2024年8月の読書メーター 読んだ本の数:15冊 読んだページ数:4783ページ ナイス数:353ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/623744/summary/monthly/2024/8
『聖パトリキウスの煉獄譚』は、騎士オウェインが生きていながら、地獄、煉獄、天国を巡って、無事に現世に戻るという内容。実在した修道院近くにある暗い坑が舞台で、またその坑に入るための儀式が存在し、坑に入る事自体が罪の清めになると考えられた事も興味深いが、一番興味深いのが大司教の説教を通して語られる煉獄の受け止め方だ。洗礼を受けた後で罪を犯したまま亡くなった場合は煉獄に行き、そこでの苦しみを通して罪が浄化されて天国に至るのだという。またミサの中で故人の為に祈れば浄化の苦しみはその度に軽減されるのだと述べる。
サンデルが依拠するアリストテレスによると「正義とは合法性及び公平さであり、不正とは不法及び不公平なのである」から、正義と不正について論じるとき、サンデルは当該問題が「誰にとって」平等なのか、また、その正義の原理は「何により」認められるのかを問題としている。
またフランスと異なり、アメリカは宗教(特にキリスト教)が個人の倫理だけでなく、その共同体の倫理と論理にも影響している。そのため、宗教の価値観が政治(公共)の世界の問題(例えば授業で進化論を教えるかどうかや中絶等の課題)においても関係している。本書の後半ではケネディとオバマを取り上げる。政治における、公としての自分(政治家としての自分)とキリスト教徒としての自分は矛盾なく併存しているだけでなく、アメリカにおいては、保守派とリベラル派における数少ない共通の価値観であるだけでなく、国民としての大前提でもある。
よこっちょからすいません。U.エーコの「バウドリーノ」をお読みになりましたが?プレスター・ジョン伝説に取材した小説で、結構、面白かったです。お暇な折りに、と一言、情報提供です。ではでは。
本書の後半でも触れられているが、イスラームの女子生徒が学校にスカーフを持ち込んだので、フランス国内で問題になったという出来事があった。フランスという国は、共和政を定着させ、政教分離を進めてきた国なのであり、イスラーム教徒を示すスカーフを学校に持ち込むということは、宗教を公教育(政治)に持ち込む事だとする論理があるから問題になったのではないかと著者は述べる。しかし、同時に、このスカーフは宗教的象徴として使用されたのではなく、多数派に対する無言の抵抗や挑戦という意味で使用された可能性があることも示唆している。
本書はオリゲネス自身の思想を述べたものではあるが、あくまでも「思索の書」であり、「いくつかの可能性を提示、その選択は読者に委ね」、結論について、彼自身は判断を保留している。また彼は、本書だけでなく様々な著作でしばしば「アポカタスタシス(万物回復)」について述べている。「アポカタスタシス」とは、終末には、アダムとイヴの堕落以前の、あの「最初の至福の状態」に回帰する、というものだ。オリゲネスによると、天使や悪魔、人間等のすべての理性的被造物は自由意志を有しており、その自由意志によって善も悪も行うことができる。
すべての理性的被造物が、神の「神的な本性への参与」に招かれている。神の像として創造された人間が、教育(パイデイア)を通じて、最終的に神の似姿として完成され、「すべてにおいて神がすべてとなられる」。また、悪魔やそれに服従する被造物が「自らの内にある自由意志の能力に応じて、来るべき代々におけるある時点で、善へと向きを変えることがありうるのであろうか、それとも持続し根を下ろしてしまった悪は習慣によって、これらの者たちの内で本性のようなものに変わってしまったのであろうか」という問題は読者の判断に委ねるとしている。
また、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教だけでなく、仏教やヒンドゥー教、シク教も同じ神を信じているのであり、ただ名前が異なるだけだという考え方は、ある意味で別の「一神教」を唱えているのと同じであり、解決にならないのではないか、また、それぞれの宗教の独自性を否定しかねないものではないか、さらには、独自性を失うということは、今日はキリスト教徒で明日は仏教徒だという、何を信じているのかわからない状況になるのではないか等、課題が残る。
