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2024年3月の読書メーターまとめ

フリウリ
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308ナイス

2024年3月に読んだ本
31

2024年3月のお気に入られ登録
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2024年3月にナイスが最も多かった感想・レビュー

フリウリ
最初の「眼帯のミニーマウス」は、読み終わって切なくなったのですが、他も読み進めていくうちに、他者(特に常識人)との交流で疲れ果てる気持ちに共感しながらも、言いたいことは我慢しないで言ってしまえばいいのに、と思い、ヤキモキしました。が、最後の書き下ろし小説「老は害でも若は輩」は、一転しての言いたい放題で、今までの何だったんだよ、と苦笑しつつ、絶妙なバランスがとれていて、素晴らしいと思いました。おもしろいです。8
が「ナイス!」と言っています。

2024年3月の感想・レビュー一覧
31

フリウリ
小規模な未開社会においては、政治的権力はむしろ忌避されていたこと、政治的権力は他者に「貢納」を求めるところに発生すること、が述べられています。小規模社会に必要なのはリーダーではなく、お話が上手なスポークスマンであり、他の社会と接触して問題を収められる人であった、ということから、個人的には「学級委員」的な存在を想起しました。権力はいかなる場所にも発生する(リーダーを置かないことは権力を遍在させる意図かもしれない)という前提に立てば、権力一般と政治的権力は分けて考えるべき、ということは、理解できます。7
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フリウリ
ニセ聖職者のタルチェフに、一家の主人オルゴンが心酔し、家族の反対にも耳を傾けず、ようやくその悪党ぶりに気づいたのは、すでに一家の全財産を譲ったあと。さて、一家はどう戦うのか、というお話ですが、結末はちょっと都合がよすぎる気がします〔が、モリエールは王様(ルイ14世、太陽王)のお抱えだったのだから仕方がない〕。解説では、本作の上演に至った経緯(いざこざ)が説明されています。秘密結社「聖体秘蹟協会」、ルイ14世、そしてモリエールと、なかなか魅力的な登場人物が揃い、別のプロットが作れそうな勢いです。7
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フリウリ
モリエールを続けて読んでいて、「解毒的に」挟みました。ベケットを知ってしまっているのだから、仕方がないです。ベケットは「ゴトーを待ちながら」で大成功をおさめたにもかかわらず、次の「勝負の終わり」は、フランスでは上演できなかったそうです(初演は英国)。モリエールの時代から、およそ300年を経ています。7
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フリウリ
にせ医者が若い女性の恋の病を癒やすお話。当時の医学は瀉血、浣腸、下剤に吐き薬の投与くらいで、モリエールの劇中に出てくる医者役は、大きなとんがり帽子をかぶり、時に大きな浣腸器を携えていたそうです。このイメージに加え、女性には「甘口の浣腸」が必要と告げるなど、猥雑さも適度にミックスされ、観客には大ウケしたものと思われます。なお、本作品はラブレーの死(1553)から113年後(1666)に上演されています。Le Médecin malgré lui を「いやいやながら医者にされ」と訳すワザも、素晴らしい! 7
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フリウリ
放蕩を尽くし、騎士道にのっとり決闘もし(しかし決闘を避けようともする)、無神論を貫くドン・ジュアン。その性格に一貫性はないかもしれないけれど、行きあたりばったりで恐れを知らぬ自由奔放さは、とても魅力的です。型通り、石造りの像が出てきたのち、雷に打たれてドン・ジュアンは死にますが、石造りの像になった男は、かつて決闘で倒した相手、としか記されておらず、「騎士団長」ではありません。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」のほうが、元のお話(「セビリアの色事師と石の招客」)には忠実であるようです。7
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フリウリ
冒頭からの「今年の春」(昭和9年)、「今年の初夏」(昭和18年)、「今年の秋」(昭和34年)は、それぞれ父、母、弟の死が間近となり、瀬戸内の故郷に帰るお話です。淡々とした文章ですが、長く文章を書いてきたからこそ、このテーマが生きてくるわけで、素晴らしいと思いました。最後の「文学生活の六十年」(昭和37年)は談話の文字起こしのようですが、正宗白鳥の人となりがよく出ているように思われます。7
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フリウリ
セリメーヌとアルシノエの噂の応酬の場面は、こういうのあるよね〜と、ニヤニヤしながら読みました。最後に健全そうなフィラントとエリアントの二人がカップルになること、なおかつ失意の(でも自業自得です)のアルセストを立ち直らせたいとの気持ちを吐露するのがさわやかで、読後感がよろしいです。8
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フリウリ
あとがきで檜垣氏は、渡邊二郎さんがハイデガーを神格化、神秘化せずに「通俗化」したように、ドゥルーズも「通俗化」することが必要だ、と述べていて、本書はその「通俗化」に沿った線で、書かれているようです。たぶん「哲学屋」さんに向けて書かれているので、一般読者には難しく感じられるのだとおもいます。わたしも、もちろんさっぱりでしたが、いろいろな読み方でいいよねと、一般読者的に割り切りました。「入門と名乗る本に入門書なし」との格言?を思い出しました。7
フリウリ
2024/03/29 11:13

