2024年9月の読書メーター 読んだ本の数:38冊 読んだページ数:9559ページ ナイス数:73ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/684547/summary/monthly/2024/9
「擬木とは、いわば生の植物からバックヤード性をはぎ取ろうとするものだ。商業施設内でお客さんがグリーンに期待することはもっぱら視覚的なものである。「グリーン」という言い方にそれが表れている。水やりや栄養剤の補給、虫の駆除、定期的に光に当てるなどといった世話はコストであり、お客さんに積極的に見せるべきものではない。これは、生きているということはバックヤードを必要とする、ということだ。」(:165)
「丸の内や銀座の人たちは資本主義の検討に熱中してばかりいるので、富の生産、流通、消費にもう一つのシステムがあることなど容易に理解できないのだ。だが、新宿は例外的な街である。ここでは人たちが一足先に資本主義の検討などに見切りをつけてしまっているので、自分たちのシステムを作りださない限り、だれもが富にありつくことなど出来ないのだ。」(:181、寺山修司)
「実際、新宿もまた「あなたの最後の町」である。それは吹きだまりの町、いかり肩の町、反抗と泣きべその町。古宿なのに新宿なのだと言いこめるペテンの町。顔役の町。どこでも眠れる町。そしてかぎりなく人なつかしくなる町でもあるのだ。」(:182、同)
掲載写真は見ているとぞわぞわしてくるものばかりで、その感覚が嬉しい。被写体が自分の既知の何かに馴染もうとしないからだ。違和感の気持ちよさ、時間の堆積に圧倒されるときの、恐怖に似た気持ち。畏怖というのがいちばん近いかもしれない。
個々の商品ページも充実しており、特にバター本体の色やパッケージ紹介が魅力的なのだが、食レポは正直なくていいレベル。一つ一つの商品の違いがよくわからず、まろやか、コクがある、ミルキー、といった常套句が違う組み合わせで繰り返されるだけ。一人の「マスター」に食レポしてもらうより、違う書き手に数個ずつじっくりレポートしてもらった方がよかったのでは?(実際、伊藤まさこといがらしろみの方がレポートが緻密だ)。
「本を読むことは、今この世の中、この現実からいったん降りる、脱落するということ。[中略]読んで別の時間に逃避しても、文字の力によってどうしてももう一回現実の時間に押し流されてしまうところがある。自分が変わるということはそういうことなんだと思うんです。[中略]瞬発的な知識ではなく、じわじわと嫌な形で体にまわって、二日酔いのようになった状態でもう一度、現実に帰っていかなければならない。それが読書だと思います。」(:246-247、町田康)
「人は折り重なるように暮らした方が、全体として自然環境への負荷は小さいのである。[中略]田舎暮らしの方がエコであるという勘違いが多いのも、都市=消費生活といった連想からくる後ろめたさのたまものだろう。」(:184) 都市生活の良し悪しについては、もちろん各個人の向き不向きや心身への負荷も考慮すべきであるが、この「後ろめたさ」の指摘は重要。
「都市における時間感覚とは、常に「次」が迫ってくるような類のものだろう。[中略]誰かが、都市に住むということは、海水を飲むことであると言った。目の前にのどを潤すための水はいくらでもあるが、それを飲めば飲むほど喉は渇いていく。何でもあるが、のどだけは満たされない。むしろ、渇望だけが続くのが都市である。」(:185)ウシジマくんでも「生活保護くん」や「フリーエージェントくん」の結末は地方志向だったな…
「一分間(あやちゃんに)」の舞台は団地を思わせるが、読む人が読めばどこの団地かが(あるいは団地かどうかが)一読してわかるのだろうな。同じ建物に住むはずの、しかし見知らぬ男性の不穏さは、閉じた空間としてイメージされる場としての団地、を思わせる。
「僕が取材の中で出会った若いヤクザの多くが、「他のどこにも帰属できない」者だったからだ。痛すぎるほどに、想いが強い。他のどこでも使えないほど、危ない。[中略]スケールの違う不良少年もまた、実は孤独な存在だ。ヤバすぎて周りが引いてしまうからだ。そんな彼らにとって、ヤクザという組織もまた、ひとつの居場所だった。」(:188-189)
「[承前]カーヴァーの作品のなかで不意にわきあがるような暴力の予感は、そうした現実に気づいているにもかかわかかわらず、気づいていないふりをして生きていかねばならない人間の感情と深く結びついているように思う。(:261-262)
