形式:新書
出版社:文藝春秋
形式:Kindle版
そもそも「理想の日本人」という概念は抽象的であり多義的である。それは国粋主義にも国際主義にも、権威主義にも民主主義にも結び付き得る。ときどきに「理想の日本人像」を打ち立ててきた歴史上の諸教育法は、それゆえ大抵両義的な内容を持っている。右派が賛美する教育勅語も左派が拘泥する教育基本法も、原文自体はどうとでも取れる抽象的なものなのだ。しかるに教育論争では諸問題が雑にパッケージングされ、イデオロギー対立が固定化されている。重要なのは右か左かではなく有用な理念を見つけること、その実行のため細部を詰めることだ。
こうして「理想の日本人像」という大上段な視座から教育を通覧してきた本書は、その結論部でプラグマティックな立場へ落ち着く。筆者の立場はバランスが取れているように思う。付言するなら、共同体の理想を構築すべき第一の理由は筆者の言うような「一部の熱心なひとびと」の抑制ではなく社会的紐帯あるいは美徳だと個人的には思うが、これは自分がコンサバだからだろう。このようにデータと出来事の単なる羅列という意味での「実証」ではない「中立」の立場から極めてイデオロギー的な対象を描ける点で、辻田真佐憲は貴重な歴史家だと思う。
2/2) 「教育勅語」は,意外と開明的な面があった(家永の評など)という指摘,「国体の本義」についてその内容が詳しく紹介されていること,いわゆる天皇の「人間宣言」全文を初めて読めたこと.その辺りが私には大きな収穫だった.なお,「勅令」の形を取ると内容に枢密院が介入できることは本書で指摘指摘されて初めて気付いた.
ここ十か月程明治探求をしてきながら縷々思ってきていることだが、現在というのは本当に明治末期-大正初期によく似ている。 英語化教育、芸術後回し、という矛盾(音楽家の自分からしたら酷い矛盾だ…和魂洋才なんてのがそもそも非論理的じゃないか?)さても自分がこれを読むまで知らなかった恐怖の味噌汁(今日麩の味噌汁であってほしい)は、『国体の本義』なる戦前文部省の入魂の著作。教育勅語、軍人勅語が読みようによっては素晴らしいとする論理が 今でもぬーっと背後に在ることは、今のプーチン諸々を支持することと同じと、憶えておく。
庸な考え方をします。さて、本書での発見が二つありました。①西園寺が文部大臣をしていた1895年に掲げていた方針は、科学教育を重視する、英語教育を普及する、女子教育を振興する、と現在と変わらないということです。1996年からの教育課程審議会の三浦朱門の言「できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかり注いでいた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。」天才は天才を発見する者がいて、はじめて能力を発揮できるはずですが…
戦後、学習指導要領に部分的に採用された期待される人間像は神を社会や企業に置き換えればまんまマックスウェーバーのプロ倫である。「われわれは自己の仕事を愛し、仕事に忠実であり、仕事に打ち込める人でなければならない」「全ての職業は、それを通じて国家、社会に寄与し、また自己と自家の生計を営む営むものとして、いずれも等しく尊い」「重要なのは職業の別ではなく、いかにその仕事に打ち込むかにあることを知るべきである」 凄いでしょ? 他の国はどうなんだろ?こういうのあるのかな?凄い気になるな日本だけじゃないのここまで凄いの
理念より実装と説かれているのだけど、悪しき実装の隠れ蓑としての理念ではと。著者の著作は知らない話を知る事が出来て(この本では教育勅語に対する家永三郎の態度とか)読み続けているのだけど、今回は立ち位置の違い(元々違っていると思いながらも読み続けているのだけど)を強く感じる記述が多かった。
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