最後に大宅壮一に肩入れする理由がわからんというか、ここで問われているものって大宅の集合性の議論とは違うものでは?という感じが残る。終章が、そこまでのクリアさに比べて混乱しているように読めるのはなぜか。単純に、2章や3章に比べてすっきりしない。東浩紀『存在論的、郵便的』の終わり方と似ている。あるいは似せている。あと、結局最初から男性同士のゲームだったんだなという感慨が途中から広がって、後半で馬鹿らしくなった感は否めない。
二葉亭の、何を苦しんでも傍目に滑稽になってしまう(ように中村が描く)人生は同時代人のチェーホフの小説を想起させる。船上での死は「グーセフ」を思い出すし、友人宛の手紙における嘆き節はほとんど「ワーニャおじさん」である。チェーホフへの言及は本書に一切ないが、ロシア文学と日露関係を青春に生きた果てに、二葉亭の人生はチェーホフに接近したと思える。その同時代性にぐっときているおれがいる。日露戦争時の、戦況について詳しすぎた故に(悲観的な論調を取らざるを得なかったゆえに)新聞で重宝されなかったという話が面白い。
読んだり書いたり。
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