西遊記は三蔵法師が経を取りに行く内容なので仏教文学に思えるが、五行説(木、火、土、金、水の5つの元素から物質は成り立っているとする説)や太上老君、宝貝等の道教の思想が色濃く描かれているため、道教的な物語ともいえるというのも面白い。
本書の内容は、キリスト教の歴史や教義を実存主義で解釈し直しているだけで、イエス及び原始キリスト教の思想の復元に失敗しているのではないか。著者は律法を否定しているが、そもそもパウロは律法自体を否定しているわけではなく、指導者的立場にあったエルサレム教会も律法をどう解釈するかで揉めていたこと(アンティオキア事件を参照)。律法対自由(恩寵)という考え方はプロテスタントの神学によくある思想であり、その二項対立で分析するのは物事を単純化しすぎているのではないか。
新約聖書の文書群はそれぞれ成立時期や歴史的背景や思想的環境も異なっている(たとえばマタイ共同体とルカ共同体は神学的傾向が異なっており、ヨハネ文書を書いたグループはヨハネ共同体の中では少数派で、多数派はグノーシス主義に傾いたと思われる)のに、その点を考慮せずに扱っていいのか。本書には多くの課題が残されていると感じた。
「アッラーの下僕たちよ、アッラーを畏れ、善行を行って死に備えよ。移ろいやすいもので永続する喜びを贖うのだ……それゆえ現世にいる間に、明日(来世で)君たちの身を護るのに十分な備えを蓄えておくのだ。したがって下僕たる者は主を畏れ、自らを戒め、悔い改め、欲望を抑えねばならない……悪魔は彼に罪を美しいものと思い込ませ、おかげで彼はたやすくそれを犯すことになる」(『第六十三の説教』より)。
「アッラーよ、私が知る以上に貴方が知っている私を赦し給え。私が(罪に)赴けば、私への赦しに向かって歩み給え。アッラーよ、私が自分に約束しながら貴方がその不履行を認める事柄について赦し給え。アッラーよ、舌で貴方に近づくことを願いながら、心でそれを果たさなかったことを赦し給え。アッラーよ、私の瞼のまたたき、悪しき言葉遣い、心に抱く欲望、舌の過ちを赦し給え」(『第七十七の説教』より)
『沈黙』のキチジローは、神を否定しながらも神を捨てきれない男として描かれており、著者はキチジローは自分だと思いながら書いたのだ、と述べている。興味深い内容が多いエッセイ。
白鳥は死ぬ前に美しい歌を歌うという話はプラトンの『パイドン』にあるが、本書にもその話が載っている。また「ゼウスと善の甕」という逸話は、ヘシオドスの『仕事と日』に収録されているパンドラの物語と類似しているものの(唯一希望だけが残ったという点)、相違点もある。ヘシオドスによると、壺を預かったのはパンドラという女性だが、イソップによると甕を預かったのは無名の男性になっている。同じ話でも希望が残ったという結末は同じなのに、こういった相違点があるのが興味深いと感じた。
フロイトとユング、唯識論の考察は興味深かったが、本書でただ一つ残念な点がある。それは、ホメオパシーを遠藤氏が擁護している点だ。ホメオパシーは治癒するための物質が無いのにも関わらず、水の記憶により治療効果があると称する、非科学的な思想であり、2010年に、日本医学会と日本医師会が反対する声明を出している。時代が時代なだけに、医学はまだ今ほど発達していなかったので仕方ないとはいえ、残念に思う。
遠藤周作の『侍』に登場するベラスコのモデルである、フランシスコ会のルイス・ソテーロについて記述しているため勉強になった。しかし、殉教者を英雄視しているため、フェレイラやハビアン等、「転んだ」人々には冷たく、不公平な批評となっているとも感じた。
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西遊記は三蔵法師が経を取りに行く内容なので仏教文学に思えるが、五行説(木、火、土、金、水の5つの元素から物質は成り立っているとする説)や太上老君、宝貝等の道教の思想が色濃く描かれているため、道教的な物語ともいえるというのも面白い。