(メモ)図書館で借りて読んだが、読者メーターからいただいた1000ポイントを使って、電子書籍版を購入。もうちょっと進みたい。

フリウリ
2024/04/04 07:25

(メモ2)「意味の論理学」での表層における意味の生成(キャロル、差異と反復に引き続く、静的発生)、および深層(身体性)における意味の生成(アルトー、動的発生)という2つのテーマ。そして「意味の論理学」以降では、もはや「動的発生」という考え方に触れられることなく(=放棄され)、「機械」が語られるようになる。この展開がモヤモヤしていたので、整理された。

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フリウリ
「コーリング」「残響」の二作が入っています。意外に「コーリング」が、登場する人たちが際立つようで、よいと思いました。「残響」の野瀬俊夫の言うことは、すっと入ってきません。魂とか精神とかを抜きにして世界の仕組みを唯物論的に考えるのはよいとして、「世界が要請するもの」という表現における、要請する「世界」とは、端的に超越的なことのような気がします。よくわかりませんが。しかし社交上、理屈をこねて同居人に嫌われるのは、必然と思われます。ゆかりさんの洞察が印象的です。7
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フリウリ
下巻はハイウェイを100マイルで突っ走るスピード感で読みました。ハイウェイ的読書は、目的地には到着するものの、そのスピードを持続することに疲労します。主人公の母親はアフリカ系らしく、上巻表紙のナゾ?が解けました。4
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フリウリ
読み友さんが読んでらしておもしろそうだったので、図書館で借りました。予想はされたというものの、小説のストーリー性に関心のないすれっからしにはなかなか厳しい読書時間で、なんとか上巻を終えました。表紙を見て主人公はアフリカ系かと思ったのですが、どうも違うようです…? 5
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フリウリ
最近、Webサイトの記事で何度か紹介されたのを見て、読みました。ちょうど認知症関連のことをいくつか調べていたので、その履歴で誘導されたのだと思います。小説としては奇妙な形式ですが、わかってしまえば、他愛もないお話と、言えないこともありません。むしろ、認知症や老化への関心、およびその履歴から誘導されて、この小説にたどり着いたということが、わたし個人としては印象深く奇妙です。6
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フリウリ
木村氏の、例えば医学では普遍よりも特殊が大切であって、症状には必ず理由があるのだから薬で治まればよいわけではない、という考え方は明快で、現状のEBM至上主義的医学の問題点を突いています。一方、檜垣氏による哲学的文脈からの質問と背景解説からは、なにが問題なのかがよくみえてくるように思いました。精神科医と哲学者では、当然「ものの見方」にずれがあるので、そこをたどるのも一つの読み方と思います。7
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フリウリ
団地で猫を飼うだけの話なのだが、ドイツ猫の先生とか謎の電話女性とかが出てきて不穏な雰囲気。でもなんか笑ってしまう。相当おもしろいと思います。9
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フリウリ
シェイクスピアより約60年後に生まれたモリエール。本書は、喜劇と踊りの融合でコメディバレエというジャンルに分類されるそうで、セリフのテンポもよく、何度も笑わされました。結末は、トルコ人に扮した登場人物らがデタラメな言葉を使って、貴族になりたい町人ジュールダン氏をだますのですが、明治41年に日本で初上演されたときの翻訳が、あとがきにのっています。あとがきは短いものですが、初演時はジュールダン氏をモリエール本人が演じたとか、教えられることが多かったです。8
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フリウリ
久々に再読。蟠桃、雪嶺、露伴、司馬遼太郎などが引かれています。アンソロジー好きとして嫌いなわけはないはずですが、この本はどうしても好きになれない。谷沢の解説がしんきくさく感じられます。谷沢のマッチョな逆張り体質(なのに文学オタク)が合わないだけかもしれませんが。5
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フリウリ
以前に読んで難しい!と思ったのだけど、先日デリダの「動物を追う…」を読んでラカンのパートがちんぷんかんぷんだったので、本棚から取り出してみました。前半の「自分の欲望=他人の欲望」「鏡像」「対象a」はまあわかるのですが、後半になるほどわからない。で、いったん立ち止まり、デリダの当該箇所を試読したところ、デリダのラカンへの言及がなんとなく理解できて、びっくり。ということで(?)、「よい本」なんだと思います。なお著者のお名前は、保坂和志の本のなかで、お見かけしたような気がするのですが、定かではありません。8
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フリウリ
後藤明生の書くものは、「友人から来た手紙のように読める」(by吉田健一)ようになってきつつあるような気がして、とてもうれしいのですが、この闘病記のような小説のような闘病記…は、まるで自分自身が食道がんの手術を受ける患者であるかのように感じられ、正直なところ、相当怖かったです。わたしも後藤明生と同じように、先輩患者のT氏、主治医のY先生、A先生ら、そして看護師さんや患者仲間の皆さんにも、感謝したくなりました。9
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フリウリ
檜垣立哉「賭博/偶然の哲学」を読み、再読。「めぐり逢いの現象学」「偶然性の概念」「<運命>の思想史」「二つの出逢い」という4章立てで、偶然性と運命については別立てになっていて、章立て自体、興味深いです。九鬼の「偶然」については、定立的偶然=論理的偶然、仮言的偶然=経験的偶然、離接的偶然=形而上的偶然、と読み替えられていて、すっきり理解できます。偶然性=独立なる二元の邂逅、という九鬼の定義は、つくづく味わい深いと思います。最後にドストエフスキーが出てくる構成は、檜垣氏が真似たのか、あるいは偶然なのか…。9
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フリウリ
最初の「眼帯のミニーマウス」は、読み終わって切なくなったのですが、他も読み進めていくうちに、他者(特に常識人)との交流で疲れ果てる気持ちに共感しながらも、言いたいことは我慢しないで言ってしまえばいいのに、と思い、ヤキモキしました。が、最後の書き下ろし小説「老は害でも若は輩」は、一転しての言いたい放題で、今までの何だったんだよ、と苦笑しつつ、絶妙なバランスがとれていて、素晴らしいと思いました。おもしろいです。8
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フリウリ
読みながら、これはなにかに似ていると感じ、ああそうか、スティーヴン・キングとかディーン・クーンツとかの、90年代の文春文庫だと気づき、果たして本書の原著も、90年代に執筆されていました。思考実験的に構築した舞台を背景に(つまりSF的に)、ストーリーが映像のように連なっていて、おそらく矛盾や論理の破綻なく、緻密に構築されているはずですが、「出来上がったストーリー」に関心がない少数派?には、読みどころを見つけるのが難しかったです。個人的には「だれも死なない日」のように、ユーモアがあれば、と思いました。6
フリウリ
2024/03/17 04:44