ウィリアム・H・ホワイト『組織のなかの人間』から孫引き。「組織によって提供される精神の平和は、一つの屈服であり、それがどんなに恩恵的に提供されようと、屈服であることに変わりはないのである。それが問題なのだ。」(:539)
「丸山眞男の有名な言葉を使うなら、そこ[中央線沿線]には社会の諸制度を所与の「自然」として考えるのではなく、人間によって構築された「作為」の産物として考える政治観があったからである。」(:109)同じ杉並区でも、中央線沿線と西武線沿線では住民の政治観が違ったという指摘、面白い。
「西友との競争に敗れたことぶき食品は、七〇年、アメリカに模範をあおぐロードサイドの外食産業へと転換を図った。アメリカに模範をあおいだ点ではかつての西武ストアーと共通していたが、ことぶき食品は団地=アメリカでなく、道路=アメリカという視点をとったわけである。この視点が当たって「すかいらーく」へと発展してゆくのはよく知られていよう。」(:160-161)
本作ではなく「ウシジマくん」だが、私は夜の砂浜で加茂が獏木に火をつけられるシーンが凄まじく恐ろしく美しいと思っている。あれを額装して部屋に飾りたいくらいに。恐ろしいものを一足とびに、見る人にとって決定的なものにしてしまう表現力が、この作者にはあると思う。
「この、環境はすっかり違っていて、人間にとって本能的なことだけが残り、それがいつもとは違った新鮮味を帯びるのが旅というものを楽くし、旅で食べるものをあんなに旨くするのだという気がしてならない。」(:116)
「旅をしている時だけ、普通並に人間らしい生活をするのでは、何れはやって行けなくなる。つまりは生活の問題になるらしくて、それが自分が住んでいる場所になければ、これをどうにかして取り戻す他ない。東京にも生活があっていい筈なのにとも、この頃は思うようになっている。」(:142)
「[前略]工場や団地、ジャンクションといった都市建造物などの写真を撮る写真家の大山顕は、「水運インフラのための日本橋川(これだって人工だ)、街道インフラ整備としての日本橋、そして昭和の大インフラ・首都高、と各時代のトランスポーテーション・インフラがミルフィーユのようになっている貴重な風景なのだ。ついでに地下には銀座線もいる。全四層」と、レイヤー型に積み重ねられる都市の構造を指摘する。大山にいわせると、「“醜い景観”があるわけじゃなくて“醜い見方”があるだけだと、ぼくは強く思う」」(:200)
「鉄道は、交通手段、テレビは映像メディア。両者はまったく別の分野に見えるが、メディア研究者のマーシャル・マクルーハンによるメディアの定義は、人間の身体を拡張するテクノロジーということになる。移動のための足の拡張である鉄道はメディアだ。また、線路というネットワークの向こうに接続された街について想像を巡らすことができるという意味においても十分メディア的である。」(:204)
「通過儀礼の移行の期間は、時間的に限定されているところに特徴がある。それは、時間が限定されているからこそ、本気で試練に立ち向かおうとする気持ちがわいてくるからである。」(:29)
「宮崎アニメの主人公たちが、どういった矛盾に直面しているのかは、つねにあいまいにされたままなのである。妙子はなぜ農村に惹かれ、ポルコは豚にされてしまったのか。その理由はさっぱりわからない。矛盾や試練が明確でなければ、通過儀礼に発展することはありえないのだ。」(:96)
ある作品が団地を取り上げる/団地を舞台とする理由。①「目撃する他者が発生する団地の構造を利用して描くという方向」②「生活の舞台の変化をテーマにするに当たり、モダニズムへの批判を込みで団地を取り上げるケース」(:185)
都営白鬚東アパート、早速画像を検索したが、これはすごい…! その他、マンションポエムについてのコラムや「地図メトラー」としての謎スキルなど、大山氏の並外れた洞察力に目を見張る。団地への欲望が転移する!
割と何でも読む。お気に入りの本を「365冊」本棚に入れています(自分にとって大切な本、すごく面白かった本などを、蠱毒みたいに365冊集めようという計画)。「参考文献」は研究関係(ジェンダー、セクシュアリティ、BL、ファンダム、精神分析、現代思想などなど)。感想・レビューはコメント欄に続きを書くことがあります。
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