孤独であってもなじめる空間。著者は行くなら、ふたりまでを推奨している。 ユニークな表現が多く、面白おかしく読める本でもある。 貝の堂々たる行進は、周囲の生きものにとっては死神の行進。 自分の消費期限
がきたと感じたときは水族館に行くのはいい対処法。細かいことは気にならない大宇宙的精神に近づくというメリットがある。 海の生きものを見ることによって人は人間らしくあることができる。 冷え冷えとした青い空間に自分の心の奥底に静かに沈殿していくような心地よさを感じた。→こういう感覚は分かる気がする。 加茂水族館がクラゲに特化してV字回復というのは知らなかった。水族館おじさんの聖地とまで表現されている。
ない存在であることはよくある。 似た構造を持つ導管と掃除機。陰圧への強さを追究した結果かもしれない。 生殖器官は秘すべきものと相場が決まっているのに、植物は雄しべ、雌しべの話が小学校教科書で最初近くに登場する というのは気付きもしなかった指摘でした。 現実の木の形は、光の獲得、物理的安定性、繁殖の効率の3要因でほぼ説明がつく。複数の要因を同時に満たそうとすると多様性が生まれる。
れていた。たしかにそんな気もする。じわっと温かい気持ちが湧いてくる。以下は文中引用とミニ感想。 「なによりいいのは いっしょにいてくれること」→そんな存在でありたい。 「サクラの木は じぶんを ほかの木とくらべたりはしない。ただ満開の花を咲かせるだけ」→無心にやるべきことをやる! 「道はじぶんでみるけるものだよ」 「この瞬間が 永遠に つづけばいいのに」に対して「いま この瞬間が すべてだよ」 なにもしない時間は むだな時間じゃない。 だれかを しあわせにしてあげようとおもえば、じぶんが しあわせになれる
かもしれない。→きっとそうに違いない。 「すべてのものは 変わり続ける。だからこそ すばらしいんだ」 「なにかを変えたいとおもったら いますぐ はじめればいい」→いつでもそんな気持ちで生きていたい。
るいさん 白黒の世界ですが、それだからこそ そこに読み手がいろいろな思いを投影できるのかもしれません。言葉も「一本の木がありました」のみ。いろんな感じ方が生まれそうな本です。
ありますが、ひとの考え方を見るのも面白い。 大事すぎると身近にいられない、一緒にいられない。大事だからこそ 大事に取っておく。どうでも良いものの方が使われる。そういうのってある。大事にして使わないのとたいして大事じゃないから使うのとどちらがその「もの」にとっていいんだろうか?と考える。そういうのって、人間関係にも当てはまるのだろうかとふと思いました。大事にしたい人がいて、大事にと考えすぎて身近にいられないなら それってどうかな と思いました。でも、一緒にいる時間が長すぎると大事にしたい気持ちが薄れてしまう
のかもしれないし、嫌な人だなと思うようになってしまうのかもしれない。 幸せってするべきことがハッキリすること。→要は選択肢が多いと迷い道に入ってしまって困るけれど、選択肢が少なく決まっている部分が多いと迷いが少なくてすっきりとして幸せ感を覚えるということ。これは人によりけりかもしれません。 相手の「できないこと」によりそうことが難しい。思い通りにならない他人と思い通りにならない自分。どちらも大変。
若いころは小説をよく読んでいましたが、最近は自己啓発本や実用書類が多いです。子どもたちに薦める本を選ぶために読んでみたり、幅広く読んでいます。
基本的に図書館利用で多読。
次何読もうかしらと探す手段のひとつとして登録してみました。そして、いまでは読書のアウトプットの場にしています。
名前を決めるときは適当でしたが、「ひめ」というのは小さいという意味で使っています。花の名前の「ひめ」は小さいを意味しています。
ぴょんはそれほど意味があるわけではないですが、いつもぴょんぴょん飛び跳ねてますが、飛び跳ねては落ちてくる感じ。七転び八起き的雰囲気を表してみています。
最近はつぶやきも楽しんでいます。つぶやきにコメントをいただくと自分自身が嬉しいのもあって、ひょいとコメントさせていただくことがあります。
自分が誰かに対して行ったコメントは自分の意見でもありますので、ときにそれを自分のつぶやきに挙げることがあります。
自分が好きと言う理由で地唄・生け花・茶道・イベント・建築・庭系のつぶやきが多く、ときに愚痴(その対象となる相手はこれを見ていないはず)をつぶやいたりもします。
ただ、つぶやきやコメントやで傷ついたり、傷つけたりしたくはないです。
そして、「ナイス」は見ましたよ 的な感じで印としてつけさせていただいていることが多いです。そして、「ナイス」ついてるなと嬉しい気持ちに思ってもらえたらいいな という気持ちもあります。つぶやきには気軽に「ナイス」しています。
お気に入りに関してはたくさんタイムラインに並ぶとしんどいので、見逃したくない方を少しだけにさせていただいています。
お気に入り登録・解除はご自由にどうぞ。
ブロックについて:
あからさまな批判を私に対してしていないと少なくとも私が感じていると不快に思わない。それに対して、あからさまな酷評があるとしんどい。気に食わない!というオーラが感じられるコメントはしんどい。
こういうふうにしたらいいよ的なゆるっとした内容であれば、私に対する優しさを感じることができますが、そうでないようにしか感じられないことが続く方はブロック対応して距離を置いて心を守ることにしています。
最近はそういうことがなく、読書メーター内では穏やかに過ごせています。
逆に自分がブロックされているなと言うことを知った時、ちょっと悲しい気分になります。
学生時代は、加賀乙彦、遠藤周作、斎藤茂太、三浦綾子、宮尾登美子など読み漁っていました。あの頃はキリスト教信者作家さんと親和性が高かったようです。そして、自分の生き方を見つめるという意味もあったのか女性の生き方を描く本も多かった。
気になる作家とかこの作家さんの本はとにかく全部読む!みたいな人は今はいないです。
ただ、今もよく読む作家さんというのは数人います。重松清、曽野綾子。谷川俊太郎もときおり気になって読みます。寺地はるな、窪 美澄、凪良 ゆう、町田そのこ、原田マハ、青山 美智子、小川糸、瀬尾まいこなど本屋大賞を機に読むようになった作家さんたちも気になると手に取るという感じですが、はずれがないので安心して読めます。
よく読む系統としては自己啓発系、哲学、仏教もの、高齢者エッセイ的なもの。そして、本屋大賞は新しい作家さん発見する場だと思って活用しています。
最近は絵本もいいかもと思ったものを図書館で借りて読んでいます。
読書遍歴を振り返るといろいろなことが思い返されます。
読書メーターの皆さんの感想を見ての選書は楽しい!
読書感想文にはネタバレ的なものも多いのですが、「ネタバレ」の印を入れ忘れることも多いです。
こうしていろんなことをダラダラ書き連ねることが多いですが、
よろしくお願いします。
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ありますが、ひとの考え方を見るのも面白い。 大事すぎると身近にいられない、一緒にいられない。大事だからこそ 大事に取っておく。どうでも良いものの方が使われる。そういうのってある。大事にして使わないのとたいして大事じゃないから使うのとどちらがその「もの」にとっていいんだろうか?と考える。そういうのって、人間関係にも当てはまるのだろうかとふと思いました。大事にしたい人がいて、大事にと考えすぎて身近にいられないなら それってどうかな と思いました。でも、一緒にいる時間が長すぎると大事にしたい気持ちが薄れてしまう