(メモ)死体、ゴミなどはともかく、排泄物の氾濫が描かれているのは本当に素晴らしい。キングやクーンツなどのベストセラー作家には書けない要素だと思うし、逆にもしも本書がノーベル賞受賞の一因になったとするならば、ウンコとオシッコのせいだと思う。

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フリウリ
「貧福物語」に関して、商人的な意識をもつ秋成は、貨幣・蓄財をネタにして、仏教・儒教的常識を批判している、と読めるようです。雨月物語自体としては、日本の仏教関連説話や、中国の白話小説を軽やかに引用しているわけで、最後の最後で「掌返し」している印象もあり、大阪・堂島出身の遊び人の意気、なのかもしれません。全体の構成としては、対話性を介して最初の「白峯」と円環を描く、とされていますが、「貧福物語」のわからなさが、どこか「開かれている」という印象もあります。文献的なことを含めて、丁寧な解説を興味深く読みました。8
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フリウリ
以前関西に住んでいたとき、黒岩重吾の弟子、と名乗るけったいなおっちゃんに幾度か、何かとお世話になりました。図書館でこの本を見て、そのおっちゃんを思い出して借りましたが、そのおっちゃんが好きそうな世界であるし、実際にこういう世間に生きてはったんやな、と思いました。小説としては、特に何もありませんが、思い出せたことがよい経験でした。5
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フリウリ
後藤明生訳は、物語が淡々と進んでいき、読みやすくてよいです。他の小説家による訳と比べてみたいと思いました(特に石川淳訳と)。ところで、末尾の「貧福論」はやや異質の内容ではないかと感じられるのですが、ちくま学芸文庫版「雨月物語」の解説によると、「二句の詩句で大悟を得る」点で前の話(青頭巾)と連続し、「対話形式」という点で最初の話(白峯)に円環的に戻る、という特徴をもつとしています。形式としてはまあそうなのかな?と思いますが、内容については、わかるかどうかはともかく、もう少し読んでみたいと思います。8
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フリウリ
認知症に関して何らかの困りごとを抱えている人が読んで、新たな知識や視点を得られて役に立つならば、それでいいかもしれません。しかし、ここに書かれていることはほとんど、謙虚に人間の思考や行動について考えたり想像できる人ならば、もっと容易に、かつ簡易に「捉えられる」事柄であると思いました。人間の行動を工学的に捉える限り、どんなに記述量は増しても、思考は短絡化しています。いかにも今風なプレゼンテーションとあいまって、近寄りたくないと思いました。
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フリウリ
シェリングとハイデガー、江藤淳が突然福沢諭吉を持ち上げる件、そして何より小島信夫に関することなど、保坂氏の注意が向く領域やその向け方に関して、わたし自身がよく理解でき、重なるようなところはあるのですが、語り口が今ひとつ合いません。それは、著者の溢れ出る「若さ」ゆえかもしれず、2004~05年にかけて執筆された文章とのことで、おそらく40代半ばと思われ、「若さ」というのはおかしいかもしれないが、「老成」するとよいのでは、と思いました。逆に、これからの二十年でどう変わっていくのか、楽しみです。6
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フリウリ
「正しく無責任であること、これが食と殺すことを目の前にした人間が、社会のなかで平穏に暮らそうとおもったときになせる唯一のことではないだろうか」と著者はいいます。また、理屈の世界(言語の世界、言語が支配する法律的な世界)は人間に責任を求めたがるが、その世界は、人間が動物的身体をもつことがあからさまになる場面(食や性)とは決して折り合わないこと、そして動物的身体をもつ人間を切り捨てていくことは「虚偽」である、ともいっています。「町内一の無責任人間」を密かに自負している私としては、とてもよくわかる内容でした。7
フリウリ
2024/03/06 09:29

(メモ)「野生のニホンザルの普通の死に方は、つぎのようだということだ。まず体力がなくなり、群れから放置されて離脱する。 何も自分では食べることができなくなる。すると夜間に天敵たちがここぞとばかりに寄ってきて、朝になったら肛門から喰いちぎられている。これは例外ではなく、ほとんどの野生獣の最後は、生きたまま喰われるのであり、それが当然だというのである。」p44。大分の高崎山では、年間100頭以上のサルが死んでいるらしいが、「山に入ってもサルの死体は一度も見たことがない」と係の方が言っていたことを想起。

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フリウリ
とてもおもしろかった。九鬼周造の偶然性はとても難しいけれど、九鬼が言う偶然性と不可能性の相関性、そして偶然性は虚無であると同時に実在である、ということについて著者が、偶然的な発生(無から有への、始原の一突き)があらゆる現在に微分化して含まれている、と言い直すとき、わたしは感動(驚き、喜び)めいたものを覚えました。また、晩年のフーコーの言動は、何かヒューマンな温かいものではなく、シニカルで冷たいもの(人間は統計に支配される!)であったという指摘も腑に落ちました。フーコーもドゥルーズもいぢわるなぢいさん… 9
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フリウリ
前提となる知識がないと、何を言い、書いているのか、読者にはさっぱりわからないのが、このような編集本の弱点とはいえ、コアな読者(何人いるのか)のニーズにはあっているのでしょう(難しいのでよくわからない)。小泉義之氏(や丹生谷貴志氏)が、ドゥルーズを「老人の哲学者」としてみている、というのはとても腑に落ちるところがあって、なぜ自分が「哲学とは何か」(今まで気づいていなかったがドゥルーズほぼ晩年の執筆)に惹かれるのか、少し理解した気がしました。詩人も小説家も、晩年の作品が好きなので…。6
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フリウリ
八十年代半ば以降は、長谷川氏もつかこうへいとの直接的な仕事のつながりがなくなり、つかこうへいを介して知った人々との長谷川氏の仕事なども記載されていますが、いずれにしても、貴重なドキュメントだと思います。せっかくなので、1987年からつかこうへいが亡くなるまでのおよそ二十年の間のことも、残しておいてほしいです(別の著者の本があるのかもしれませんが……)。かつての「つかブーム」を知るおじさん、おばさん、たぶん今では六十代半ば以上であろう人々に向けて書く、とも言っているように、文字は大きめです。6
が「ナイス!」と言っています。
フリウリ
東京に来てからの武田麟太郎の小説、ルポなどを集めています。武田麟太郎が若かりし頃、なおプロレタリア文学が全盛であったことは、作家としての武田にとっては、一面で不幸であったと思います(プロレタリア文学はテーマが絞られ、作品の幅や奥行きが狭くなる傾向がある)。そのようななかでも、ちょっとした風景の描写などで、ああこれはただ者でない、と読み手を驚かせるような表現、文体があると思いました。1946年に武田は早逝したことが残念で、戦後に書かれるはずであった小説を読みたかったです。7
が「ナイス!」と言っています。

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2017/07/19(2475日経過)
記録初日
2017/07/19(2475日経過)
読んだ本
603冊(1日平均0.24冊)
読んだページ
198483ページ(1日平均80ページ)
感想・レビュー
595件(投稿率98.7%)
本棚
35棚
自己紹介

2022年夏~こまめにメモ。図書館、古書好き、詩を書く、本をつくる仕事

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